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古本夜話955 トラピスト修道院と間世潜『トラピスチヌ大修道院』

 きだみのるの『道徳を否む者』において、「私」は十五歳の少年時代を回想する。「少年」は台湾の父のところから東京の叔父の家に引き取られ、中学時代を送っていた。しかしそれは台湾の自然と光に包まれた暮らしと異なり、「溝泥の霧の中で生活しているようなもので、我慢できないもの」であった。
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 彼はもっと光のさし込む澄んだ生活の場所が何処かにあるに違いないと考えた。少年は何時か何かの本でトラピストのことを読んだ。そこでは修道士たちは神に祈り、勤労していた。少年の知っているのはそんなわずかなことばかりだったが、欠けたところは自分の想像で補った。そこは自由で平等で、少年はそこに行ったら本を読み、労働しよう。それは彼に一番気に入った生活であるに違いない。そこの生活が美しく想像で描かれれば描かれるほど現在の生活はもっとつまらなく感ぜられた。
 少年はトラピストに行くことを決心した。

 このような少年の述懐を読むと、中央公論社の『世界の名著』全巻を読破したという友人が、高校時代にトラピスト修道院に入るといい、北海道に向けて家出したエピソードを思い出す。ただ彼のほうはそれが果たせず、北海道のサッポロラーメン屋で働き、それから戻ってきたのではあったが。

 だが「少年」のほうは函館に向かい、湾内汽船で修道院の下の発着所で降り、修道院への険しい坂道を上り、山を控えた「沈黙の館」に入っていった。迎えたのは赤い顔の粗毛衣の外人僧で、「少年」を一室へと案内し、それから、修道院の内部、食堂、礼拝堂を見学させ、さらに外の牛舎と酪農の工場へと連れていった。工場にはバターの製造機械などがあった。そこで「少年」はジョゼフ・コットと出会ったのだ。

 私が最初、彼に会ったのは入江の向こうに函館の市街の黒い屋根が見える高原であった。そこには沈黙の行と労働と祈りに一生を捧げ、それを通じて神に仕えると同時に人の社会にも仕える―というのはこの修道院の創設者たちは人の一番望まない荒れ地を所望し、それを開拓し、酪農を経営し、日本で味わえる最良のバターを生産して、死んだ土地を人を養う生きた土地にしたのだから―修道者たちの一団の館が建っていた。

 このように描かれたトラピスト修道院のイメージを写真などで確かめたいと思い、探してみたけれど、『日本の教会をたずねてⅠ・Ⅱ』(「別冊太陽」、平凡社)やガイド類などにも見当らなかった。それでも奈良原一高の『王国』がトラピスト修道院ではなかったかと思い出し、『奈良原一高』(「日本の写真家」31、岩波書店)を繰ってみると、そこには「沈黙の国」としてのトラピスト修道院の四枚が収録されていた。その一枚は牛の背後に控えるトラピスト修道院の建物が写り、祈りを捧げる修道士たちの姿もあった。

日本の教会をたずねて f:id:OdaMitsuo:20190923153721j:plain:h110  奈良原一高

 しかしこれだけではトラピスト修道院の全容はうかがえず、それはかつて手にとり、見た記憶のある婦人刑務所「壁の中」と二部仕立ての『王国』(朝日ソノラマ)を入手しても同様だと思われた。そこで想起されたのは『トラピスチヌ大修道院』のことで、こちらは偶然ながら、間世潜『トラピスチヌ大修道院』(トラピスチヌ写真帖刊行会、昭和二十九年)と野呂希市『トラピスチヌ修道院』(青菁社、平成十年)を均一台から拾っている。ここではA4判、モノクロの「ライカ写真集」である前者を見ることでトラピスト修道院を想像してみたい。トラピスチヌのほうは女子修道院だけれど、その建物や生活は共通していると思われるからだ。
f:id:OdaMitsuo:20190918232408p:plain:h110 (『トラピスチヌ大修道院』) トラピスチヌ修道院(『トラピスチヌ修道院』)

 間世は「序文」に当たる「トラピスチヌ大修道院」と題する一文において、この修道院に関して、次のように述べている。

 トラピスト女子修道院の正しい名称は「トラピスチヌ大修道院、天使園」で、北海度函館市から北東およそ八キロ、即ち函館郊外にある湯の川温泉から、更に奥へはいった静かな丘陵地帯にある。いまから五十六年前の1898年(明治三十一年)四月、フランスから派遣された八人の仏人修道女によつて、現在の場所にあつた旧孤児院を仮の修院として、聖母の保護のもとに修道生活がはじめられたのである。言葉にも風習にもなれないなか<<に、非常な辛苦をなめて、ひたすら神への道に仕へ、遂に現在日本で唯一の女子大修道院にまで発展せしめたのである。

 そして男子修道院として、渡島国当別村にトラピスト大修道院があるとも記載され、これが少年とフランス人が出会った修道院、『王国』の「沈黙の園」に他ならない。

 それから『トラピスチヌ大修道院』の写真は「祈り」から始まり、「生活」「動労」「沈黙」「祭服の種類」へと至り、一二八ページに及んでいる。いずれも修道女が「キリイ・エレエソン」という祈りを唱え、牛を引き、トラピスチヌ・デセールやバターをつくっている光景が写され、修道院から見た函館の夜景も映し出されている。もしトラピスト大修道院の写真集が試みられたにしても、被写体は女子と男子が異なるだけで、同じような構成になっていたのではないだろうか。

 『トラピスチヌ大修道院』は頒価を一七〇〇円として、二〇〇〇部限定出版で刊行され、私が所持する一冊は1349とナンバーが打たれている。写真家の間世潜、装幀の里見勝茂、製作に携わった最上運一郎については何も知らない。しかし巻頭に見える、これも写真入りのエ・エム・ミカエル大院長のメッセージによれば、「東京の世界的に名声のある芸術写真家間世氏は、教区の司教の例外的許可を得て修道院内に入り、馘首の写真を撮られて」とあるし、それは五年間にわたったという。とすれば、この写真集の出版は間世たちとトラピスト修道院のコラボレーショによって刊行に至ったことになる。「少年」とフランス人の出会いではないけれど、そこにも様々なドラマが起きていたにちがいない。


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