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古本夜話980 椋鳩十『鷲の唄』

 既述したように、前回の三角寛がサンカ小説「山窩お良」を発表したのは昭和七年だったが、ほぼ同時期に椋鳩十がやはり山窩小説を書いていた。椋に関しても、『日本近代文学大事典』の立項の前半を引いてみる。
日本近代文学大事典

 椋鳩十 むくはとじゅう 明治三八・一・二二~昭和六二・一二・二七(1905~1987)小説家、児童文学者。長野県下伊那郡喬木村に生る。本名久保田彦穂。父は牧場経営、少年時代父に伴われ、伊那、赤石山系を渉猟した体験が後年の山窩小説、動物文学への志向につらなる。法政大学国文科(中略)卒業後、浪漫的放浪詩人ふうに本州を南下し、種子島にいたり小学校の代用教員となる。ある県視学の世話により加治木高女の教師となった。この時期に、かねての山野渉猟の体験を生かして山窩小説をまとめる。短編集『山窩調』(昭和八・四私家版)で椋鳩十のペンネームを使用、『鷲の唄』(昭和八・一〇春秋社)を出版し、山窩小説家として注目され『山窩譚』(「毎日新聞」)『山の天幕』(「朝日新聞」)などを発表した。浪漫的で人間主義的な山窩生活を、自然と野生の動物と密着した一体感をもって描きあげた。やがて日華事変が起こり軍国主義の高潮につれて反時局的と目される山窩小説は、しだいに発表の場を失っていく。(後略)

 これを少しばかり補足すれば、『鷲の唄』は公共良俗に反するとして発禁処分を受けたが、講談社の『少年倶楽部』編集長の須藤憲三が椋の山窩小説を読み、少年物が書けると確信し、その依頼で椋は動物小説『山の太郎熊』を書き、児童文学者の道をたどっていくことになる。

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 椋のこれらの山窩小説は発禁処分や児童文学者というポジションもあってか、読むことができなかったが、昭和五十九年に理論社で『椋鳩十の本』(全三十四巻)が編まれ、「山窩物語」として、その第二巻に『鷲の唄』、第三巻に『山の恋』が収録され、ようやく容易に読むことが可能になった。ここではやはり『鷲の唄』にふれるべきだろう。これは昭和四十一年に雪華社から『山窩調』として刊行されたようだが、未見のままである。

f:id:OdaMitsuo:20191215231053j:plain:h120(第二巻) f:id:OdaMitsuo:20191215231547j:plain:h120(第三巻)f:id:OdaMitsuo:20191215232445j:plain:h120(『山窩調』)

 『鷲の唄』は私家版『山窩調』に新作を加えた作品集ゆえに、『山窩調』『鷲の唄』のふたつの「自序」が置かれ、それぞれ「私の祖父は世間で云う所謂山窩であった」、「祖父は、若い頃、山窩の群に投じていたと云う」と始まっている。しかし編者はそれらの「自序」に注釈を付し、これを読み、多くの読者も椋を山窩の子孫だと思いこんでいたけれど、「この序文そのものがフィクションなのである」という椋の証言を引いている。

 この『鷲の唄』には二十七編の作品が収録され、自然の中で野生の動物たちと共生する山窩の生活を「山の放浪民の物語」として描いている。その中の一遍「山の鮫」は次のように書き出されている。「山の仲間は移動する宿場だ。/絶えず二三十人群れていたが、仲間は絶えず変った」と。そうした中での仲間たちの関係や葛藤、男と女の絡み合い、獲物を分け合う、幕や穴における生活、それらは椋ならではの自然描写の中で展開されていく。

 これらの椋の作品群は三角の「犯罪実話」としてのサンカ小説の色彩とまったく異なり、自由な「山の放浪民の物語」であり、そこに『鷲の唄』のコアがあると見なすべきだろう。先の立項紹介では省略してしまったが、第一巻が「全詩集」としての『夕の花園』であるように、椋は学生時代に詩人として出発し、小説は豊島与志雄に学んでいる。つまり三角が新聞記者の実録的文体でサンカ小説を書いたことに対し、椋は詩人や小説家の視線で、山窩物語を提出したといえる。

 しかも『山窩調』の「自序」には「四五年前」から書いてきたと記していることからすれば、三角の「サンカ小説」の影響や刺激を受けてのことではないと見なせよう。それに椋の長野県出身を考えれば、柳田国男の民俗学はその地に多大の影響を及ぼしていたはずだし、本連載935などの岡茂雄、正雄兄弟にしても、長野県生まれであることも、その事実を告げていよう。

 それゆえに椋もまた、前回挙げた柳田国男の「『イタカ』及び『サンカ』」を始めとする『被差別民とはなにか』にまとめられる一連の論稿を読み、それらに触発され、『鷲の唄』を書くに至ったのではないだろうか。そしてそれらは椋の詩人や小説家としての資質も作用し、必然的に故郷の山々にもいたと想定される「山の放浪民の物語」として提出されることになったと推測できる。

被差別民とはなにか

 そしてその「山窩物語」から動物記を独立させることによって、椋は動物たちを描く児童文学者へと転身していったことになろう。


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