出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話958 伊波普猷『古琉球』

 南島研究の嚆矢が、前回もその名を挙げた伊波普猷の『古琉球』であることは今さらいうまでもないだろうし、現在では今世紀に入って岩波文庫化もされ、読むことに関してもアクセスが容易になっている。ところがその出版史をたどってみると、それが困難な道筋を経て、現在へと至ったのだとわかる。
 外間守善編『伊波普猷 人と思想』(平凡社)所収の「略年譜」を参照し、伊波の生涯をラフスケッチしながら、それを追ってみる。

 明治九年那覇の素封家に生まれ、二十四年沖縄の尋常中学校入学。三年時におもろ研究・沖縄研究の先駆者田島利三郎が国語教師として赴任し、その影響を受ける。五年時に生徒の信望厚かった教頭や田島が校長から休職、辞職を命ぜられたことで、伊波たちはストライキに入り、退学させられる。二十九年に上京し、明治義会尋常中学に編入し、三十三年三高入学、三十六年には東京帝大文科大学に入学し、言語学を専攻、三十九年卒業とともに沖縄に帰郷。啓蒙思想家として講演、執筆活動を始め、四十二年には沖縄県立沖縄図書館々長となる。そして四十四年には処女出版として、『琉球人種論』(小沢博愛堂)が上梓され、その十二月には『古琉球』が刊行される。この著作の出版史をたどってみる。

f:id:OdaMitsuo:20190927105628j:plain:h120

1 明治四十四年 『古琉球』 (「跋文」川上肇、沖縄公論社)
2 大正五年 『古琉球』 (増補訂正、「序文」新村出、糖業研究会出版部)
3 大正十一年 『古琉球』 (第三版、郷土研究社)
4 昭和十七年 『古琉球』 (改版、青磁社)

 
 この間に起きた『古琉球』をめぐるエピソードを記しておこう。明治四十五年に伊波より柳田国男宛献本三冊が届く。大正十年一月柳田が那覇に着き、伊波と会い、『おもろそうし』校訂の必要性を説く。七月折口信夫、沖縄を旅行し、伊波との親交を結ぶ。同十一年、「爐辺叢書」の一冊として郷土研究社から『古琉球の政治』、続けて『古琉球』を出版。なお「爐辺叢書」に関しては、拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照してほしい。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h120(青磁社版)古本探究3

 同十四年上京し、郷土研究社内南島談話会より『校訂おもろさうし』全三冊を刊行。昭和二年朝日新聞社内で柳田主催の南島談話会が開かれ、伊波、金城朝水、富名腰義珍、比嘉春潮、金城金保、南風原驍、島袋源七、仲宗根源和などが参加する。同六年に柳田、比嘉たちと民俗学雑誌『島』を発刊。同十七年『古琉球』の改版を刊行している。

 私の手元にあるのはこの4の『古琉球』の昭和十八年再版二千部の一冊で、前年の初版は二千五百部、部数は不明だが、十九年には第三版も出ている。大東亜戦争下で、このように三回も版を重ねていることが信じられないような気もするが、奥付はそれを伝えている。また私の所持する一冊は裸本ではあるけれど、ジュート製の菊判、口絵写真一八枚、本文と索引四六六ページに及び『古琉球』の決定版を意図したような印象を与えてくれる。

 この改版は先述した、新村出の「序文」にあたる「南島を思ひて」を冒頭に起き、「琉球人の祖先に就いて」から始まる四十二編、それに「付録」として古代琉球語の唯一の辞書『混効験集』に校註を施したものを添えている。まさに古えの琉球の歴史、考古、地誌、言語、文芸、神話などを含み、「古琉球」エンサイクロペディアのような趣きに包まれている。それゆえにどれを紹介していいのか迷うけれど、やはり柳田や折口のことを考えれば、「オモロ七種」を優先すべきだろう。その「はしがき」で伊波は書いている。

 『おもろそうし』は二十二冊、歌数総べて千五百五十三首(重出したものを除くと、千二百六十七種となる)西暦十三世紀の中葉から十七世紀の中葉までの四百年のオモロを収めたもので、琉球の万葉集ともいふ可きものである。オモロは我等の先祖が我等に遺した最古の文字で、古くは今日の歌人が三十字を詠むやうに一般に詠まれてゐたが、島津氏に征服された後頓に衰へて、いつしか祭司詩人の専有となり、元来詩歌といふ広い意義を有してゐたオモロは遂に神歌といふ狭い意義に解せられるやうになつた。

 またその後の研究で、「オモロはお杜(もり)うたの下略で、後にオモロに転じた」ことも記され、「世にオモロを措いて琉球固有の思想と琉球古代の言語を研究する可き資料はない」とも述べられている。それはこの『古琉球』『おもろさうし』研究の始まりがあり、戦後の『おもろさうし』(『岩波日本思想大系』」へと結実していったことになるのだろう。
f:id:OdaMitsuo:20190927111134j:plain:h120

 それに関して、琉球語の起源なども探索されていくのだが、それよりも具体的で興味を覚えたのは「追遠記」における伊波のルーツ告白である。彼は語っている。「私なども矢張支那人の子孫である。しかもそれが蒙古と西蔵との間にある甘肅省の渭水に沿うた漁民の子孫」だと。そして口碑によれば、祖先は明帝の侍医で、不老不死の薬を求めて日本の日向に至り、その三代目が琉球に渡ったとされている。ここではひとつの徐福伝説が語られているようでもある。

 この青磁社改版には「後記」が比嘉春潮と角川源義の名前で記され、そこでは『古琉球』の初版が琉球研究を誘起するきっかけとなったと述べられているは当然にしても、昭和十七年の刊行理由として、東亜共栄圏構想より南方研究の必要性が問われ、大東亜戦争の発生がそれを促し、「南進する日本が振返つて、もう一度、飛石のやうに南海にひろご(ママ)る琉球を見ることの意義が新しく生じたのである。古琉球は、南進する古くして若き日本の縮図」でもあるからだ。

 だが現在でも米軍基地問題を抱える沖縄は、依然として占領下にある「日本の縮図」であり続けているといえよう。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら