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古本夜話1014 宍戸儀一、アーサー・シモンズ『象徴主義の文学』、『批評』

 本連載1008で既述しておいたように、伊藤整の「詩人伝」(『伊藤整全集』第6巻所収、新潮社)は、昭和二十九年に四十九歳で亡くなった宍戸儀一を中心とする昭和初期の詩人たちをめぐる回想と見なしていいだろう。
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 それゆえに、そのイントロダクションも詳細ではないけれど、提出されている。昭和六年頃、伊藤は椎の木社の百田宗治のところで、宍戸を紹介された。彼は「カスリの着物を着て、色が黒く、鼻が高く、無口な男で、眼鏡をかけていたから、ちょっと傲慢に見えた。彼の言葉には、仙台か福島県あたりの訛があり、仙台の東北学院を卒業したということであった」。宍戸は福士幸次郎の知人で、詩人としての才能に自信がないので、評論をめざし、「次第に批評家としての仕事をして行った」とされる。

 その頃、彼は高円寺の暗いみすぼらしい長屋に、陰気な顔をした跛の詩人石川善助と住んでいた。昭和七年に石川は泥酔し、鉄路に落ちて死に、宍戸と草野心平の手で編まれた唯一の詩集『亜寒帯』が残されたという。宍戸も孤独癖が強く、人みしりし、伊藤のような、それほど親交がなかった人間でも、彼にしてみれば、親しいほうの友人だったことに、戦後になって伊藤も気づいたのである。

 これは宍戸に関するラフスケッチといえるもので、具体的な「批評家としての仕事」などにはふれられていない。たまたま昭和十二年に宍戸が翻訳したアーサー・シモンズの『象徴主義の文学』(白水社)が手元にあるが、この一冊の訳書からは宍戸のコアをうかがうことができない。だが彼は幸いなことに、『日本近代文学大事典』に立項され、伊藤が描いたプロフィルとかなり異なる顔を見せているので、それを引いてみる。

 宍戸儀一 ししどぎいち 明治四〇・五・五~昭和二九・八・一九(1907~1954)評論家。北海道生れ。はじめマアツァ等によるマルクス主義に拠り、クオタリィ「批評」(昭七)を主宰したが、吉田一穂や福士幸次郎との交友から、後者の民俗学的研究に共感し、鉄の文化の研究に従った。『民族形成と鉄の文明』(昭一七)『古代日韓鐵文化』(昭一九)はその成果である。このほか、『西行法師』(昭一七)そのほか訳書が多い。戦後は鎌倉書房常務として終始した。

 この『批評』も同じく『日本近代文学大事典』に挙げられているので、それも要約してみる。昭和七年から八年に、宍戸による編集で全二冊が出され、第一冊は木星社書院、第二冊は隆章閣からの発行。「転換期の文学の内面的転成の指針たるべく、批評、研究、文学理論の最高水準を示そうとしたもの。動向的な論策のほか、近代文学の遺産の検討、海外のマルクス主義芸術理論の紹介などを豊富に載せて、現下の対立点を明らかにしようとしている」とされる。具体的にそれらの寄稿者と論考名も見えているが、伊藤などの翻訳もあることを挙げるだけにとどめる。
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 ここでまた驚いてしまうのは『批評』の発行所として、本連載213の福田久道の木星社書院が出てくることである。福田は『木星』『明治文学研究』『唯物論研究』に加え、『批評』の発行にも携わり、まさにこの時代のリトルマガジンの要のようなポジションにいたとわかる。そして文学とマルクス主義をリンクさせる役割を果たしていたようにも思われる。しかし現在に至るまで、福田がたどった戦前の出版史はほとんど追跡されておらず、その軌跡は明らかになっていない。

 ただ宍戸がこのような出版環境に身を置いていたことによって、戦後の「鎌倉書房常務」就任があったのではないだろうか。鎌倉書房は昭和十六年に同志社大学出身の長谷川映太郎によって、鎌倉市内で創業されている。だがやはり社史も全出版目録も出されていないので、長谷川のはっきりしたプロフィルや戦前の出版物の明細は判明していないけれど、歴史、伝記、地誌、紀行を主として始められたという。

 これは推測するしかないのだが、長谷川は木星社書院や先のリトルマガジンの関係者で、宍戸は戦前の鎌倉書房の著者だったことが機縁となり、戦後の役員への就任へと結びついていったように思われる。戦後を迎え、鎌倉書房はそうした戦前の出版分野から転換し、昭和二十一年に『Dressmaker Pattern Book』、二十四年には月刊『ドレスメーキング』を創刊し、ファッション、洋裁分野の出版社の先駆けとなる。ちょうどこの時期の鎌倉書房に宍戸は寄り添っていたのである。
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 そして宍戸の死後も、鎌倉書房は昭和三十九年には月刊誌『マダム』を創刊してさらに成長を続け、最盛期の昭和六十年には年商五十億円に達し、長谷川は日本雑誌協会常務理事も務めている。だが鎌倉書房は平成六年に倒産し、長谷川もその翌年に亡くなっている。この長谷川と宍戸と鎌倉書房の関係の中にも、知られていない様々な出版史が錯綜して詰めこまれているのだろう。

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