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古本夜話904 「開拓文学叢書」と福田清人『日輪兵舎』

 前回の「大陸叢書」と同時代に、やはり朝日新聞社から「開拓文学叢書」が出されている。それは「大陸叢書」と異なり、和田伝『大日向村』、福田清人『日輪兵舎』、丸山義二『庄内平野』の三冊だけで終わってしまったようだ。私にしても福田の『日輪兵舎』は所持していたにもかかわらず、『朝日新聞社図書目録』を確認するまでは、それが「開拓文学叢書」の一冊であることを知らずにいた。
大日向村  f:id:OdaMitsuo:20190321163832j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190321163411j:plain:h120

 福田に関しては後に本連載で言及するつもりなので、ここではこの『日輪兵舎』、及びそれに関連する事象を見てみたい。この小説は宮城県遠田郡南郷村の小森為男が、早朝に東北本線の鹿島台駅に新聞を受け取りにいく場面から始まっている。南郷村の八割ほどの土地は三十八戸の大地主によって占められ、その他の千戸の農家は小作農の立場にあった。為男の家も小作農で、両親と兄の営む農地はあまりに狭すぎたので、彼は高等小学校を出て新聞配達に携わりながら、郵便局員の資格試験を受けようとしていた。

 その南郷村には大地主が寄付し、新築した高等国民学校があり、校長の杉山は札幌の農科大学を出た農学士だった。彼は卒業生を出す段になって、南郷村は働く農地が不足していることから、ブラジル移住を構想していたが、加藤という満洲移民運動を続けている人物と出会い、ブラジルを満蒙の天地へと転換させる。そして卒業式に際し、「地に生きて、満蒙の土に新しく、深い鍬をいれようといふ人」に呼びかける。そして集まった八人の卒業生たちと、訓練場としての山での荒地開発作業に励む。杉山にとって、そこは「満蒙の地」「大陸の土」のように思えてきた。脱落しなかった五人に対し、村では壮行会が催され、彼らは満洲へ出発した。それに為男も続いた。

 昭和八年に為男たちが渡満して以来、武装移民の問題が露出してくる。そのような中にあって、杉山は「満洲気違ひ」といわれながらも、満州視察に向かい、次のような認識を得る。

 日本の民族の生命(いのち)は、満州にあふれて、この土地に興りつゝある新しい国の声明を生々とよみがへらせ、また日本そのものの生命も、そのことによつて新しい血をそゝがれて、創世記のやうな青春をとりもどすことが、はつきりと感ぜられた。
 その新しい国つくりは、日本の農民のふかくうちこむ鍬でなければあらない。それはたゞ単なる人口過剰による移民政策といふやうな、あるひは就職難の緩和といふやうな卑近な現実生活的な技術の問題ではない。もつともつと、深い本質的なものが横たわつてゐるのだ。この視察によつて初めて、杉山はそのふかぶかとして鉱脈のやうな、おごそかな実体にふれ、宗教的開眼にも似たものをえて帰つた。

 これが当時の満洲に向けられた日本からの眼差しに他ならないだろう。満洲は異なる先住民族の地ではなく、「日本の民族の生命」によって「新しい国つくり」をめざし、「宗教的開眼」といった「おごそかな実体」に包まれているのだ。それは満洲の地における『古事記』や『日本書紀』の再現を見ていることになる。福田は杉山に「神秘主義的傾向」「民族主義的理想主義」「宗教的にまでたかめられた、農民の立場による民族的理念」を託しているが、それらこそ大東亜共栄圏の理念であったし、満洲こそはそれらの象徴なのだ。

 しかしその一方で、ソヴェトの国境に近いウエリイ江の近傍に滞在している為男たちは開拓というよりも、祖国の生命線の最前衛にいるような環境の中にあった。すなわち鎌や鍬ではなく、剣と銃という武装移民の立場に近かった。そうして昭和十一年を迎えようとする中で、杉山は好調退職後も、南郷村満蒙移民後援会を結成し、移民計画とそれに基づく第二南郷村の設置を推進していた。

 その年に南郷村から送り出された二十二名の少年隊の半数は為男たちと合流し、満洲の地に日本人宿舎として、建築指導者が「夢のうちに暗示を与へられ」、創案した日輪兵舎を建てることになった。それは「傘をひろげたやうな円形の、(中略)蒙古の包(パオ)に似た不思議な建物」だった。この名前は日輪の万物を育てる慈愛と何ものも焼き尽くす赫々たる熱の二相に由来し、教室兼トーチカとして名づけられたのである。そしてそれは飛行機から見れば、大きな日の丸の旗のようにも見え、完成に至る。

 昭和十二年の秋には為男たちがトラクターで処女地を耕している姿が見られるようになった。来春には新たな耕作地となって出現するであろうし、杉山からは満蒙開拓青少年義勇軍という新しい組織に基づく国民運動を、政府に建白書として提出したとの報告も届く。そして日本でも日輪兵舎が茨城の松林地帯に三百棟が建てられ、義勇軍訓練所となり、全国から幾千の若者たちが集まり、唱和する声が轟く。「三百の日輪兵舎と、千本の松の林の影をひきつゝ、いま若き太陽は登つてゆく。日本の夜明けの日輪は登つてゆく」と閉じられ、この『日輪兵舎』は終わる。

 福田はその「後書」において、「私たち大陸に関心を持つ作家たちが、大陸開拓文芸懇話会を結成したのは、昭和十四年二月」で、その後「会員たちと共に、茨城県内原の、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の渡満部隊壮行会に参列した」と書いている。福田は「その日の強い感動」を背景として、さらに大陸開拓文芸懇話会の現地派遣団の一員となり、大陸の旅を続け、青少年義勇団を中心に見て歩き、それから南郷村も訪れ、この『日輪兵舎』を書き上げたとわかる。

 『日本近代文学大事典』には「開拓文学」の立項が見出され、大陸開拓文芸懇話会の結成動機は、日本が満洲に五百万人の開拓民を送り、民族協和の理想国家建設という国策への協力にあったとされる。また同会に関しては川村湊『異郷の昭和文学』(岩波新書)にも言及がある。会長はこれも本連載786などの岸田国士で、「開拓文学叢書」の福田は内地農村の行きづまりの打開を求めた同185の和田伝や、同199の丸山義二と同じ位相に置かれていたことになる。福田の系列作品として、『松花江』(昭和書房、昭和十五年)、『東宮大佐』(東亜開拓社、同十七年)などがあるようだが、これらは入手に至っていない。

異郷の昭和文学  f:id:OdaMitsuo:20190326171332j:plain:h115(『松花江』)


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