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古本夜話1006 武蔵野書院とプルースト『スワン家の方』

 本連載985の高木敏雄『比較神話学』を復刻した武蔵野書院は、昭和六年にプルーストの『失ひし時を索めて』の第一巻『スワン家の方』を翻訳出版している。手元にそれがあるけれど、この菊判並製の一冊は背がはがれ、表裏双方の表紙も同様、解体寸前の状態だといっていい。

 昭和七年の刊行だから、八十年前に近いこと、及びよく読まれたことで、このような状態となったのであろう。それでも稀少本ということもあって、古本屋で保存され、巡りめぐって私の元へと届いたことになろうか。

 しかしそのような状態でも、表紙にあるMARCEL PROUST A LA RECHERCHE DU TEMPS PERDU TOME1DU CÔTÉ DE CHEZ SWANは、日本語タイトルが記されていないこともあって、今でも強く迫ってくる。それは本文も同様で、ぎっしりと二十行で組まれた翻訳は二百ページに及び、プルーストの息の長い原文を想起させる。まず知られた書き出しを引いてみる。おそらくこれが本邦初訳だったのだ。

 長い間私はいつも早くから寝ることにしてゐた。時どき、蝋燭が消えると直ぐ、私の眼はふさがるので、「眠るんだな」と自分に言ふ間もなかつたほどだ。それから半時間ばかりたつと、眠らなければならない時間だといふ考へが私の眼を覚ます。私はまだ手にしてゐると思つてゐる本を置き、明りを消さうとする。眠りながらも私は、今さつき読んだことを思い続けてゐたのだ。

 訳者は淀野隆三と佐藤正彰で、前者による「後記」において、『スワン家の方』第一冊は昭和四年に三宅徹三、神田龍雄の四人で翻訳し始めたものだと述べている。それが当時創刊予定だった『文学』から掲載を求められ、その第一号から第四号まで連載し、それ以後の全訳を収録しているという。

 この『文学』は昭和四年に川端康成、横光利一、永井龍男、堀辰雄などの七人を同人として、堀が編集を担い、第一書房からの発行だった。第一号にはプルーストだけでなく、ランボーの小林秀雄訳『地獄の季節』の連載もあり、昭和五年までに全六冊が出され、短命だったけれど、『詩と詩論』と同様に、昭和初期の文学にきわめて大きな役割を果たしたとされる。

 その頃、埴谷雄高は『影絵の世界』(平凡社)によれば、肺結核の治療のために芝白金の北里研究所に通っていて、その「薄暗い待合室の机の上に重ねられている小雑誌のなかにプルーストの翻訳を見いだし」、「きらきらと輝く多面体のような感覚的な触発を私の魂にもたらした」のである。この「小雑誌」とは『文学』のことだったのだ。
影絵の世界

 ここで武蔵野書院のことに戻すと、大正時代の『比較神話学』刊行の頃と小石川目白台という住所は変わっていないが、発行者は前田信ではなく、前田武となっている。これは息子、もしくは親族の者が継いだと考えてしかるべきだろう。そして巻末広告を見ると、『スワン家の方Ⅱ』近刊予告に続いて、雑誌として『詩・現実』、単行本として梶井基次郎第一創作集『檸檬』、室生犀星『庭と木』、佐藤惣之助『釣りと魚』、佐藤春夫訳『車塵集』が挙がっている。
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 『文学』と同様に、『詩・現実』も『日本近代文学大事典』に立項されている。それによれば、『詩と詩論』の同人だった北川冬彦は春山行夫のシュルレアリスム、フォルマリズムに偏向の現実遊離の編集方針に批判的となり、新現実主義(ネオリアリズム)を唱え、昭和五年に新しいクォータリー『詩・現実』を創刊した。編集同人は北川、本連載784の飯島正、同924の神原泰、淀野隆三たちで、プロレタリア文学とも結びついた。ここに発表された主要な作品は梶井基次郎「愛撫」「闇の絵巻」、伊藤整、辻野久憲、永松定共訳、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、中島健蔵、佐藤正彰共訳、ボードレールの評論『浪漫派版芸術』などである。だが『詩・現実』が意図した芸術派とプロレタリア派との結合による新現実運動は実を結ばず、創刊の一年後に第五冊で終刊となっている。しかしこの芸術派と社会派のコラボレーションは昭和初期の詩壇にとっても重要な課題で、『詩・現実』がその問題に先鞭をつけたとされる。

 おそらく武蔵野書院はこの『詩・現実』の発売所を引き受け、併走することを通じて、『スワン家の方』や梶井の『檸檬』などを刊行するに至ったのではないだろうか。淀野や佐藤も『詩・現実』の同人や訳者だったし、先述の梶井の末期の名作「愛撫」や「闇の絵巻」にしても、『詩・現実』に掲載されていたことによって、『檸檬』に収録となったのであろう。

 そのように考えてみると、大正時代の前田信の武蔵野書院は、岡村千秋や郷土研究社の近傍にあったことから、高木敏雄の『比較神話学』や『日本伝説集』の復刻などを手がけた。だが昭和に入って前田武が『詩・現実』の同人たちと交流するようになり、その発売所も引き受けたことで、プルーストの翻訳や梶井の第一創作集を刊行するようになったのではないだろうか。

 なお『詩と詩論』に関しては拙稿「春山行夫と『詩と詩論』」(『古本探究』所収)を参照してほしい。また『スワン家の方』の判型と造本は太宰治の希望によって、処女作『晩年』へと継承されていたったことを付記しておこう。
古本探究


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