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古本夜話874 岩生成一『南洋日本町の研究』と地人書館

『世界名著大事典』(平凡社)などによって、岩生成一の『南洋日本町の研究』が名著であることは仄聞していたけれど、それを入手するまで、昭和十五年に発行所を南亜細亜文化研究所、発売所を地人書館として刊行されたことを知らないでいた。
世界名著大事典

 その奥付によれば、南亜細亜文化研究所の住所は豊島区目白町で、代表者は白鳥清となっている。同研究所の詳細は不明だが、白鳥は東洋史学者白鳥庫吉の養子で、当時は学習院大教授も兼ねていたと思われる。発売所の地人書館の創業者上條勇は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 [上條勇 かみじょう・いさむ]一九〇〇~一九七五(明治三三~昭和五〇)地人書館創業者。松本市生れ。一九一四年(大正三)上京、坂本嘉治馬の冨山房、矢島一三の中興館などで働いたのち、三〇年(昭和五)独立、神田錦町に地人書館を創業。社名は地質学者小川琢治博士の命名という。『地理学講座』全一四巻を処女出版、地理・歴史・農業関係の学術書刊行に力を注ぎ、三四年(昭和九)には月刊雑誌『天気と気候』(昭和二四、『天文と気候』に改題、現在は『月刊天文』)を創刊した。『南洋日本町の研究』『大観大日本文化史書』などの名著を出版した。古地図の収蔵家としても知られた。

 どのような経緯があって、上條の地人書館と白鳥の南亜細亜文化研究所がリンクしたのかは不明であるし、地人書館の昭和戦前の出版物も確認できていないけれど、その歴史関係の学術書の刊行によるつながりと考えるべきであろう。だがいずれにしても『南洋日本町の研究』は上條の地人書館が「出版した」のではなく、発売所を引き受けたと訂正しなければならない。

 それに本連載679で、室伏高信の『南進論』から始まる南進論出版ブームにふれ、同700において、養賢堂のような農業書版元もまた参画していったことに言及しているが、それは地人書館のような出版社も同様だった。その南進論出版ブームと寄り添うかたちで、岩生の『南洋日本町の研究』の発売所を受け持ったことになろう。岩生は昭和四年から台北帝国大学で南洋史学講座を担当していたし、その原型となる「南洋日本町の盛衰」も、史学科研究年報に連載されたものである。「序」もそうした動向を意識しているように思えるし、次のように書き出されている。

近世初頭に始まる日本人の南洋発展は、我が国史上空前画期的な現象にして、啻に国史一般の理解に当つても看過出来難い許りでなく、殊に転換期に立つ当時の社会情勢の推移や、或は欧舶来航後俄に複雑化した我が海外交通史や、将又当時恰も東亜諸国民の角遂場の観を呈した南洋の国際事情の理解に当つても、一応徹底的に吟味検討せねばならぬ問題である。

 この「南洋の国際事情の理解に当つても、一応徹底的に吟味検討せねばならぬ問題」という文言は、当時の南進論ブームに対する警鐘のようでもある。この問題に関しては「断片的な研究」が発表されているだけで、遠き海外の地のことゆえに国内の関係資料は少なく、移民の大半が無名の人々にして記録もなく、それらに江戸幕府の切支丹禁制と鎖国政策が相乗している。また国外における関係資料収集の困難もある。岩生は大正十三、四年からこの研究に取り組み、「両度南洋に渡り、往時我が祖先の活躍せし現地に就いて、親しく其の遺跡を踏査して関係資料を蒐集するを得、更に又英、蘭、西、葡等関係諸国を巡歴して、其の秘庫深く蒐蔵する未刊の新史料を探訪する」ことにより、『南洋日本町の研究』を提出に至ったとされる。つまり日本と海外の新史料を交差させることによって同書は書かれたことになり、日本とヨーロッパの視線がクロスした「南洋日本町」の復元の試みといえよう。

 江戸時代に入ると、幕府は御朱印船貿易を躍進させ、南洋各地に渡航する商船の帆影は増えていくばかりだった。それは元和二年=一六一六年に至ると、大名、幕吏、大商人、さらに在留支那人、西洋人にまで及び、一八三を数えるに至る。それに伴って南洋各地に移住した日本人も一万人近くと推測され、各地に日本人町が出現していくことになった。それらは交趾=安南、柬埔寨=カンボヂヤ、暹羅=シャム(タイ)、呂宋=ルソン(マニラ)などで、岩生はそこでの日本町の発生、位置、規模と戸口数、行政と主要人物、各活動に関して、日本とヨーロッパの資料とデータを博捜し、立体的にそれぞれの町の具体的な姿を浮かび上がらせていく。

 そしてこれらの南洋日本町の建設の三つの特質として、日本人の相互依存、諸国民との商取引の利便、当該国官憲の外来人取締の必要が挙げられる。その形成は江戸時代初期からで、最大、最存続のルソン日本町は人口数三千人に及んだが、七、八十年の命脈を保ったに過ぎなかった。それは日本の寛永からの鎖国と江戸幕府による後援の欠如、女性移民数と移民永住者の減少、移民在住地の紛争への加担などが主たる要因とされる。それらを吟味した後、岩生は南洋日本町が在住民の活動活発により、その一時の存在は鮮明だったが、大局的には「鎖国を初め内外各方面の相重なる幾多の環境のために」「既に凋落することを余儀なくされたのは、我が国民の海外発展上よりも見ても、誠に惜しみても余りあること」と結んでいる。これらの結論を含めて、大東亜戦争下において、この学術研究書はどのように読まれたのであろうか。

 なお『南洋日本町の研究』は昭和四一年に岩波書店から復刻されている。
南洋日本町の研究


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