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古本夜話908 ヴント『民族心理より見たる政治的社会』

 前回の比屋根安定によれば、タイラー『原始文化』の所説はヴントの『民族心理学』へと継承されたこともあって、比屋根は後者も誠信書房から翻訳している。ただこれは全十九巻からなる『民族心理学』を要約した『民族心理学要論』の翻訳であるようだ。
f:id:OdaMitsuo:20190331151211j:plain:h115(誠信書房版)

 『世界名著大事典』の解題に従うと、『民族心理学』は一九一一年から二〇年にかけて出版され、第一、二巻が言語、第三巻が芸術、第四巻から六巻までが神話と宗教、第七、八巻が社会、第九巻が法律、第十巻が文化と歴史という構成で、そのうちの第八巻だけが日本評論社から平野義太郎訳で刊行されている。本連載582ではないけれど、またしても平野義太郎と日本評論社の組み合わせで、日本評論社も全出版目録を残していないことが残念でもある。日本評論社から出た同604の千倉書房のように全出版目録を出していれば、支那事変以後の出版物の明細を知ることができるのだが、それは現在からすると、収集が難しいだろう。
世界名著大事典

 それでもこの平野訳『民族心理より見たる政治的社会』は入手している。菊判函入、上製四二八ページで、『民族心理学』を全訳するならば、五千ページに及んでしまうと推測され、製作費や販売のことを考えても、全訳の難しさを教えてくれる。それらのことはタイラー『原始文化』にも共通しているし、民俗学や人類学の古典の全訳の困難さは今世紀に入っても解消されるどころか、さらに難しくなっているといえよう。そうした意味において、『民族心理学』がその一巻だけでも翻訳出版されていたのは僥倖だったかもしれない。しかも手元にある同書は昭和十三年発行、同十六年五刷とあり、順調に版を重ねているとわかるし、それは翻訳が待たれていたことを示しているように思われる。
f:id:OdaMitsuo:20190401154356j:plain:h120(『民族心理より見たる政治的社会』)

 『民族心理より見たる政治的社会』は口絵写真としてヴントの肖像を掲げた後、一九三二年にライプチヒ大学でヴント生誕百年祭がもたれたが、時を同じくして、東京帝大心理学教室にてヴント祭を催したとあり、その後に「訳者序言」が続いている。そこで平野はヴントの民族心理学に関して、次のように述べている。

 民族心理学は、民族の生成・発展・継起するその連関・共通所産なる言語・習俗・宗教・神話・芸術・法律・親族形態・社会結合の諸形態、文化・歴史における発展の普遍的法則を明かにし、精神発達の内面的心理法則を究明するのであるが、「諸民族生活の広範な諸連関にわたる発展を、その普遍的な合法則性の下に理解せんとする方法」(本訳書三八五頁)、民族心理の発展に貫徹するその原理こそは、史学・民族学・人類学といはず、あらゆる科学の原理たるべきものに外ならない。

 またその民族とは血縁に基づく出自、祖先、言語、礼拝、宗教、習慣、法律生活などの歴史と文化の共通性を基礎とし、連繋して保たれ、協同体意識による担われる「人間の社会結合集団(族)」とされ、ここでは民族と国民は区別されている。

 その心理学の体系も包括的で、方法は構成的で、それをベースにして、十九世紀から二十世紀にかけての民族学、民俗誌、人類学、法律学、史学、経済学の成果を網羅するものとなり、その心理学的発展法則を樹立するのである。

 このようなヴントの『民族心理学』の第八巻『政治的社会』が『民族心理より見たる政治的社会』として翻訳されたことになる。具体的に八章からなるタイトルを示したほうが解説を試みるよりも有効であると思われるので、それらを挙げてみる。

1 部族より国家への転換過程
2 政治的発展の時代における婚姻と家族
3 所有権の進化
4 所有物転換と経済的交易
5 国家と宗教
6 政治的社会の諸編制 民俗、民族学的
7 都市の創建と身分の区分
8 国家諸形態に関する民族心理学法則

 先述の「民族」や「心理学」についての説明、及びこれらの章タイトルを見ただけでも、この一冊の奥行きをうかがえるだろう。また原書にはない訳者が付した三一の挿図はそれらをフォローしている。そのことからも、『民族心理学』の全体がいかに広範にして個別的で、しかもそれらを連関させる体系として提出されているかが推測できる。

 ただ残念なのは、同書にはタイラーの『原始文化』への言及が一ヵ所しか見られないことで、それは死者の占有物を侵奪する恐怖に関しての原始的動機を説明した「註」としてだけである。やはり「政治的社会」ということもあって、『原始文化』からの継承はわずかしか見られず、第四巻から六巻にかけての「神話と宗教」のところに表出しているのだろうか。

 しかし『原始文化』は洋書のペーパーバック版を入手しているが、『民族心理学』のほうは、最初に挙げた、その要約とされる比屋根訳『民族心理学』を読むことで確かめるしかないだろう。

Primitive Culture


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