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古本夜話907  タイラー『原始文化』

 前々回、画期的な写真集である熊谷元一『会地村』に関し、柳田国男からの言及がなかったことにふれたが、それは民俗、民族学の翻訳書も同様だと思われる。
 f:id:OdaMitsuo:20190326172750j:plain:h115(朝日新聞社版)

 本連載755の棚瀬襄治『民族宗教の研究』や同758の南江二郎『原始民俗仮面考』には重要な基礎文献として、エドワード・タイラーの『原始文化』が挙げられている。この翻訳は両書に記載されていないし、それは『世界名著大事典』(平凡社)なども同様なので、戦前には邦訳が出ていないと思っていた。ところが数年前に古書目録のアカシヤ書店の欄に、明治三十五年刊行のタイラー『原始文化』を見つけ、申しこんだのだが、外れてしまったのか送られてこなかった。そこで国会図書館を確認してみると、こちらにも架蔵がなく、目録の明治三十五年の翻訳は出版社も訳者も不明のままで、いまだもって未見である。
f:id:OdaMitsuo:20190331151211j:plain(誠信書房版)

 そのために『原始文化』の邦訳を読むとすれば、昭和三十七年に出された比屋根安定による誠信書房版しかない。ただこれは比屋根も断っているように、原書は上下巻千ページ近い大冊であることから、抄訳というかたちを採用している。しかしそれは賢明な選択だといえるし、かえってコンパクトに原書のエッセンスを伝えていよう。

 『岩波西洋人名辞典増補版』にタイラーの簡略なプロフィルの紹介が見られるので、まずはそれを引いてみる。
 岩波西洋人名辞典増補版

 タイラー Tylor, Sir Edward Burnett 1832.10.2―1917.1.2
 イギリスの人類学者、民族学者、メキシコおよびキューバに旅行し(1856)、その後先史時代人や未開人の文化に関する広い知識をもつにしたがって、文明の進歩と文化の地理的公布ならびに伝播の研究に向った。やがてオクスフォード大学における人類学研究の指導者となり(84-95)、同大学人類学初代教授をつとめた(95-1909)。彼の業績として最も注意すべきものは宗教の起源と進化に関するアニミズム(animism)の論であり、また人類学研究の対象を文化として、研究方向を示した点である。彼はこの観点から現在の未開の民族中にわれわれ文明人の先祖が通過した太古の文化要素の〈残存 survivals〉を認め、これによって人類文化史を再構成しようと試みた。(後略)

 後半の部分は書名が挙げられていないけれど、『原始文化』Primitive Culture)の要約といっていいだろう。同書は文化の科学から始まり、その発展と残存、言語問題、計数技術、神話、アニミズム、儀礼などの九章仕立てである。だがその半ば以上がアニミズムと神話で占められていることから、比屋根訳はそれに新たな章題を付し、十八章構成となっている。

Primitive Culture

 それを読んでいくと、「神話・哲学・宗教・言語・芸能・風習に関する研究」というサブタイトルの意味が浮かび上がってくるし、『原始文化』が先史学、人類学、民俗学、宗教学の先駆けの著作だったことが伝わってくる。想像するに、国民国家としての英国のルーツ探究の書であり、本連載101などの英国心霊研究協会や同514などのマックス・ミュラーの『東方聖書』、同83のプラトンの発見ともリンクしているように思える。また同書に大いなる感動を受け、フレーザーが『金枝篇』に向かうきっかけとなったことも了解される。

金枝篇 (『金枝篇』) 

 そうした入口のような部分が第七章「神話と生気説」に見えている。そこでタイラーは人間の想像の過程を研究する主題としての神話に言及し、神話が文明の各時期や異なる民族を通じて、どのような構造を有しているかを問うことが重要だと述べている。その神話研究には広範な知識に基づく広きにわたる分野を視野に入れるべきで、それらによって精神の法則と想像の過程が明らかになり、神話のほうが歴史よりも一貫しているとされる。

 だが神話解読の秘儀は忘れられてしまっているので、それを回復するために古代の言語、詩、民間伝説の探究が必要となり、グリム兄弟の採集やマックス・ミュラーのリグ・ヴェーダ編集に至る。「アーリア民族の言語と文学とは、初期の神話段階を明らかにし、自然を歌う詩の発生を示している」からでもある。

 しかしタイラーはそのままアーリア神話学に向かわず、未開人の神話と文明諸国との神話の関係に視座を定め、「未開な神話を基礎として取り上げ、それから文明の進んだ民族の神話を考え、これが未開の神話と似た起源より生じたことを、明らかにしよう」とする。そのためにタイラーは「生気説」=アニミズムのコンセプトを導入していく。それによれば、人間と同様にすべての動植物、無生物に至るまでアニマを有し、生きている。それゆえに原始未開民族は自然物を崇拝し、自然物のアニマは人間と同じく、一時的、もしくは永久にその物から遊離して存在すると目されるので、アニマは精霊であり、それが後代には霊魂、あるいは神の観点まで発達していく。そしてタイラーはこのアニマ観念の発生が未開民族の夢、病気、死の観察などから始まり、人間の霊魂と万物の霊魂から類推して、これを生きた人格のある在者、すなわち神と見なすに至る。それらのプロセスは現代の文明民族の文学、風習、信仰のうちにも現れているし、宗教の根源も原始民族のアニミズムそのものに見出される。

 このタイラーの『原始文化』は本連載745などの東大人類学教室の人々に大きな影響を与えたにちがいない。その創立者の坪井正五郎は明治二十五年に英国人類学会会員に選出されているし、坪井の著作集『うしのよだれ』(国書刊行会)にはタイラーへの言及は見られないけれど、タイラーに会っていたとも考えられる。そして東大人類学教室の様々な活動と研究も、『原始文化』を抜きにして語れないつぃ、集古会にしても、山中共古は『原始文化』を読んでいたとどこかで語っていたように記憶している。それらもあり、最初に戻ると、誰が翻訳者だったのだろうか。

うしのよだれ (『うしのよだれ』)

 最近になって、『原始文化』(松村一男訳、国書刊行会)の全訳が出され始めた。
原始文化


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