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古本夜話896 ポレ、マスペロ『カムボヂァ民俗誌』

 本連載894のアンリ・ムオ『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』の訳者の大岩誠は、昭和十九年にもカンボジア関連書を翻訳している。それはグイ・ポレ、エヴリーヌ・マスペロ著『カムボヂァ民俗誌』で、個人訳ではなく、浅見篤との共訳である。大岩の「訳序」によれば、「わが親友、浅野晃君の一方ならぬ斡旋」で、生活社を通じ、著作権保護同盟の手により、翻訳権を確保したが、大東亜戦争下で多忙を極め、「思を同じうする友、浅見篤君協力」を得て訳業は完成したとされる。この著作権保護同盟は昭和十四年に菊池寛を会長として設立された著作権の仲介業務を行なう社団法人、浅見篤はフランス文学者である。
 アンコールワットの発見 (『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』、まちごとパブリッシング"復刻版)
カムボヂァ民俗誌 (『カムボヂァ民俗誌』、大空社復刻)

 邦訳サブタイトルの『クメール族の慣習』を原題とする同書は、一九三八年にパリで出されている。著者たちはこれも本連載579のマルセル・グラネに師事し、夫妻でプノム・ペンに住み、ポレはアンドレ・ジッドの甥、エヴリーヌもマスペロ一族の娘で、『道教』(川勝義雄訳、東洋文庫)のアンリ・マスペロの姪であるようだ。

道教

 「序」を寄せているのは本連載894のフランス極東学院のジョルジュ・セデスで、実際に同書の誕生に立ち合ったものとして、その独創性は過去と現在のカムボヂァにつていの正確な知識と観察に基づく生彩ある描写だと述べている。それゆえに「時には印象派の技法をもつ効果」も発揮され、「カムボヂァ人のやうに親しみ易く且つ、しかも鋭い風刺に充ち、クメールの国の蒼空のやうに豊かな陽光に溢れてゐる」と。

 それは抄録とはいえ、二十五枚の口絵写真にもうかがわれ、クメールの起源、歴史、宗教、信仰、祭礼などがトレースされていく。しかもそれらの記述にはムオの著作の穂あkあにも、本連載でも取り上げてきたドラポルト『アンコール踏査行』、グロスリエ『アンコオル遺蹟』、セデス『アンコール遺跡』、周達観『真臘風土記』などが参照され、その描写の中に溶け込んでいて、「印象派の技法」を想起させている。例えば、プノム・ペンのところを引いてみよう。

アンコール踏査行(『アンコール踏査行』) アンコール遺跡 真臘風土記

 プノム・ペンは五十年前までは深泥の岸にある茅葦小屋の群れにすぎなかつたが、今では木々の緑に蔽はれた小さく纏まつた白い町にになつてゐる。
 ゆつたりと地面に余裕をもたせ、不器用に出来てゐはするが、さすがに良識または才能を具へたひとびとが代るかはるに仕上げて行つただけあつて、この町はぬかりなくひとを楽しい幻想に誘ひ入れてくれる。河ぞひに、「四つ手」の流れに臨んで支那町、王宮地区、尖つた土地と凹んだ土地がある。(中略)大部分が古いバンガローや、町はづれのヨーロッパ流乃至アジア式の別荘(ヴィラ)で、それが盛り上る木々に包まれた、緑のあちこちにおしろばな(アジウガンヴィリア)の紫が咲き映える。新しい並木道や築き上げた掘割の土手を埋めて撩乱たる花園がある。近代的な停車場は青味がかつた白堊の大きな建物で、駅前の「人力車」はあたかも虫のやうに見える。(中略)だが、すべては太陽がうまく調和をとつてゐる。大通りもない。堂々たる珈琲店(キヤツフェ)もない。電車もない。ひとは鳥の囀りを聞く。日暮になれば蟬しぐれである。(……)

 ここに見える「王宮地区」や「バンガロー」への言及から、ほぼ同時代にそこで少女時代を送った、やはりフランス人を思い出す。それはマルグリット・デュラスで、彼女は『愛人』(清水徹訳、河出書房新社)で、一九二〇年第の仏領インドシナを舞台とし、中国人青年とフランス人少女の愛を描いている。ミシェル・ポルトによる彼女のインタヴュー集『マルグリット・デュラスの世界』(舛田かおり訳、青土社)によれば、プノンペンのメコン河に臨んだカンボジアの旧王宮の大きな家や西部の平原の広大な分譲地のバンガローに住んでいたという。同書には現地の服をまとった彼女の写真も収録されている。
愛人 マルグリット・デュラスの世界

 本連載で続けて、フランス人が記したカンボジアやアンコールに言及してきたが、フランスにおけるオリエンタリズムと東洋幻想の形成は、もうひとつの植民地ベトナムと並んで、両者による大きな影響を受けているにちがいない。そしてそれが大東亜共栄圏構想下において、日本へと還流し、南進論とリンクしていったことを、これらの翻訳は告げていると思われる。

『カムボヂァ民俗誌』は奥付に昭和十九年五月一〇日発行千五百部とある。所持する一冊は裸本だが、A5判上製、三二四ページに及び、函入だったとも考えられる。戦争と時代状況は日本海軍に大打撃を与えたマリアナ沖海戦が迫りつつあり、出版、ジャーナリズムにおいても、『中央公論』や『改造』の編集者たちが検挙される横浜事件が起き、新聞の夕刊が廃止され、中央公論社と改造社に対しても、雑誌廃刊命令が出されようとしていた。

 そのような中で、治外法権的出版のように『カムボヂァ民俗誌』は翻訳刊行されたことになる。定価は七円四十銭である。しかもその巻末広告には既刊として、次のような書目が挙がっている。フレイザー『金枝篇』(上中、永橋卓介訳)、ラッシエル『アジア民族誌』(向坂逸郎訳)、ミルン『シャン民俗誌』(牧野、落合訳)、費孝通『支那の農民生活』(仙波・塩谷訳)、カルプ『南支那の村落生活』、本連載735のウラヂミルッオフ『蒙古社会制度史』(外務省調査部訳)、リヤザノフスキー『蒙古法の基本原理』(青木富太郎訳)、また近刊として、シロコゴロフ『満州族の社会組織』(大間知・戸田訳)も添えられている。
f:id:OdaMitsuo:20190315165133j:plain:h115 (『支那の農民生活』) 

 版元の生活社にしても、本連載578など、また河津一哉、北村正之『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」20)で、花森と生活社について言及している。生活社全出版目録があれば、それらの謎のいくつかは解明されるはずだが、それはまだ実現していない。
『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』

 とりあえず、ここでずっと言及してきたアンコール・ワットに関することを終えるので、その間に手元に置き、常に参照し、啓発された一冊を挙げて置きたい。それは谷克二他『アンコール・ワット』(「旅名人ブックス」35、日経BP企画)である。
アンコール・ワット


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