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古本夜話954 きだみのる『道徳を否む者』

 もう一編、ジョゼフ・コットに関して書いてみる。

 前回取り上げた小説 『道徳を否む者』『きだみのる自選集』第二巻に収録されている。これは明らかにきだみのる=山田吉彦の自伝というべきものだが、「山村槙一の手記」によるとのサブタイトルが付されているように、フィクションの体裁をとっている。さらにジョゼフ・コットは「彼」、またアテネ・フランセも一貫して「A…F…」の表記である。そしてその周辺人物も多くはイニシャルで記され、おそらくそれらの匿名化への配慮は、この作品の中でもふれられているように、「A…F…」が財団法人化され、新たな公的フランス語学校として認められていくことに対し、波紋を投じることを避けようとしたのだと判断できよう。

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 『道徳を否む者』は「私」=山村が新聞で写真入りの「彼」の訃報を見たことから始まっている。そこには「七十五年の生活の生涯の半ば以上を東京で過したこのフランス人の略歴」が記されていた。しかも「私は彼を一番よく知っている一人」で、その写真は他ならぬ「私」が写したものだったのであり、その日の情景を想起させた。それはフランスに三年滞在後に東京に戻ってきた日とされている。しかし現実には五年滞在し、モロッコ旅行後に帰国し、アテネ・フランセの語学教師になっているので、昭和十四年のことだったと推測される。

 「私」は「彼の子、次いで弟子であり、友であった」から、「私の家は彼の家」で、「私の突然の出現」を見て、彼は自分の目が信じられないような表情を浮かべ、言葉がすぐに出てこなかった。

 やっと(アンファン)、と彼は嘆息するように呟いた。そしてつけ加えた。おまえは帰って来たね。そう云って彼は立ち上り、私の頬に接吻し、私はそれを返した。私はそこに旅に出して待ち兼ねた子を迎える父、修業に送りだした弟子の戻りを待つ師(メートル)、長い別離の後で再会する友を感じた。

 このシーンは二人の関係を象徴的に浮かび上がらせている。同書でも描かれているが、明治四十四年に十六歳の「私」は「彼」に函館のトラピスト修道院で出会った。そこで一度だけ、「彼」の名刺には「J…C…」とあったとの言及が見える。それから大正六年には慶應大学理財科を中退し、「A…F…」の仕事にたずさわり、昭和九年にはフランス政府奨学生として渡仏し、ソルボンヌ大学でマルセル・モースに民族学を学び、四十四歳で「やっと」帰国してきたのである。すでに最初の出会いから三十年近い月日が流れている。

 「私」の渡仏は「彼」の知人たちへの紹介状を携えてのもので、「彼」はいう。「みんなおまえを満足させるような歓待をしてくれたかね」と。本連載946で山田のいうところのモロッコにおける「ホスピタリティ」の問題とリンクする。それはモースの多文化共生のための『贈与論』が二人の前提となっていたことを意味しているだろうか。そのことはともかく「私」はパリの生活で最も親切だった人々を別のところに見出していたけれど、「ウイ」と応えるしかなかった。それを聞いて、「彼」は自分がまだ忘れられていないと呟くようにいった。だが「私」は思う。

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  彼の日本の滞在が五年、十年、十五年とフランスに帰ることなく長引くに連れてパリからの便りも段々と少なくなり、最後の今では昔の知り合いとの付き合いもクリスマスのような儀礼的な名刺の交換のようなものに限られてしまった。それも年々数は減ってきたので、彼はパリのことを考えると、いつも置き去りにされたような孤独の感じを持っていたのだ。私の訪問のとき与えられたそんな人たちの歓待の物語は、丁度私が彼の代理であるかのような風に彼には考えられたに違いない。しかし……

 その後は語られず、パリでも日本人ではなくフランス人との友情が述べられ、「彼」のやはり同様のフランス大使館や在東京のフランス人との不和が対比される。それからパリで求めた「彼」へのプレゼントの金のカフスボタンを並べ、同じくドイツで買ったカメラのレフレックスで、「彼」の写真を撮ったのだ。それが訃報に添えられた写真だったのである。

 ただ「私」は「A…F…」でのルーチンワークとしての語学教師に向いておらず、それに加え、「私の精神は大半潜在的ながら彼の慈愛に過度の重圧と束縛を感じていて」、病気の見舞いにもいかないでいた。それが冒頭にある「しまった」という呟きにこめられていた。それから最後に会ったのは去年の「新聞賞を貰った時」と出てくるので、それが『気違い部落周游紀行』(吾妻書房)で毎日出版文化賞を受賞した昭和二十三年だとわかる。「彼」の死はその翌年だったことになる。

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 「私」は見舞いの代わりのように葬儀に向かう。そして日本での「彼」と「A…F…」の軌跡が回想される。東京帝大や外国語学校での語学教師としての不和からの「A…F…」の創設、それは「高等仏語」という私塾として、神田橋際の和強楽堂の汚い一室から始まり、次に美土代町のYMCAに移った。第一次世界大戦が起きた頃で、医学者や外交官や武官たちも加わるようになっていった。そして「私」は創設者で校長の助手のような立場にいたのである。

 「私」の回想のかたわらで、少ないながら会葬者が集まり始め、「校長はどうしてmisogyne(おんなぎらい)だったんだろうなあ」という声がもれる。おそらく「歓待」と「misogyne(おんなぎらい)」はどこかでリンクしているのだろう。そうするうちに、葬列の儀式は終わった。「彼」は無神論者だったが、晩年にカトリックに回帰していたようで、カトリックの葬式で送られた。

 墓地には会葬者たちが集まり、埋葬の場所に近づいた。そして「彼」が「あなたも、死ぬとき、わたくしの傍に埋めるよう、遺言しなさいね」といった言葉を思い出した。「私」は「最後の別れ」を告げなかったので、「最後の体面」への願望が激しく募った。だがすでに棺は太い綱で穴に降ろされ、もはや硝子のはまった木蓋を開けることはできなかった。しかし人夫がシャベルで土を投げ入れると、蓋のところに当たり、その反動で蓋が開き、死者の顔が見え、その「慈愛に満ちた眼」が地の底から「私」に迫ってくるようだった。「私は彼の眼を見つめていた。私は涙が流れはじめるのを感じた」。そして教会の一隅に戻り、彼のために祈ると、思わず「キリエ・エレエソン」というひとつの言葉がもれた。それは二人が初めて出会ったトラピスト修道院にあって、祈りの中で繰り返されていた、日本語で「主よ、憐れみ給え」と訳されている言葉だったのである。


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