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古本夜話992 松村武雄と山崎光子

 前回の一大出版プロジェクトと見なしていい『神話伝説大系』の企画と出版が、どのようにして成立したのか、またその翻訳と編集がどのようにしてなされたのかに関しては詳らかでない。それに例えば、朝倉治彦他編『神話伝説辞典』(東京堂、昭和三十八年)などにしても、何の言及もないのである。ただその中心にいたのは松村武雄で、『神話伝説大系』の第二巻の、彼による「解題」を読むと、『世界童話大系』と「姉妹篇の関係を有してゐる」とあるので、両者は企画と出版、翻訳と編集にしても切り離して考えることはできないだろう。
 f:id:OdaMitsuo:20200112112209j:plain:h100(近代社版) 神話伝説辞典

 そこで両者を含んだ松村の立項を探してみた。すると『日本近代文学大事典』『[現代日本]朝日人物事典』にも立項されているのだが、それらには二つの『大系』への言及がなく、ようやく『児童文学事典』(東京書籍)に見出すことができたので、それを引いてみる。
児童文学事典

 松村武雄 まつむらたけお 一八八三-一九六九(明16~昭44)神話学者、童話研究家。文学博士。熊本県に生まれ、一九一〇年東京帝国大学文学(ママ)大学英文科卒業。二二年より旧制浦和高等学校教授と東京帝大宗教学科講師を兼任していた。文献学、歴史学、民俗学、考古学など各種の学問の成果を総合する学風をもって、同郷の先学高木敏夫と並ぶ神話学者となる。二九年ごろより神話学に関する著作を次々発表。『神話学原論』上・下(一九四〇、四一)は戦後最初の学士院恩賜賞を受ける。四二年に刊行された『古代希臘における宗教的葛藤』は欧米でも注目された。敗戦による精神的挫折ののち、病苦をおして大著『日本神話学の研究』全四巻を完成する。また、児童および児童文学に関心が深く、関連する労作として『世界童話大系』全二三巻、『神話伝説大系』全一八巻の中心的編集にあたり執筆・解題もした。いまだに基本的文献として活用されている。『標準お伽文庫』全五巻(森鷗外・松村武雄・鈴木三重吉・馬渕冷佑共著)は伝承説話の児童向き標準語訳としての信頼度の高い読み物として知られている。(後略)

 松村の『世界童話大系』『神話伝説大系』に至る前史として重要なのは、本連載985の高木敏雄の『比較神話学』に大いなる影響を受けたこと、それにこれも第二巻の「解題」に記されているように、同時代にThe Mythology of All Races , Trubner’s Orietal Series といった叢書やシリーズが英国で刊行されていたことであろう。童話や神話伝説の分野にあっても、民俗学や民族学においてフレイザーの『金枝篇』、宗教学においてマックス・ミューラーの『東方聖書』が控えていたように、そうした英国文献シリーズが不可欠だったし、『神話伝説大系』も、それらの翻訳プロジェクトに他ならなかったといえよう。

f:id:OdaMitsuo:20191219111342j:plain:h115(『比較神話学』、ゆまに書房復刻)

 そうした出版史の事実に加えて特筆すべきは、先の立項の最後のところに示された『標準お伽文庫』で、これは大正九年から十年にかけて、培風館を版元として刊行されている。この共著者のひとりである馬渕冷佑をやはり『児童文学事典』で引くと、彼は東京高師付属小学校訓導で、同職の山崎光子との共著『お伽文学』十二冊があると述べられていた。この山崎光子は、前回の『神話伝説大系』の明細リストに示しておいたように、『白耳義伝説集』や『西班牙神話伝説集』の編訳者に他ならない。

 そこでさらに『日本児童文学大事典』(大日本図書)のほうを繰ってみると、山崎光子ではなく、水田光として立項されていたのである。それによれば、東京高師女子部を卒業し、同付属小学校訓導となるのだが、驚いたことに彼女の妹の夫が松村で、彼から英語を学び、童話や神話伝説の翻訳者となった。また松村を通じて巖谷小波の知遇を得て欧米の民話の翻訳を手がけ、さらに大正時代に入り、小学校教師の間で口演童話への関心が高まると、いち早くストーリーテリングの研究にとりかかり、『お話の研究』『お話の実際』(いずれも大日本図書、前者は久山社復刻)を著しているという。

f:id:OdaMitsuo:20200203141337p:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20200203120351j:plain:h110(『お話の研究』) f:id:OdaMitsuo:20200203120553j:plain:h110(『お話の実際』)

 先の馬渕との共著『お伽文学』は大正六年から七年にかけての宝文館からの刊行で、八年には地理学者の山崎直方と結婚したことで、山崎光子のペンネームを用いることになったと思われる。また『世界童話大系』の訳者としても、確認してみると、全二十三巻のうちの『希臘・羅馬・伊太利篇』『土耳古・波斯篇』『独逸・西班牙篇』の三冊を担当している。残念ながら、『神話伝説大系』と、『世界童話大系』を除いて、山崎光子=水田光名義での翻訳や著書は入手していないけれど、瀬田貞二の『落穂ひろい』(福音館書店)には『お話の研究』の書影が示され、それが「布装大型本」であることが記されている。
落穂ひろい(『落穂ひろい』)

 同書は東京子ども図書館の松岡享子がたまたま入手したもので、アメリカのストーリーテリングの古典であるセーラ・コーン・ブライアントの『子供に語る話し方』(一九〇五年)の紹介を兼ねた日本で初めてのストーリーテリングの本だとされる。瀬田は現在のストーリーテリングの推進者の松岡からその「遠い開始者」に「めぐりあった奇遇」に「因縁めいたふしぎを感じ」ると書いている。

 しかも先の立項によれば、山崎=水田は昭和四年の夫の病没を機として、文筆を絶ち、太平洋戦争後は姿を消し、消息不明のままで、「幻の女流研究者」と呼ばれていたというまさに『神話伝説大系』の翻訳者にふさわしい呼称だったように思える。


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