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古本夜話914 永橋卓介と『金枝篇』翻訳史

 サビーヌ・マコーミック編『図説金枝篇』(内田昭一郎他訳、東京書籍、平成六年)の序文で、メアリー・ダグラスは次のように述べている。「人間のものの考え方のはじまりこそ、十九世紀の思想家たちがもっとも関心を寄せた問題」で、「無意味でばかげてみえるものに意味を見出すことが、十九世紀の学者の関心の的」であり、フレイザーは「巨大な金字塔」としての『金枝篇』全十三巻によって、「この謎解き競争に勝利を収めたといってもよい」と。日本においても、この「謎解き競争」は原書の伝播、翻訳と相乗し、始まっていたと見なすべきだろう。
図説金枝篇(東京書籍)

 それゆえに続けて、生活社の永橋卓介訳のフレイザー『金枝篇』、及びその翻訳史への言及を試みる。生活社版は一九〇〇年の原書再版に基づく二二年のフレイザー自身による「抄略一巻本」の翻訳であり、三分冊予定で、昭和十八年に上巻が刊行された。
f:id:OdaMitsuo:20190408111522j:plain:h120(生活社)

 その「訳者序言」は「皇紀二千六百二年」として記され、「本書を読まずして民族学、民俗学を語り得ぬとは決して過言ではない」との文言に出会う。またこの「老碩学」フレイザーが昨年の五月に八十七歳で亡くなったことも伝え、実際には一九四一年の死なので、一昨年だが、次のように結ばれている。

 いま大東亜戦争のさなか、一億の眼と耳とはすべて南方に向いてゐる。斯る秋、祖国に対して本訳書が幾分の貢献をなし得るとすれば、訳者の幸これに加へるものはない。終りに本書出版に関して多大の好意を示された生活社の前田廣記氏に深く感謝するものである。同氏のお骨折りがなかつたら、本書は決して上版されるに至らなかつたであらう。

 この前田は生活社編集長だったようだが、明確なプロフィルはつかめない。永橋は『現代人名情報事典』(平凡社)に立項が見出されるので、まずはそれを引いておく。
現代人名情報事典

 永橋卓介 ながはしたくすけ
 宗教学者[生]高知1899.12.10~1975.1.1
[学]1930オーボルン神学校(アメリカ)[博]神[経]1930東北学院講師、40慶應義塾大教授、51高知県中村高校校長[著]《イスラエル宗教の異教的背景》《宗教史序説》、訳フレーザー《金枝篇1~5》

 これだけでは永橋のプロフィルと『金枝篇』の関係はほとんど浮かび上がってこない。幸いにして、昭和十年刊行の『イスラエル宗教の異教的背景』(日独書院)が大改訂増補され、昭和四十四年に『ヤハウェ信仰以前』(国土社)として出され、そこに略歴も示されているので、それによって補足してみる。それによれば、ニューヨークのオウバーン神学大学卒業後、オックスフォード大学マンスフィールド・カレッジに留学し、R・R・マレット教授のもとで宗教人類学を学ぶとある。
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 『文化人類学事典』(弘文堂)を繰ってみると、マレットは初期のイギリスの人類学者の一人で、本連載907のタイラーの弟子に位置づけられている。タイラーの「アニミズム」論を発展させ、それ以前に「プレアニミズム」の段階があり、タイラーやフレイザーが原始宗教の知的側面を重視したことに対し、儀礼に見られる情緒的、感情的側面、思考と情緒と行動との有機的複合に注目したとされる。訳書として、誠信書房から『宗教と呪術』(竹中信常訳、昭和三十九年)が出されているようだが、これは読むに至っていない。
文化人類学事典 f:id:OdaMitsuo:20190410114043p:plain:h111

 これに永橋が岩波文庫版『金枝篇』の翻訳の承諾を得たという。それが前提となり、帰国後の一九三二年=昭和七年にフレイザーの『呪術と宗教』の翻訳刊行を見たとわかる。これは『金枝篇』上巻の第三章から第六章にかけての主要部分を訳出したもので、タイトルは第四章がそのまま使われている。ただこれは永橋個人によるのではなく、内田元夫との共訳とされ、版元は八木重良を発行者とする新撰書院、発売は大岡山書店である。大岡屋書店に関しては本連載40でふれ、拙稿「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究Ⅲ』所収)においても、柳田国男が編んだ『郷土会記録』(大正十四年)に言及している。

古本探究3

 実は『呪術と宗教』の巻末広告のすべてが大岡山書店の刊行物なのか確認できないけれど、五十六冊に及ぶ書籍が掲載され、そこには『郷土会記録』も見えるし、本連載46の折口信夫『古代研究』全三巻、同49などの中山太郎『日本民俗学』全四巻も並んでいる。さらにそれらの中にフレイザーの永橋訳『社会制度の発生と原始的信仰』も見出される。とすれば、『呪術と宗教』に先駆けて、こちらが翻訳刊行されている。これは確認できないけれど、昭和十四年に岩波文庫化されたフレイザー民俗学入門書とされる『サイキス・タスク』ではないだろうか。それに続いて、昭和十六年に永橋はやはりイギリスの社会人類学者R・S・スミスの『セム族の宗教』を岩波文庫として出している。

サイキス・タスク(『サイキス・タスク』) セム族の宗教(『セム族の宗教』)

 このようなフレイザーと永橋の翻訳史をたどってみると、永橋は昭和五年にフレイザーと会い、その著作の翻訳を許され、帰国後に相次いで『社会制度の発生と原始的信仰』『呪術と宗教』を翻訳し、その一方でスミスの『セム族の宗教』も翻訳刊行していたことになる。それらが認められ、永橋は慶應大学教授として迎えられ、またそれらの仕事を通じて生活社の前田とも知り合い、『金枝篇』の翻訳へとリンクしていったように思われる。『ヤハウェ信仰以前』を読んだ印象からすると、永橋の旧著『イスラエル宗教の異教的背景の成立』はこれらの翻訳と併走していたと推測できる。

 その生活社版『金枝篇』は上巻が昭和十八年、中巻が十九年に出されたが、下巻の原稿は戦火に見舞われて刊行できず、戦後の昭和二十六年から二十七年にかけて、岩波文庫の全五巻が出され、完結するのである。その原著の「抄略一巻本」は一九〇〇年の再版をベースにしていたことからすれば、ちょうど半世紀後に邦訳が送り出されたことになる。
金枝篇 (岩波文庫)

 それからさらに半世紀後に、一八九〇年版の『初版金枝篇』(上下、吉川信訳、ちくま学芸文庫)、一九一一年の決定第三版は『金枝篇』(全八巻+別巻1、神成利男訳、国書刊行会)として出現している。しかしまだ日本において、本格的な『金枝篇論』は書かれていない。

初版金枝篇 (ちくま学芸文庫) 金枝篇 (国書刊行会) 



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