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古本夜話969 岩田準一『志摩の海女』

 前々回の田中梅治『粒々辛苦・流汗一滴』の他にもう一冊、「アチック・ミューゼアム彙報」として出された著作を持っている。ただそれは原本ではなく、戦後になって復刻された岩田準一の『志摩の海女』である。これは「同彙報 第38」の『志摩の蜑女』として、昭和十四年に刊行されている。
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『近代出版史探索』で、岩田準一が江戸川乱歩の友人にして、ともに同性愛文献収集家『南方熊楠男色談義』(八坂書房)の書簡相手、『本朝男色考 男色文献書志』 (原書房)の著者、古典文庫版『男色文献書志』は乱歩が自費出版したものであることを既述しておいた。そして昭和四十八年に岩田の嫡子の貞雄が私家版で『男色文献書志』 『本朝男色考』 を復刻し、孫の岩田準子が乱歩と準一を主人公とする『二青年図』 (新潮社)を書いたことも。

近代出版史探索 f:id:OdaMitsuo:20191119150920j:plain:h110 本朝男色考 男色文献書志 二青年図

 『志摩の海女』も岩田貞雄による昭和四十六年の刊行であるから、それらは『男色文献書志』 などに先駆けていたことになる。その「風俗研究家」としての岩田準一の「略歴」が写真とともに巻末に紹介されているので、それを引いておくべきだろう。

 明治33年 三重県鳥羽市に生る。第四中学校、神宮皇学館、文化学院絵画科卒業。
 中学在学中に竹久夢二の弟子となり、夢二風の絵をよくす。
 ライフ・ワークは、本朝男色史の研究であったが、傍ら民俗学を手懸け、渋沢敬三氏主宰のアチック・ミューゼアムの同人となり、志摩を担当し、島の民俗調査に最初の鍬を入れた。
 江戸川乱歩とは親交を結び、大衆小説も草した。
 昭和20年2月、46才にて病没。

 この岩田の「病没」とはこれも同様に既述しておいたように、アチック・ミューゼアムの仕事のために上京し、そのまま東京で胃潰瘍の出血によって急死してしまったことをさしている。
 
 佐野眞一は『旅する巨人』の中で、戸谷敏之という、学生運動から離れ、アチックに入所した、イギリスの独立自営農民であるヨーマン研究者に言及している。それは「アチック・ミューゼアム彙報」ではないけれど、「アチック・ミューゼアムノート」と「日本常民文化研究所ノート」として、戸谷の『徳川時代に於ける農業経営の諸類型』と『明治前期に於ける肥料技術』を刊行し、圧倒的な評価を得たと述べている。昭和十九年四月、この戸谷のところに召集令状が届き、フィリピン戦線に送られ、二十年八月にルソン北方で戦死したという。この戸谷と逆に、ほぼ同時期に岩田はアチックに向かい、亡くなったことになる。二人は面識があったのだろうか。

旅する巨人

 それはともかく、『志摩の海女』に戻ると、これは「海女作業の今昔」、「海女の神事」、「海女の伝説と歌謡」、「海の魔」、「海女に関する語彙」の五章からなり、本文挿絵も岩田の手になるものである。こちらは新仮名づかい、四六判での復刻だけれど、「アチック・ミューゼアム彙報」にふさわしい一冊だったことはただちに了解できる。また岩田貞雄の「後記」によれば、昭和初年頃の志摩は民俗伝承の宝庫で、幕末期の民俗がまだ花開き、準一は昭和四年頃に民俗調査を始め、その無尽蔵さに驚いたのではないか、それは志摩が辺陬  の地で、閉鎖社会だったからではないかとされている。またその最初の調査の「志摩郡鳥羽町の方言集」を柳田国男の『郷土研究』に寄稿しているという。

 それに関連してであろうが、『志摩の海女』には「志摩の漁夫の昔がたり」と「私の採集話」が付け加えられ、これらは昭和十五、六年に『民間伝承』に掲載されたと述べられている。そこで『民間伝承』を確認してみると、昭和十五年三月号に岩田名での「志摩の呪禁と禁忌」、同九月号に「消火屋」が、いずれも「資料」のところに見出される。だが先の二編が見えないのは、おそらくこれらは『民間伝承』に寄稿予定のものが、そのまま原稿で残されていたことによっているのではないだろうか。最後に「稿」が示されているのはその事実を伝えているように思われる。だがいずれにしも、岩田もまた『民間伝承』の会員であったことになろう。

 それを示すように、同十月号には岩田の自費出版『志摩のはしりがね』、十二月号には『志摩の蜑女』の「新刊紹介」が掲載されている。後者の書評は『民間伝承』の編集の中心にいた瀬川清子によるもので、「蜑女の神事信仰の民俗」「潜水労働に生きて来た一群の民俗はやがて他の生活群の民俗研究にも尊い示唆を与へるもの」と評している。

f:id:OdaMitsuo:20191124084143j:plain:h115(復刻版)

 これを読んで、後述する『海村生活の研究』において、瀬川が「海村婦人の労働」「蜑人の生活」「海辺聖地」「海上禁忌」「血の忌」という最多の五つの報告を提出していることがわかるように思われた。つまり瀬川の研究もまた岩田の『志摩の蜑女』と併走していたのだし、それゆえに「蜑人」という言葉が使われていたのである。瀬川は「蜑人の生活」で、海人、漁人、蜑人を「アマ」と訓ぶが、ここでは潜水漁業者を「アマ」とし、日本ではその数が世界有数で、しかも女子が参加しているのが特色だとしている。それゆえに「蜑女」という言葉が成立したのであろう。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h120 (『海村生活の研究』)


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