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古本夜話970 六人社、「民俗選書」、橋浦泰雄『民俗採訪』

『近代出版史探索』で、六人社と『民間伝承』にふれているが、『民間伝承』が六人社から発売される昭和十五年五月号から、六人社の出版広告が掲載されるようになり、そのひとつが「民俗学文庫」で、実際には「民俗選書」として刊行されるに至る。
近代出版史探索

 その「近刊予告」には「柳田国男先生を煩はし、郷土生活研究所同人その他の御協力を仰ぎ、『民俗学選集』の刊行を企て」とある。「郷土生活研究所」とは昭和九年に創設され、全国山村調査、漁村調査のために用いられた名称で、それらの完了後、解散に至っている。そのことは六人社が『民間伝承』の発売所となったけれども、その関連の単行本出版に関してはまだ合意に至っておらず、それで断わりとして郷土生活研究所が挙げられているのだろう。それらの「第一期刊行」のラインナップを示す。

1 柳田国男 『国史と民俗学』
2 瀬川清子 『きもの』
3 桜田勝徳 『漁人』
4 橋浦泰雄 『民俗採訪』
5 倉田一郎 『山の夢』
6 関 敬吾 『雨乞』
7 宮本常一 『民間暦』

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これらは昭和十八年までに1、2、3、4、7が出され、その他に山口弥一郎『二戸聞書』、山口貞夫『地理と民俗』の二冊が刊行されている。また続刊として、5、6以外に、大藤時彦『村の祭』、最上孝敬『妖怪』、堀一郎『お寺』、能田多代子『化粧』、平山敏治郎『民謡』、比嘉春潮『沖縄の話』、宮本声太郎『履物』、江間三枝子『白川村の大家族』が挙げられている。
f:id:OdaMitsuo:20191123104839j:plain:h110(『白川村の大家族』)

 これらの中で、4の橋浦の『民俗採訪』だけは手元にある。発行者は戸田謙介、発行所の六人社の住所は東京都小石川区大塚窪町と大阪市西京町のふたつが記載されている。この大阪の住所は六人社と戸田の出自が、桜田勝徳や宮本常一たちの大阪民俗談話会(後の近畿民俗談話会)の近傍にあったことを伝えているのかもしれない。
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 それはさておき、『民俗採訪』は昭和十八年八月に四六判、軽装二四六ページ、初版三千部として刊行されている。その「自序」において、橋浦は日本民俗学の研究者にとって、最初に獲得しなければならないのは、「適当なる場所に於て、直接に採集と探究との事業に参与し、その生々しき体験を身につけること」を通じ、「自らの思索力」を成長させていく必要であると述べ、次のように記している。

 蓋し日本民俗学は、今日やうやくにして、その学道へと発足したばかりであつて、その資料と学説とは尚幾多の検討と補充と是正を必要として居るのであり、加ふるに之等の基本資料は、殆ど文書による記録をなさずして、現在の人々の心身と事物の中に、不文のまゝ伝承保有せられて居り、是を誤りなく採集し探求するには、まず直接それに接触して、その真理真相を確把することが必要であつた。此の修練と体験を積まずしては、折角同志の採集所得せし資料も、その真価を活用することが出来ず、のみならず屢ゝ誤用する弊を生ずるからであつた。

 ここでいわれている日本民俗学理念と方法論こそが、『山村生活の研究』『海村生活の研究』において実践されたもの、また長きにわたって編集に携わった『民間伝承』を貫くモチーフであったことはいうまでもあるまい。この『民俗採訪』にしても、橋浦が大正十四年から柳田国男に師事し、民俗学を志して以来、「約二十年間に沍る之等の小記録」「採訪の旅の折々に、その体験した処を筆録したもの」だが、それらの体現に他ならない。巻末に「採訪要領十項」が収録されていることも、同書が民俗学の手引書たらんことを望んでいるからであろう。

f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120(『山村生活の研究』)f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h120 (『海村生活の研究』)

『民俗採訪』には「採訪要領十項」以外に、十六編の「採訪の旅の」の「小記録」が並び、いずれも興味深いのだが、最初の「笑へぬ山」は静岡県周智郡気多村のレポートで、この気多村はかつておとずれたことがあるので、これを取り上げてみたい。この信遠山脈の南端に位置する山村にはよくないことの起きる山の「クセ山」があり、働き盛りの青年が猅々に出会ったといって寝込んだり、四歳の幼児が行方不明になったり、怪異なものが通過したらしい一直線の筋を見つけたりした。村の人々はこれらを天狗の仕態、狐狸の悪戯、大蛇、猅々のわざかもと考え、まだ神秘が生活と密接していた。また作業中に死人が出た山は「トシ山」と称され、この山を買うと何らかの災厄があるので、どんなに安くても村の人は買わなかった。ところが東海道筋の皮革商が安いといって現金で買い、その後死んでしまった。これは山の祟りで「トシ山」は禁忌の念を象徴していた。

 これらの「クセ山」や「トシ山」の神秘や禁忌は山での仕事の順列などに多くの約束を生じさせ、そのことが自然の作法となり、それを混乱させると災厄を招くとされた。それゆえに個人の所有でも、山の売買は村人の協議と承認を必要とし、古来からの因縁の深い山の所有主の変動を好まなかった。

 ところが明治二十八、九年にこの山村にも時世の波が押し寄せ、「クセ山」や「トシ山」などの問題を解決することなく、製紙会社の誘惑の甘い言葉が降ってきた。「放つて置けば腐朽て舞ふ木ぢやないですか、此処から奥の澤百円なら良い値でせう。亦伐採や流木には村の衆をお願ひするので、その方でも村に大金が落ちることですし……」と。いうまでもなく、神秘と禁忌の山の大木も含め二束三文であった。

 然しそれにも拘らず、村の人々は古来未だ見た事も、持つた事もない大金と、日々の労銀とを現実に握つて、老も若きもひたすら時世と会社に感激し、感謝するの念で一杯であつた。そしてかうした境遇に置かれてゐることが、何か世間に対しても自ら誇らしいことのやうに思へたのであつた。

 だが大正十三年頃に製紙会社が大山郷の木を食い尽くし、この土地を引きあげると、村の人々は愕然としてしまった。村はこの三十年間で、「トシ山」「クセ山」を含め、神秘や禁忌もその影響をなくし、住むべき山を失い、山から得ていた衣食生活も成立しなくなり、苦しさと淋しさの中にある。これは戦後の高度成長期においても各地で起きていただろうし、現在のグロバリゼーション化によって、アジア各国でも生じている問題であろう。橋浦は村の人々が古くからの村の共同生活や自治生活に覚醒しつつあるようだと結んでいる。

 橋浦に関しては、かつて「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いていることを付記しておく。

古本探究3


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