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古本夜話961 比嘉春潮、崎浜秀明編訳『沖縄の犯科帳』

 本連載958で、伊波普猷『古琉球』の「後記」が比嘉春潮と角川源義の連名で書かれていることを既述しておいた。後者の角川は昭和二十年に角川書店を創業し出版業界ではよく知られているので、ここでは前者の比嘉にふれてみたい。たまたま彼と崎浜秀明編訳の『沖縄の犯科帳』が手元にあるからだ。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h110(青磁社版)沖縄の犯科帳

 それに比嘉は『[現代日本]朝日人物事典』にも立項されているけれど、『柳田国男伝』において、昭和初期の南島研究の組織化とその展開にあたって、「柳田自身の学問にとっても、比嘉は欠くことのできない重要なインフオーマントであった」とされ、言及や登場頻度も高いのである。それもそのはずで、柳田との出会いも奇妙な偶然といえるものだった。比嘉の自伝ともいうべき『沖縄の歳月』(中公新書)などを参照し、その軌跡を追ってみる。

[現代日本]朝日人物事典  f:id:OdaMitsuo:20191023113849j:plain:h120

 比嘉は明治十六年に沖縄の中頭郡に生まれ、父は首里の元士族だった。沖縄は十三年の琉球処分に続く混乱期にあり、物心両面における激変にさらされていた。その中で比嘉は多感な少年時代を送り、キリスト教やトルストイズムや社会主義から深い影響を受け、自らがいうところの「明治末年の革新的な有識青年一般のたどる道すじ」を進んでいた。しかしそこには近代日本における沖縄の現実が重なっていた。明治三十九年に沖縄師範学校を卒業し、小学校の教師となった。
 そして明治四十三年頃、伊波普猷と知り合い、彼の語る沖縄の歴史から郷土に関する新しい知識を得て、比嘉は伊波に深い尊敬の念を覚え、大きな影響を受けるのだが、その一方で社会主義へも接近し始めていた。彼は小学校の校長に抜擢されながらも、大正七年には新聞記者になり、その翌年には県庁に移っていた。十年一月五日に柳田が初めて沖縄の土を踏み、県立図書館に伊波を訪ねた時、比嘉は県庁地方課の役人だったこともあり、その場に居合わせたけれど、初対面の挨拶をしただけで、言葉を交わすことはなかった。

 しかし比嘉は新聞記者から県庁に転職しても社会主義活動を続け、堺利彦と文通したり、仲間の一人がアナキストの岩佐作太郎を沖縄に招くことになっていた。それを警察が察知したこともあり、心配した上司が岩佐の沖縄滞在中、支庁事務調査の名目で比嘉に宮古島出張を命じたのである。その一月二十日は柳田も宮古島に向かう船中にあり、『柳田国男伝』で述べられている「晩年まできわめて親密に交流し、彼の南島研究にとっても大きな役割を果たすことになる一人の人物」比嘉と出会い、期せずして彼を学問の世界へと招来することになった。

 そして比嘉は大正十三年に上京し、改造社に入社する。その後の彼の軌跡が『柳田国男伝』に「註」として付されているので、昭和十年代までを引いておこう。昭和二年南島談話会に参加し、幹事役を務め、六年にはそれを復活させ、会の運営に当たる。八年には柳田とともに雑誌『島』を発刊し、九年には木曜会に参加し、山村生活調査に加わっている。『柳田国男伝』には木曜会初期メンバーの集合写真が掲載され、そこには比嘉の姿もある。また当然のことながら、十年には柳田の還暦記念民俗講習会にも参加している。

 昭和十年で止め、比嘉の戦後と昭和五十二年の死までたどらなかったのは、『沖縄の犯科帳』に関して書けなくなってしまうからだ。これは琉球王国の裁判所である平等所(ひらじょ)の記録で、戦前には那覇地方裁判所にかなりの分量が保存されていたようだが、戦禍でほとんどが消滅してしまい、大正十三年頃に平等所の一部の裁判記録を筆写させたものだけが唯一の現存で、それを口語訳したものである。「まえがき」は謳っている。

 この「犯科帳」は、琉球王国が最初に制定した刑法典である「琉球科律」「新集科律」を、どのように具体的に適用したかを知る上に、また当時の社会状態の一端を窺う上にまことに興味深いものがある。琉球王国はつねに平和を愛好し、無刑の世を理想としてきた。一七三四年(享保十九、雍正十二)に平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が処刑されたほか、死刑はそう多くなかったようである。

 『沖縄の犯科帳』に記載された事件は徳川末期から明治初期の約百年間の沖縄で起きたもので、それらの事件は今日の沖縄とも、当時の日本とも異なる、数世紀にわたる旧時代的社会諸制度や習俗を反映していることは明らかだ。だがそれが法的に遅れていたということを意味していない。これらの事件は放火、窃盗、姦通、脱走、殺傷、癇癪持ち、酔狂者、契約不履行、位牌・墓所に関する事件、戸籍に関する事件からなる26の裁判記録である。

 それらを一読しての印象は「解説」にもあるように、「審理判決に当たっては、常に慎重な態度をもってし、ことの疑わしきを罰せず、たとい自白しても確たる証拠のないものは処刑しないという、現代の法思想と相通じる公正な態度」が認められる。ただ「位牌・墓所」「戸籍」に関する事件が11と、半分近くを占めているのは、沖縄の社会法制度ゆえであろう。そこには南島のみならず、日本の源初の法制が埋めこまれているのかもしれない。

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