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古本夜話881 フロイト、吉岡永美訳『トーテムとタブー』と啓明社

 前回の長谷川誠也『文芸と心理分析』の刊行が、やはり春陽堂の『フロイド精神分析学全集』全十巻と併走していたことを既述しておいた。それは本連載82などでふれておいたように、長谷川、大槻憲二、対馬完治、矢部八重吉を訳者とするものだった。ただ当初は他の人々も訳者として予定され、長谷川の『文芸と心理分析』の巻末広告によれば、意外なことに第九巻『トオテムとタブウ』は本連載133などの仲小路彰がその訳者となっていた。

 長谷川は同書の巻末において、当時のフロイトの翻訳者として、安田徳太郎、吉岡永美、大槻憲二、対馬完治、正木不如丘、新関良三、矢部八重吉の名前を挙げている。大槻、対馬、矢部は前述したように『フロイド精神分析学全集』の訳者であり、安田たちはやはり同時期に刊行されていたアルスの『フロイド精神分析大系』の訳者だった。こちらは全十五巻のうちの一巻が未刊に終わったとされる。そのタイトルと訳者を示す。

1『ヒステリ』 安田徳太郎訳
2『夢判断』上  新関良三訳
3『夢判断』下   〃
4『日常生活の異常心理』   丸井清泰訳
5『恋愛生活の心理』 未刊
6『快感原則の彼岸』  久保良英訳
7『精神分析入門』上  安田徳太郎訳
8『精神分析入門』下   〃
9『洒落の精神分析』 正木不如丘訳
10『芸術の分析』  篠田英雄他訳
11『トーテムとタブウ』 関 栄吉訳
12『幻想の未来』  木村謹治他訳
13『超意識心理学』 林 髞訳
14『戦争と死の精神分析』  菊池栄一他訳
15『異常性欲の分析』  林 髞他訳

フロイド精神分析大系  (第9巻)

 私は9の『洒落の精神分析』の一冊しか入手していないけれど、この『フロイド精神分析大系』のキャッチコピーには「最近の学会を悪魔の如く攪乱し神の如く驚倒帰依せしめたる大胆奇抜の新学説!」とある。それに「凡そ人間生活を基礎とする万般の諸問題は精神分析によつてのみ解決される。心の不思議、性の秘密を知らんとする人は読め!」と続いている。昭和初期において、フロイトの精神分析がどのようにして日本へと紹介されたのかの一端をうかがわせている。

 これも長谷川によれば、先に訳者として挙げられていなかった丸井清泰や久保良英はフロイト心理学の紹介者として知られていたようだ。ところが一人だけ『フロイド精神分析大系』の翻訳メンバーでない人物もいて、それは吉岡永美である。なぜ吉岡の名前が挙げられていたかというと、彼は昭和三年に啓明社から刊行の『トーテムとタブー』の訳者だったからだ。

 『トーテムとタブー』で、フロイトはトーテミズムと原始共同体の発生が時を同じくしているとの仮説を提起している。それぞれの共同体はそれぞれのトーテム動物を持ち、その共同体はトーテムと同一の祖先を持つという信仰で結ばれ、このトーテムに殺害の禁止と同一トーテム集団内での婚姻の禁止というタブーに支配されている。これは父親殺しと近親相姦のタブーと禁止を意味し、それを社会規範として、トーテム共同体が発祥したとされる。

 吉岡訳『トーテムとタブー』は一九二二年第三版を底本として翻訳されたもので、「訳者序」で、次のように述べている。

 本書は道徳、芸術、宗教、法律等偉大な文化的所産の起原を究明し、かのヴントの大著が企て尚ほ未解説のまま残されて居る民族心理学上の諸問題に解説を試みようとする労作である。トーテムは家族制度以前の、而してそれよりも強い原始群の紐帯となつたものであつた。著者はトーテムの精神分析的見地から、原罪―クリストの犠牲死―家族制組織―国家形成に至る関連と其の発展過程を論述して居る。従つて太初の人間が強固な群又は部族的集団をなして生活をした一側面の犀利な観察であり社会科学上の一貢献であるといへよう。

 解釈の間違い、及び「近親不倫」や「万有精神論」などの訳語の問題はあるにしても、これが初訳であることを考慮すれば、よくぞ訳出してくれたという感慨を覚えざるを得ない。しかしこの吉岡のプロフィルはつかめないし、どのような人物なのか、想像をたくましくするばかりだ。

 それはまた出版社の啓明社にしても同様で、この版元は磯貝錦一を発行者、下川隆博を印刷者とし、その住所は麹町区元園町にある。これらの奥付の記載だが、その下の部分井小さく「平凡社 印行」と記されている。「印行」とは印刷所をさすことからすれば、『トーテムとタブー』は平凡社を通じて関連の印刷所が担ったことになる。また啓明社とは下中弥三郎が平凡社を発足させる前に立ち上げていた教育団体の啓明会を想起させる。

 啓明会は大正八年に立ち上げられた埼玉師範の教え子たちを中心とする教育団体で、機関誌『啓明』を創刊し、翌年には教員組合の色彩も帯び、「啓明パンフレット」なども刊行していた。しかし『平凡社六十年史』によれば、昭和二年に啓明会は分裂してしまったという。
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 この啓明社の磯貝錦一は啓明会の関係者と見ていいように思われる。また『トーテムとタブー』の巻末広告に、啓明社と住所を同じくする『米国旅行案内』『欧州旅行案内』などの海外旅行案内社、荘原達『農民組合論』を始めとする「農村問題叢書」の社会評論社が掲載されているが、これは啓明会が分裂後、それぞれが下中を頼って、事務所を同じくし、出版社として独立したことを物語っているのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190213112213j:plain:h120(『農民組合論』)

 
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