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古本夜話880 長谷川誠也『文芸と心理分析』

 長谷川誠也といえば、明治三十年からゾラなどを紹介し、日本の自然主義文学を開拓していった文芸評論家とされ、『長谷川天渓文芸評論集』(岩波文庫)や『島村抱月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集』(『明治文学全集』43、筑摩書房)が編まれている。また本連載866などの大木惇夫の博文館での上司、同872の高橋鐵の恩師でもあり、後者との関係では、同82の『フロイド精神分析学全集』の訳者、『文芸と心理分析』の著者という一面も有している。
長谷川天渓文芸評論集(『長谷川天渓文芸評論集』) f:id:OdaMitsuo:20190210180151j:plain:h120
 
 『文芸と心理分析』は昭和五年に出されているので、当時刊行中だった『フロイド精神分析学全集』の別巻、もしくは総解説のような位置づけで上梓されたのではないだろうか。それは四六判だが、六四二ページに及ぶもので、フロイト、文学、精神分析をめぐる啓蒙書としては大冊であり、様々な分野に多彩な影響を与えたと思われる。その「序言」は端的に同書の目的を示すように始まっている。

 現代の心理学、特に無意識を説く心理学の影響を受けた文芸には、どう言ふ特色があるか。また、これに影響を及ぼした主要な問題はなんであるか。この二つの問題を検べて記述すると共に、自然、文芸の性質に説き及んだのがこの書である。

 そして一八三〇年に書かれた心理分析文学の先駆としてスタンダールの『赤と黒』が挙げられ、それがロマン主義の時代に刊行されたゆえに、ほとんど評価されなかったし、作家もまた五〇年後に読まれるだろうと語っていたというエピソードを書きつけている。確かに一八八〇年代にスタンダールの『赤と黒』は詳細に読まれ、消化され、優れた心理描写を有する小説が生まれたし、今世紀に入って、プルーストの『失われた時を求めて』(一九一三年)、ジョイスの『ユリシーズ』(一九二二年)も刊行された。ただこの二作は難解であり、同様ではないけれど、そこに共通するのは心理の分析、それも望遠鏡や顕微鏡を用いて、過去、現在の心理を詳細に記した「心理分析文学の標本」といえる。
赤と黒 失われた時を求めて ユリシーズ

 このような『失われた時を求めて』『ユリシーズ』などの現代文学をふまえ、長谷川は文明に対するアンビヴァレントな心理、内省と自我の変容、フロイトのいうリビドーや無意識、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックス、ユングの心理タイプや集合無意識、夢と象徴、心理学的研究と近代文芸などが広範に論じられていく。タイトルに示されているように、文芸と心理分析をめぐって、ここまで広範に論じられた啓蒙書はなかったはずで、おそらく江戸川乱歩や高橋鐵も愛読者であり、また本連載82に乱歩の言を引いておいたが、新感覚派の作家たちも同様たったと思われる。とすれば、明治三十年代に長谷川は自然主義文学を嚮導したとされるけれど、昭和初期においては新感覚派に心理学と精神分析を開示したことになろうか。

 それも意外な側面だが、先の『明治文学全集』43所収の瀬沼茂樹「長谷川天渓」を読んで教えられたことがある。それは長谷川が、本連載690などのポール・ケーラスのオープンコート出版社が刊行していた雑誌『オープンコート』や『モニスト』の長きにわたる愛読者で、しかもケーラスの『科学的宗教』(鴻盟社、明治三十二年)、『仏教哲学』(同、同三十四年)を翻訳刊行していたことだ。

 長谷川は東京帝大哲学科教授のケーベル博士を通じて、ケーラスや雑誌のことも知ったようで、博文館に入社し、『太陽』の記者となってからも、両誌から記事を翻訳して掲載していたとされる。早稲田大学図書館には長谷川の蔵書印のある『オープンコート』が一八九七年から約六年間にわたって所蔵されているという。なお鈴木大拙がケーラスのところに渡ったのは一八九七年=明治三十年だが、長谷川と大拙の関係は不明である。

 また明治三十八年には文明堂から評論集『文芸観』を出している。文明堂は本連載558でふれたように、新仏教運動の近傍にあった版元である。先のケーラスの翻訳の版元の鴻盟社にしても、仏教界の中心人物である大内青巒が仏教伝道の目的で、明治十四年に設立したもので、仏教新聞『中外郵便通報』を創刊し、大内の『碧厳録講話』を始めとする仏教書を出版していた。それに大内は東洋大学学長に就任している。つまり鴻盟社も新仏教運動に寄り添っていた出版社だとわかるし、それに文明堂のことも考えれば、両社からケーラスの翻訳や自著を出版した長谷川にしても、これまで誰も指摘してこなかったけれど、新仏教運動の近傍にいたと判断していいように思われる。


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