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古本夜話1003 弘道閣と『博物辞典』

 前回の実質的な培風館の創業者である川村理助の『自由人になるまで』において、気になるエピソードが記されていたので、それに関しても言及してみたい。

 明治二十年に森有礼が文部大臣となり、師範教育の改善を経て、東京師範学校を高等師範学校と改め、各府県知事に一人、もしくは数人の入学生を選抜推薦させ、各地の師範学校長級の教育者を養成することになった。茨城県では川村一人が選ばれ、東京遊学の機会を得たのである。ところが入学するまで、「どんな学科を修めるのだか一向知らなかつた。来てみると博物学を専修するのだといふ」。水戸の天下国家論の風潮からして、博物学はほとんど没交渉な学科だったが、それでも面白くなり、「一生を苔や虫の研究に没頭してもよいと思つた」のである。

 この事実は明治時代に博物学が師範学校でも必修科目だったことを伝えているし、実際に大正六年の『日本百科大辞典』(同完成会)においても、「はくぶつがく(博物学)[Natural History]」は二ページ近く立項されていて、博物学の時代が続いていたことを意味していよう。

 だが私たちが博物学に注視するようになったのは、荒俣宏が続けて『大博物学時代』(工作舎、昭和五十七年)、『図鑑の博物誌』(リブロポート、同五十九年)を上梓したことによっている。前者において、彼は「博物学という、今はすっかり忘れ去られた学問と、その歴史について語」り、後者ではそれが動植物図鑑を伴うものだったことを教示してくれた。その後、実際に荒俣はその図鑑学の集成として、平凡社から『世界大博物図鑑』シリーズを刊行していったのである。そういえば、先の日本で最初の『日本百科大辞典』にしても、多くのカラーページ図版を収録し、博物学的な図鑑の色彩に覆われていた。

f:id:OdaMitsuo:20200215120123j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20200215120506j:plain:h120 世界大博物図鑑

 確かその頃、どこの古本屋で見つけたのか失念してしまったけれど、一冊の『博物辞典』を入手している。もちろん荒俣が本郷の自然科学、博物学系の専門古書店で見つけて購入した欧米のすばらしい図鑑と異なり、B6判千二百ページ余の辞典にすぎなかったのだが。それを取り出して確認してみると、昭和七年に編集人代表を伊藤武夫、発行人を服部英雄として、神田区錦町の弘道閣から刊行されていた。

 その「序」を寄せているのは、『牧野植物図鑑』の牧野富太郎で、「我ガ博物ノ方面ニハ従来便利ナ良イ辞書ハ無カツタ」ので、「今此珍重スベキ便利ナル博物辞典ノ出現ヲ祝」すと述べている。もうひとつの「序」は京都帝大動物学教室の牧茂市郎の名前で記されている。それによれば、監修者の伊藤武夫は植物学者で、かつて台湾において机を並べた研究仲間だった。伊藤は自分の研究を大衆のための科学知識、科学教育の普及に役立てようとして、『台湾植物図説』『続台湾植物図説』『台湾高山植物図説』『三重縣植物誌』をすでに刊行し、『博物辞典』もまた同様であると。

牧野植物図鑑  f:id:OdaMitsuo:20200216105703j:plain:h115(『台湾植物図説』) f:id:OdaMitsuo:20200216110207j:plain:h125 (『三重縣植物誌』)

 編者の伊藤の「はしがき」にはやはり「綜合的の博物辞典は、また世に出て居ないので、植物、生理、遺伝、雑を村林仁八、鉱物を富岡武義、動物を武岡又吉が分担」し、「爾来三星霜、漸く稿成つた」と述べている。そして同じく編者による「凡例」には「本書は小学校、中等学校に於ける博物科の教授参考及び中等学生、文検受験者の参考指針たらしめる目的で編纂した」との言も見え、昭和に入っても博物学の時代がまだ続いていたことを示唆していよう。

 弘道閣の服部英雄のプロフィルは『日本出版大観』(出版タイムス社、昭和五年、金沢文圃閣復刻)に見出すことができる。服部は明治十四年伊賀生まれで、大正四年弘道閣を創立している。出版人であるばかりでなく、『三重新聞』も経営し、教育界方面にもよく知られ、さらには三千ページにわたる『三重縣史』を編述し、これを自ら刊行しているという。

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 これによって伊藤武夫と服部の関係が推測される。先に伊藤の著書として『三重縣植物誌』を挙げたが、服部の『三重新聞』『三重縣史』をリンクさせれば、彼らは三重県出身ということで結びついたのではないだろうか。伊藤の三冊の『図説』が『博物辞典』の巻末広告に掲載されているように、弘道閣から出されているし、『三重縣植物誌』も同じく弘道閣から刊行されたと考えていい。

 その他の弘道閣の出版物は入手していないが、『日本出版百年史年表』を繰ってみると、大正一年十月のところに、「育生社(弘道閣)創業(服部英雄、1982・12-生)[昭和11・11・3合資会社に改組]」とあった。弘道閣は本連載703の育生社だったことになり、合資会社に改組した際に社名を変更したのかもしれない。それも含めて、前回の培風館だけでなく、出版社の創業年にしても、出版社の生年月日や経歴にしても、事実の追跡は難しいことを示していよう。それは確かに先のプロフィルが伝えているように、服部の「性格が多岐にして、趣味性が余りに広い」し、「教育界及び官途を多年游泳し、此方面に亦多く知られてゐる」ことによっているのだろう。
 
 
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