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古本夜話1002 培風館、山本慶治、川村理助『自由人となるまで』

 本連載999の松村武雄の『神話学原論』 を始めとして、彼の著作の大半が戦前戦後を通じて、培風館から刊行されていることを既述しておいた。それは未見であるけれど、同992で挙げた森鴎外、鈴木三重吉、馬淵冷佑とともに編纂した「標準お伽文庫」全六巻に端を発していると思われる。「同文庫」は大正九年から翌年にかけて培風館から出版され、そして同998でふれた『童話及児童書の研究』が同十一年、『児童教育と児童文芸』が十二年と続けて出されているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20200212153040j:plain:h115(『神話学原論』)

 しかしこの培風館の創業と成立は謎めいたところも見受けられるので、そのことに言及してみたい。培風館の創業者の山本慶治は『出版人物事典』にも立項され、彼が戦前の松村の著作の発行者だし、戦後の『日本神話の研究』全四巻の完結に当たって、松村は「培風館主山本慶治氏に恵心からの感謝をささげる。自分の為事に対する氏の聡明な理解と深甚の同情とがなかつたら、恐らく本書は陽の目を見ずに終わつたであらう」と述べている。これは松村と山本の関係の深さを自ずと物語り、長きにわたる山本という出版者の支えが松村にとっても不可欠であったことを伝えていよう。
出版人物事典
 まずはその山本の立項を引いてみる。

 [山本慶治 やまもと・けいじ]一八八一~一九六三(明治一四~昭和三八)培風館創業者。兵庫県生れ。東京商業師範学校英語科ならびに教育研究科卒。奈良女子高等師範教諭をつとめたが、一九二四年(大正一三)、神田錦町に培風館を創業。当初は東京高師の教育科教科書などで発足、続いて中学生参考書、高等学校、専門学校の教科書・参考書へと発展した。二六年初版の岩切晴二の“岩切の代数”で通る『代数学精義』は長く版を重ねた。四二年(昭和一七)戦時企業整備で設立された中等学校教科書株式会社の社長もつとめた。戦後は数学・自然科学・人文科学に関する専門書・教科書・参考書など幅広く出版を続けた。

 しかしここに大正十一年に培風館から刊行の川村理助『自由人となるまで』を置いてみると、そこに記されていない培風館の前史が浮かび上がってくる。ちなみに私が時代舎で入手した同書は大正十三年七月の十版で、奥付発行者は京橋区銀座の株式会社岡本洋行出版部培風館、代表者山本慶治とある。

 『自由人となるまで』は川村の言葉を借りるならば、「心の自画像」、すなわち五十五年の自伝と見なしてかまわないだろう。それをたどってみると、川村は明治初年に茨城県土浦近郊の草深い田舎に生まれ、十六年に水戸師範に進学し、卒業後はその付属小学校の訓導となるが、二十年には東京に出て高等師範に入る。そして女子高等師範助教諭を経て、和歌山師範に教授兼舎艦として移り、後に校長も務める。三十二年には帝都に戻り、高等師範の教授兼舎艦に就任するのだが、校長と折り合いが悪く、文部省が引き止めたにもかかわらず、三十三年に辞表を出してしまう。

 明治時代において、出自からしても川村は教育界の立身出世を果たしたと思われるにもかかわらず、依頼免官となり、水戸師範の元校長が経営していた機械製造会社に取締役として入り、教育界から実業界へと転身したのである。しかし社長が急死し、支払手形と債権者の問題に悩まされ、一始末がついたのは明治三十七年で、大日本図書株式会社の取締役へと転任することになった。

 大日本図書は中等教科書の発行を専業としていたので、そこで出版業の筋道を学んだ。その一方で、支那の教育の分野に手をつけ、その教科書の発行を企画し、四十年に旧知の人々と泰東同文局を設立し、常務取締役となり、当初は相当の売れ行きだったが、排日の気運の勃興などから行き詰まり、四十三年には解散に至る。次に試みたのは鉛筆製造業であったけれど、これも挫折してしまった。川村にとって実業界は不成功ばかりだった。

 だが川村にしても、「何かやらなくては第一生計に困る。色々考慮の末、小さな出版業を経営しようと決心した」のである。それは大正五年四月のことで、培風館という看板を挙げ、「培風館は館主川村理助が出版業を営む為の機関である。出版業と云へば固より一種の営利事業であるが、館主の本館を経営する趣旨は単純なる営利の為めではない。実に社会国家の為めに一種の貢献をしようといふのである」と始まる七ページに及ぶ趣旨と館則を発表した。すると多くの賛同者を得て子供雑誌『幼年園』を創刊し、中等学校教科書も発行した。

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 教科書は多大の売れ行きを示したが、わずかの私財で始めたこともあり、資金不足に悩まされ、借金も重なり、ついに行き詰まりとなった。そこに岡本米蔵から、自分も多くの著書があり、出版業に関係したいという申し出があり、資金の関係による共同経営というかたちで、培風館を株式会社化した。その後岡本は岡本洋行を設立し、そこに培風館を合併してしまった。そのために岡本洋行出版部培風館として出版事業は継続され、川村はその専務取締役に就任したが、どうも「万止むを得ない事情」で、身を引くことになったように察せられる。

 これらが『自由人となるまで』の奥付に記された発行者表記の真相で、おそらく山本慶治は岡本と培風館の近傍にいて、岡本洋行との合併状況の中で、川村の身代わりとなり、発行者も務めることになったのではないだろうか。それもあって、川村に報いるために『自由人になるまで』、また続いて大正十人江にも川村の『体験生活』を刊行したように推測される。先の立項にあった山本による大正十三年の培風館創業は、彼が岡本洋行から株を買い取り、新たな培風館として再出発したことを意味しているのだろう。

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