前回、「朝日常識講座」の一冊である米田実『太平洋問題』にふれた。これは朝日新聞社の昭和円本時代の企画と見なせるので、ここでその明細なども取り上げておきたい。なぜならば、何度か既述しているように、本連載の目的のひとつは円本の詳細を探索することでもあるからだ。
「同講座」は朝日新聞創刊四十周年を記念しての刊行で、『朝日新聞出版局50年史』が引いている社告によれば、「刻下必須の問題十種を選び、本社の同人各々その職責に関連した方面を分担し」たものであり、第二期も含め、その明細を示す。
Ⅰ
1 下村海南 | 『人口問題講話』 |
2 米田実 | 『世界の大勢』 |
3 大西斎 | 『支那の現状』 |
4 緒方竹虎 | 『議会の話』 |
5 関口泰 | 『労働問題講座』 |
6 柳田国男 | 『都市と農村』 |
7 牧野輝智 | 『物価の話』 |
8 土岐善麿 | 『文芸の話』 |
9 鈴木文四郎 | 『婦人問題の話』 |
10 杉村宏太郎 | 『新聞の話』 |
(『文芸の話』)
Ⅱ
1 米田実 | 『太平洋問題』 |
2 坂崎坦・仲田勝之助 | 『美術の話』 |
3 美土路昌一 | 『社会と新聞』 |
4 牧野輝智 | 『予算の話』 |
5 野村秀雄 | 『政党の話』 |
6 前田多門 | 『地方自治の話』 |
7 石川六郎 | 『最近の科学の話』 |
8 小宮吉三郎 | 『スポーツの話』 |
9 関口泰 | 『公民教育の話』 |
10 下村宏 | 『食糧問題の話』 |
続けて「第二朝日常識講座」が刊行されたのは、この四六判、本文9ポ総ルビつき、各巻三〇〇ページ前後、布装上製函入、予約定価五〇銭、しかも一時払い前納であれば、四円五〇銭の企画が、予約部数十六万部に及んだからである。先の『同50年史』の言葉を借りれば、その予約部数は「当時の業界の驚異的数字」で、「この成功は出版業界に衝撃を与えた」とされる。
しかもそれは外部の著者への依頼によるものではないので、「社内編集幹部の層の厚さ、イデオローグの豊富さを物語ってい」た。この「朝日常識講座」の成功に促されたのであろう「朝日政治経済叢書」「明治大正史」「朝日時局読本」が同じコンセプトで続いた。それに対し、「このような出版が本社で行われるようになってから、新聞社は出版に進出して業界を圧迫する、との非難が絶えずおこった」。だが新聞販売店は自社が専売する新聞社の出版物に販売に妙味を覚え、販売に熱を入れたとされるので、それが予約部数の「驚異的数字」につながり、さらに同様の企画が続いていったのだろう。
「朝日常識講座」に関しては、柳田国男の|『都市と農村』を拙著『郊外の果てへの旅/混住社会論』(論創社)、杉村広太郎については本連載650などで言及してきている。しかしその他の著者たちにはふれていないこともあり、判明した人物だけでもそのプロフィルを提出しておこう。
(『郊外の果てへの旅/混住社会論』)
『人口問題講座』や『食料問題の話』の下村海南=宏は逓信省から台湾総督府長官となり大正十年に朝日新聞に招かれ、翌年専務に就任し、新聞経営の一線に立っている。
『議会の話』の緒方竹虎は大阪朝日新聞社に入社し、大正一年に新年号の「大正」をスクープし、同七年に論説委員となり、イギリス留学を経て編集局長、昭和三年には取締役、同十一年には主筆、代表取締役となっている。
『労働問題講座』と『公民教育の話』の関口泰は台湾総督府事務官から、大正八年に大阪朝日新聞社に入社し、調査部部長、論説委員、政治部部長を経て、昭和十四年に退社後、文部省社会教育局、戦後は横浜市立大学長。
『婦人問題の話』の鈴木文四郎は大正六年に東京朝日新聞社に入社し、外報部に勤務し、シベリア出兵、ベルサイユ講話会議などの特派記者をして活躍する。大正十四年に社会部長、昭和十五年には取締役、戦時中は『ジャワ新聞』の経営にあたり、敗戦後は『リーダーズ・ダイジェスト』日本版編集長に迎えられる。
『美術の話』の坂崎坦は大正二年に東京朝日新聞社に入社し、在職中の十年から十二年かけて欧米へ留学し、フランスでモネに会う。昭和四年に学芸課長、翌年に部長となり、大正末から昭和初期にかけての新聞の美術批評の基礎を築く。仲田勝之助は朝日新聞社調査部に勤務し、美術批評と書評を担当。
『社会と新聞』の美土路昌一は明治四十一年に東京朝日新聞社に入社し、社会部記者、後に上海、ニューヨーク特派員を務め、社会部長、調査部長を経て、昭和九年編集局長に就任。翌年から取締役として戦時下の朝日新聞社の経営や編集に重要な役割を果たした。
『地方自治の話』の前田多門は内務省を経て、ILO政府側委員としてジュネーブに駐在後、フランス大使館参事監などを務め、退官して、昭和三年に朝日新聞論説員となる。戦後は文相にも就任。
確かにこれらの錚々たるメンバーは、当時の朝日新聞社の「社内編集幹部の層の厚さ、イデオローグの豊富さ」をそのまま伝えるもので、そういえば、夏目漱石も明治四十年に大学教授の内示を断わり、東京朝日新聞社に入り、最初の新聞小説『虞美人草』を連載したことを想起させてくれたのである。
(日本近代文学館復刻、『虞美人草』)
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