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古本夜話937 有賀喜左衛門『家』と名子制度

 有賀喜左衛門も『民族』の編集委員の一人であり、昭和九年の日本民族学会の設立発起人も務めていた、その翌年に日本民族学会事務局は澁澤敬三邸内のアチック・ミューゼアムに移された。彼は明治三十年長野県生まれ、二高で渋澤と同期、岡正雄は二年後輩で、東京帝大美学美術史科在学中から朝鮮の仏教美術や陶磁器の研究を進めていたが、岡の紹介で柳田国男と出会い、日本の農村社会の研究の道へと入っていった。

 これは佐野眞一の『旅する巨人』ではふれられていないが、有賀の農村研究は主としてアチック・ミューゼアムの調査活動として行なわれたようだ。昭和十二年にアチック・ミューゼアムは膨大な民具とともに、東京都下の保谷の八千坪の土地と二つの建物へ移転され、そこが日本民族学会事務局、付属研究所、民族学博物館ともなった。民俗学と民族学の両立は澁澤の方針だったし、十四年に開設され、毎日曜日に一般公開される民族学博物館は澁澤の思想の体現でもあった。おそらくそれに寄り添っていたのが有賀だと推測されるし、それらの民具の集積はその後身である『国立民族学博物館』(『世界の博物館』22、講談社)に見ることができる。
旅する巨人 f:id:OdaMitsuo:20190806210339j:plain

 その一方で、有賀は岩手県二戸郡荒沢村石神の調査を行ない、昭和十四年に「アチック・ミューゼアム彙報 第40」として、『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』を刊行する。これは日本の村落社会についての初めての社会学的モノグラフであると同時に、彼のその後の研究方向を決定した重要な報告とされる。
f:id:OdaMitsuo:20190806154542j:plain:h120(『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』)

 これは入手していないけれど、有賀が昭和四十七年に刊行した『家』(『日本の家族』改題、日本歴史新書、至文堂)があり、その口絵写真に斎藤家住宅(母屋)、その住宅平面図、斎藤家成員(其の他)、その写真の説明が掲載されている。そして巻末に「口絵写真について」が付され、次のように記されている。
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 昭和九年七月故渋沢敬三は東北旅行の途次、石神という部落の名前にひかれて、偶然立ちより、初めて斎藤善助家の存在を学界に紹介した。この写真は同年九月彼が再度探訪した折に撮影した十数葉の写真の中から選んだもので、巨大な家屋と家の成員内容がほぼ推察されよう。写真の掲載を許された日本常民文化研究所に感謝する。(後略)

 少しばかり補足しておけば、「石神という部落の名前にひかれて」は柳田の『石神問答』 が想起されたからだと思われる。またアチック・ミューゼアムは昭和十七年に日本常民文化研究所と改称され、澁澤も亡くなっているので、写真などの権利がそちらに引き継がれたことを伝えている。

』『柳田国男全集』15

 有賀の初めての探訪は昭和十年八月で、澁澤の写真も含めたそれらの探訪が、『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』として報告されることになったのであろう。

 有賀の石神の斎藤家に関するレポートは『家』の第二章「近代の家」の「非親族を含む大きな世代の家」で論じられ、アチック版のコアだと思われるので、それらをたどってみる。この齋藤家の三十一人からなる世帯には召使夫婦の二つのグループが含まれていた。当時斎藤家は田畑三町歩を自作、他に漆器業を営んでいたので、主幹労力として長男、召使男女五人を有していたが、それだけでは労力が不足していた。

 そこで求められたのは名子(ナゴ)の家からの補足労力である。名子とは斎藤家の場合、非親族の召使を分家させたもの、斎藤家においては次三男の分家を別家(ベツケ)、召使の分家を名子と呼び、前者には斎藤姓、後者には別家格の名子以外は異姓を与え、区別しただけでなく、分与した分子財産にも差異が大きかったという。この斎藤家の場合からわかるように、このような複合大家族の世帯員構成は、とりわけ傍系成員において複雑であった。それを有賀は次のように説明している。

 斎藤家の召使はこの家が持つ世帯の成員であった。彼らは世帯主の日常的家計に含まれていたばかりでなく、この家の生活の連帯関係に深くはいっていた。彼らがこの家の成員になったのは、彼らの父親が世帯主に托する時に結んだ約束によって決定したのであり、それは慣習できまっていた。すなわち世帯主は彼らを一〇歳前後に引きうけ、養育し、家業で訓練し、結婚させて、その後も同じ家に同居させ、家業に勤務させた。適当な時期(多くは三五歳前後)に分家を許し、分家後名子として、その小規模な農業経営をなしつつ、一生本家に一定の限度の奉仕をさせる関係を持った。このような習慣をバックとした召使であったから、同じ世帯の中で、世帯主の妻や子供に対し奉仕すべき義務を負い、主人の恩を深く感ずべきことを自らもみとめ、世帯の内でも、外部からも、社会的地位の低いことがきめられ、その慣習に順応しなければならなかった。

 これ以上の詳細な「名子制度」に立ち入らないけれど、戦前の農業を主とする大家族の成立がこのような制度によって支えられていたとわかるし、それは商業における「のれん分け」をも想起させる。ただ私は農村で育ったので、このような「名子制度」というか、その残影を理解できるような気がする。高度成長期以前にはそのような本家、別家、名子といった構成によって、多くの農村のメカニズムが機能していたのではないだろうか。

 なお有賀の「近代の家」において、大正九年の第一回国勢調査をベースとする戸田貞三の『家族構成』(弘文堂、昭和十三年)を始まりとしている。だが本連載489などの江馬美枝子の『白川村の大家族』(三国書房、昭和十八年)、や玉城肇の『日本における大家族制の研究』(刀江書院、同三十四年)に見られる「飛騨白川村の大家族」、それらに同じく青森県三戸郡階上村の野沢家の「オエ(本家)」と「カマド(分家)制度への言及もなされ、大家族の多様性のあり方を伝えている。
f:id:OdaMitsuo:20190806212739j:plain:h120(『白川村の大家族』)

 また有賀の『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度の名子制度』は、未来社の『有賀喜左衛門著作集』第三巻に収録されていることを付記しておく。
南部二戸郡石神村に於ける大家族


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