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古本夜話930 デュルケム『自殺論』と宝文館

 デュルケムの『自殺論』はかつて中央公論社の『デュルケーム・ジンメル』(『世界の名著』47)に抄訳が収録されているが、昭和六十年になって、同じ訳者の宮島喬によって新たに全訳が中公文庫として刊行され、宮島自身の論稿『デュルケム 自殺論』(有斐閣新書)が書かれている。

 f:id:OdaMitsuo:20190618114445j:plain:h115(『デュルケーム・ジンメル』) 自殺論 (中公文庫)デュルケム 自殺論

 これらによって、本連載928の『宗教生活の原初形態』、同929の『社会学的方法の規準』よりも明確にフランス十九世紀末における新しい学としての社会学の誕生の息吹きを感じることができる。具体的な要因をたどり、社会のアノミーなどに基づく自殺分析を通じて、その向こう側に提起される同業組合と職業分権化による共同生活の回復は、現在でもそのインパクトを失っていないようにも思える。
宗教生活の原初形態 f:id:OdaMitsuo:20190617222817j:plain:h120(創元社)

 だがこの『自殺論』は戦前にも全訳が出され、作田啓一の『デュルケーム』において、入手し難い稀覯本とあったが、このほど幸いにして見つけたので、それをここで取り上げておきたい。これはやはり『自殺論』として、昭和七年に鈴木宗忠、飛澤謙一共訳で、宝文館から刊行されている。入手した一冊は裸本だけれど、菊判五一四ページの上製本で、おそらく函入だったと推測される。

デュルケーム (『人類の知的遺産』57、講談社)

 鈴木宗忠は訳者序文「デュルケム『自殺論』の翻訳に就いて」で、自分は社会学専攻ではないが、多大の興味を有し、東北帝国大学において、大正十四年から昭和四年まで社会学講座を担当し、その間にデュルケムの社会学を演習題目に選び、それが『自殺論』翻訳の遠因になったと述べている。その演習に参加したのが飛澤で、読書会で『自殺論』を紹介し、さらにその詳細に及び、これが『自殺論』共訳の直接の原因となったとされる。そして飛澤が下訳、鈴木がそれを原文と対照して訂正し、共訳定稿が成立した。
 また飛澤も同じく「デュルケム『自殺論』の梗概」を寄せ、同書の簡略なスケッチを示すと同時に、デュルケムの研究モチーフは当時のヨーロッパ社会における自殺の異常な増加によるとする。そしてデュルケムが「個人と国家の中間的集団である職業団体の再興が、集団の健全な統制を回復して、利己的自殺を緩和する上にも、又無統制的自殺を減少する上にも、唯一の有効な方法」だと結論づけていることにも言及している。それに「職業団体に、昔の公権と、家族団体の有した特徴」が備えられなければならないことも。ここで挙げられている「職業団体」が宮島訳の「同業組合」、「無統制的自殺」が同じく「アノミー的自殺」をさしているのはいうまでもあるまい。

 そして次に「原著者序文」が続き、「最近社会学が流行して来た。この語は、十年程前には余り知られてゐなかつた。(中略)が、その使命は、段々重大視されるやうになり、謂はばこの新しい科学に有利な臆測といつたものが、世人の間に、存在するやうになつた」という社会学の成立が謳われたことになる。この鈴木と飛澤のプロフィルは明確ではないけれど、ともに「仙台にて」とあるように、『自殺論』の最初の全訳は東北の地から送り出されたことになる。

 それならば、その版元の宝文館のポジションにもふれておくべきだろう。奥付発行者の大葉久吉は『出版文化人物事典』に次のように立項されている。
出版文化人物事典

 [大葉久吉 おおば・きゅうきち]一八七三~一九三三(明治六~昭和八)宝文館創業者。岐阜県生れ。一九〇一年(明治三四)大阪宝文館東京出版所を譲り受けて独立、中等教科書・書籍を出版、二二年(大正一一)月刊『令女界』を創刊、一時期非常な人気を博した。同誌は戦時中休刊、戦後復刊したが、五〇年(昭和二五)九月休刊。一九三三年(昭和八)NHKのラジオ家庭大学講座の番組で大島正徳の哲学に関する話を聞き『哲学の話』にまとめたのが、放送ものの出版の先駆けともいわれる。二代目社長大葉久治(明治四一~七昭和四三)が戦後五二年(昭和二七)、ラジオ放送の菊田一夫作『君の名は』を出版、大成功を収めたこともその縁につながるものであろう。

 奇しくもここには大葉久吉のみならず、その後の宝文館の戦後の『君の名は』のベストセラー化まで語られていることになる。
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 ちなみに『自殺論』刊行時の宝文館は中等教科書・辞書から始めて、巻末の大学教授の著作出版に見られるように、大学関係の出版にも進出していたと思われる。そこには東北帝大教授の山田孝雄著『国民道徳原論』もあり、ひょっとすると山田を通じて、『自殺論』は宝文館から出されることになったのかもしれない。これも奥付に示されているように関西専売として、大阪宝文館も挙げられていることからすれば、双方が学術書に関しては共同出版のかたちを取っていたとも考えられる。だが、『自殺論』刊行の翌年に大葉久吉は亡くなっているので、その後二代目大葉久治は『令女界』や放送ものへと出版物をシフトさせ、それが戦後の『君の名は』とリンクして行ったとも推測できる。
 それにしてもデュルケム『自殺論』と菊田一夫『君の名は』の結びつきは意外であったと記しておくしかない。
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