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古本夜話915 柳田国男はフレイザーと会っていたのか

 前回、メアリー・ダグラスが十九世紀思想の「人間のものの考え方のはじまり」に関する「謎解き競争」の勝利者として、『金枝篇』のフレイザーを位置づけていたことを既述しておいた。日本において、この「謎解き競争」に加わったのは柳田国男、折口信夫、南方熊楠たちであり、彼らが『金枝篇』の読者であったことはいうまでもないだろう。

『柳田国男南方熊楠往復書簡集』(平凡社)の伝えるところによれば、柳田は南方の示唆により、『金枝篇』を入手している。その示唆と入手した月日は不明だが、明治四十五年四月二十六日の「柳田国男から南方熊楠へ」の書簡で、次のように述べられている。
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 ご教示により、フレイザーの『黄金の枝』第三版を買い入れ、このごろ夜分少しずつよみ始め候。なかなかひまのかかる事業に候が、日本ばかりと存じろい候いし風習の外国に多きを知りし候ことは大いに愉快に候。

 そして「なかなかひまのかかる事業に候」とはいえ、大正元年十二月には五冊まで読み進めていたようだ。それは第三版とあるので、当然のことながら一九一一年=明治四十四年から刊行され始めた第三版十一巻本で、十四年に索引と文献目録の補巻が出され、全十二巻で完結に至る。やはり大正元年十二月十五日付で、「一昨日『ゴルデン・ボウ』の第五編着、よみはじめ候」と南方に伝えているのは、まさに『金枝篇』第三版が刊行中だったことを意味していよう。しかし柳田の二万冊の蔵書からなる成城大学民俗学研究所の「柳田文庫」の洋書文献調査に基づく高木昌史編『柳田国男とヨーロッパ』(三交社)において、「口承文芸」にスポットを当てているゆえなのか、その『金枝篇』についてはほとんどふれられていない。
柳田国男とヨーロッパ

 それに加えて、これは柳田とフレイザーの関係について、よく語られているエピソードだが、大正十三年に岡正雄が柳田に会い、『金枝篇』第一巻『王制の呪的起原』の翻訳出版のための序文を依頼したところ、柳田の厳しい拒絶にあったという事実も挙げておくべきだろう。そこには南方を通じて『金枝篇』を読んだ柳田の、フレイザーへの複雑な共感と視座を伴う固有の思いが含まれていたにちがいない。伊藤幹治は『柳田国男と文化ナショナリズム』(岩波書店)で、柳田が生活社版『金枝篇』上、中巻も架蔵し、それらに書き込みがあることを報告しているが、どのようなものなのか、とても興味深い。

柳田国男と文化ナショナリズム f:id:OdaMitsuo:20190408111522j:plain:h112(生活社版、上)

 それは永橋卓介の岩波文庫版『金枝篇』第五巻の「解説」へとリンクしていくはずだからだ。永橋は次のように書いている。
金枝篇 (岩波文庫)

 わが国で最初に本書を紹介したのは、京都大学文学部教授であった上田敏という。『金枝篇』を読んで、晩年になって英文学から民俗学に転じたい希望を書いたときく。日本民俗学の祖をいわれる柳田国男が果たして本書からどんな影響をうけたのかわからないが。というのは筆者がこの訳の出版について相談したとき彼は格別の関心を示さなかったし、彼が十三巻からなる決定版を通読したことは事実であり、彼が一度フレイザーを訪問したこともフレイザー自身の口から聞いて筆者は知っている。柳田の『遠野物語』によって開眼されたという折口信夫もまた、本書の熱心な読者であったという。

 山口昌男によれば、折口の『古代研究』の成立は『金枝篇』の影響を受けているようだ。ここで柳田が「十三巻からなる決定版を通読したことは事実」だと書かれている。だがその第十三巻が余論として出されたのは一九三六年、つまり昭和十一年になってのことである。これを称して『金枝篇』全十三巻の完結版とされるけれど、ここまでタイムラグが生じていることから考えると、柳田が十三巻まで追いかけていたかどうかは疑わしいと思われる。

 それに柳田は拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)で言及しているように、昭和十年に民俗学最初の全国的組織である民間伝承の会をスタートさせ、機関紙『民間伝承』を創刊し、十二年には会員数は千名に達し、隆盛を極めんとしていた。これらのことを考慮すれば、十二巻までは通読したにしても、それが第十三巻にまで及んでいたかは疑問というしかない。そのことに関しても、先の『柳田国男とヨーロッパ』における『金枝篇』への言及の少ないことが残念である。
古本探究3

 また永橋がいう柳田のフレイザー訪問は事実なのであろうか。管見の限り、この指摘は永橋の言の他に、佐野真一が『旅する巨人』(文藝春秋)で、論証なく述べているのを見ているだけだ。永橋のフレイザー訪問は一九三〇年=昭和五年とされているので、それ以前に柳田はフレイザーに面会していることになる。柳田国男研究会編『柳田国男伝』を繰ってみると、大正十年(一九二一)から十二年にかけてが柳田の国際連盟委任統治委員会時代で、主としてジュネーブにあった。その時代を追ってみても、柳田がイギリスに出かけ、フレイザーと会ったというエピソードは含まれていないし、それは柳田の『端西日記』(『柳田国男全集』3所収、ちくま文庫)にしても同様である。

旅する巨人 端西日記

 それでも『柳田国男伝』には彼が委任統治委員会委員を辞任し、帰国するに当たって、北米経由を選んだことから、大正十二年(一九二三)九月二十九日、ロンドンを出発とある。この時に柳田は横浜正金銀行ロンドンシテにいた澁澤敬三と会っている。もし柳田がフレイザーを訪問したとすれば、澁澤の仲立ちとこの機会を利用してのことだったのかもしれない。だが澁澤の「ロンドン通信抄」(『澁澤敬三著作集』第5巻所収、平凡社)には、柳田もフレイザーも出てこない。別のルートだったのだろうか。もし二人が会ったことが事実だったとすれば、それは吉本隆明とミシェル・フーコーの出会いにも似て、どのような会話がもたれたのか、想像は尽きることがない。

f:id:OdaMitsuo:20190412144212j:plain:h115(『澁澤敬三著作集』第5巻)

  
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