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古本夜話901 『世界地理政治大系』と室賀信夫『印度支那』

 白揚社に関しては本連載115や229でふれているが、ここから昭和十六年に『世界地理政治大系』全十五巻が刊行され、そこには続けてふれてきた『印度支那』の一巻が収録されている。 監修者は地理学者で京都帝大教授の小牧実繁である。その「監修の辞」を引いてみる。
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 時局の進展と共に国民は齊しく世界の地理的事情に対する関心を昂め、正しき地理学の出現を切実に要望しつゝあるかに見える。この時に当つて、高き理想に導かれ多年の研鑽を経たる真摯なる業績を世に問ふことは、我々地理学徒に課せられた当然の責務であると信ずる。私は夙に欧米的学風の旧殻を脱し真に日本的なる地理学を建設して正しき国策の遂行に寄与せんとする念願から、平成直接私の指導を受けつゝある気鋭の学徒をして世界各地域に亘る地政学的研究に従はしめてゐたのであるが、幸にしてこれら諸子はよくこの意を体し、夙夜精励して今や夫々専攻諸地域に関するエキスパートたるの実を具ふるに至つた。茲に私はこれら諸学徒の手になる膨大なる業績に更に綿密なる添削を施し、又自らその一部に執筆して、本大系の十五巻の刊行を期したのである。

 そしてこれが「欧米的謀略の我国に於る浸潤」から脱し、「真に日本的なる地理学を建設」し、「『日本へ還れ』と呼びかけるもの」だとも述べられている。「推薦の辞」は総力戦研究所長の飯村穣と京都帝大総長の羽田享が寄せ、ともに小牧が『日本地政学宣言』を著わしていることを掲げ、前者は「皇道に則る真の日本地政学を提唱した憂国の学者」の計画、後者はゲオポリティークに基づく「新らしき歴史地理学」の試みとするオマージュを送っている。それらはこの『世界地理政治大系』が大東亜共栄圏構想下における地政学的政治地理学であることを伝えている。

 このコンテンツと著者を挙げておく。

1『日本』 京都帝大教授 小牧実繁
2『満洲・支那』 和歌山高商教授 米倉二郎
3『印度支那』 京都帝大講師  室賀信夫
4『蘭領東印度』 大阪商大予科兼高商教授  別枝篤彦
5『太平洋』  〃    〃
6『豪州』  京都帝大副手  和田俊二
7『シベリア・蒙彊、西蔵』  京都帝大副手 三上正利
8『印度』 京都帝大人文科学研究所嘱託  浅井得一
9『アフガニスタ・イアン・イラク・アラビアン』 甲南高校教授  松井武敏
10『土耳古・シリア・パレスチナ』 京都帝大講師  野間三郎
11『欧羅巴』   〃
12『アフリカ』  同志社大学予科兼龍谷大学講師  朝倉陽二郎
13『北アメリカ洲』 京都帝大副手  川上喜代四
14『中南米』 京都帝大副手  柴田孝夫
15『北極と南極』 小牧実繁、 川上喜代四

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 これはまったくの偶然であるけれど、古本屋の均一台から3の『印度支那』だけを拾っている。それには「文部省推薦図書」という帯が付され、奥付には昭和十七年二月訂正三版との記載がある事実からすれば、大東亜戦争下において、好評のうちに迎えられたと推測される。この巻は「仏印・タオ・ビルマ・マレー」を対象とするもので、室賀が巻末収録の「内容」紹介で示している言に従えば、「東南アジアの地政学は我が南進政策の基礎たるべきもの」である。そして日本軍の仏印進駐、タイの向背、支那ポールの英米嚮導防衛、ビルマの独立運動などは、「本来アジア的なるものゝヨーロッパ的歪曲に於る矛盾の表現に他ならない」とし、印度支那半島の「運命の地理的必然」を明らかにすることを目的としている。

 そのために仏印、タイ、ビルマ、マレーの自然的基礎としての地貌と気候、住民の構成としての人口と民族がまず挙げられ、続いて歴史的背景としての先住民時代、新興民族時代、白人侵寇時代がたどられていく。続いて資源と経済としての農業、及び畜産、林産、水産業、鉱山資源、工業の見取図が示され、白人侵寇時代以後の列強の圧力と民族の反発としての英領マレーの地政学的意義、苦悶するビルマ、タイの覚醒、仏領印度支那の帰趨が言及され、『印度支那』の結論としての「新しい秩序へ」が提出されるに至る。

 それは「皇帝の南仏印進駐」に象徴される「東南アジア新秩序の建設」に他ならない。ここに見られる日本と仏印の協力は「白人支配下の南洋圏の一画の崩壊」を意味するだけでなく、「日本がこれによつて全南洋圏を制圧する位置を占め得た」ことにもなる。かくして「印度支那半島と日本との結合は、この半島のもつ地域的発展の必然的過程であり、また大東亜共栄圏と名づけられる地域生成への一契機」とされ、また「我が南進政策が歴史地理的必然」なのだ。

 このようにして小牧のいう「日本地政学」のもとに、京都帝大の地理学徒たちが総動員され、『世界地理政治大系』も編まれたことになる。これは未見だが、巻末に同じく白揚社の『支那地理歴史大系』全十巻の予約募集案内も示されている。それは地理学の分野だけでなく、本連載で繰り返し取り上げてきたように、すべての研究領域においても同様だったのであり、これからもさらに言及することになろう。
f:id:OdaMitsuo:20190321110421j:plain:h120(『支那地理歴史大系』第一巻、『支那及び満洲国現勢地理』)


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