出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話927 生活社「ギリシア・ラテン叢書」と田中秀央『ラテン文学史』

 前回はレヴィ・ブリュルの山田吉彦訳『未開社会の思惟』を取り上げながら、そこに山田が献辞を捧げていたジョセフ・コットのほうに紙幅を多く割いてしまった。それは近代文学史や出版史において、コットが創立したアテネ・フランセが果たした役割は想像以上に大きなものがあったのではないかと思われたからだ。山田だけでなく、本連載198の関義、同849の坂口安吾も在籍していたし、その他にもこの連載に登場する多くの人々がフランス語を学びに通っていたにちがいない。それにもかかわらず、詳細なアテネ・フランセ史やコットの評伝は出されていないことによっている。

未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』)

 またこれも前回既述しておいたが、アテネ・フランセがフランス語のみならず、ギリシャ語、ラテン語も教えていたことも重要な事柄のように映るし、それはコットの他に誰が受け持っていたのかも気にかかる。実は企画の成立事情に加え、何冊刊行されたのかも不明なこともあり、言及してこなかったが、大東亜戦争下で本連載131などの生活社から、「ギリシア・ラテン叢書」が企画され、その内容見本も出されている。
f:id:OdaMitsuo:20190616134459j:plain (「ギリシア・ラテン叢書」、『エリュトラー海案内記』)

 この内容見本が生活社のどの出版物にはさまれていたのかは失念してしまったけれど、本連載913のフレイザー『金枝篇』の間にずっと保管してきたのである。それは十ページに及ぶもので、ギリシア文学がアイスキュロス『悲壮劇』(田中秀央他訳)歴史、地誌、科学がアッリアーノス『アレクサンドロス出征記』(栗野頼之祐訳)、哲学、思想、宗教がエウセビオス『教会史』(有賀鐵太郎他訳)などを始めとして五十点、ラテン文学、言語がアップレーイウス『変形譚』(服部英次郎訳)、歴史、地誌、科学がウィトルーウィウス『建築書』(森田慶一訳)、哲学、思想、宗教がアウグスティーヌス『三一神論』(原田信夫他訳)など、三十余点が刊行予定としてラインナップされている。

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 その監修は京都帝大教授田中秀央、顧問が同落合太郎、編輯委員は青木巌、高津春繁、京都帝大助教授泉井久之助、同講師服部英治郎、松本千秋、同支社大学教授有賀鐵太郎、東京帝大助教授神田盾夫、日本大学教授呉茂一、広島文理大助教授高田三郎、東京文理大講師田中美知太郎、龍谷大学教授長澤信壽となっている。もちろん彼らも訳者を兼ねていて、その他にも戦後に著名な訳者と書名を挙げておけば、クセノポーン『アナバスィス』は寿岳文章、ピローン『信仰と理性』は井筒俊彦、ホラーティウス『詩篇』は西脇順三郎などである。

 これはいうまでもないことだが、私はギリシア・ラテンの古典に通じているわけではない。だがそれらの訳者たちとそこに挙げられた書名を見ただけでも、壮観だと思うし、これが大東亜戦争下に企画された叢書だとは信じられない気がする。監修、顧問、編輯委員たちのポジションから考えても、これが京都帝大を中心とするギリシア・ラテンの古典研究者と生活社のタイアップ企画と見なせよう。

 実際に監修の田中秀央は明治十九年生まれで、四十二年に東京帝大文科を卒業し、先述したように京都帝大教授を務め、『希臘語文典』(岩波書店、昭和二年)、『新羅甸文法』(同、四年)を出している。また顧問の落合太郎との編著として、『ギリシア・ラテン引用語事典』(同、十二年)も刊行され、この二人がどうして生活社版「ギリシア・ラテン叢書」の監修と顧問にすえられているのかを了承することになる。
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 前の二冊は言語学者の川本茂雄の旧蔵書と推測されるもので、後の一冊も編集資料として手元に置いているが、それこそ半世紀ほど前に田中の『ラテン文学史』を購入している。そのきっかけは澁澤龍彥が貴重な文学史の一冊だと書いていたのを読み、その直後に古本屋で見つけたからで、近年名古屋大学出版会から復刊されたはずだ。「ギリシア・ラテン叢書」の一冊として、田中の『希臘・羅甸文学史』が予告されていた。あらためて『ラテン文学史』の「緒言」を読んでみると、次のような文言が見える。

 ローマ文学即ちラテン文学は近代西洋文学の直接の根源と背景とをなせるものであうって、よし直接に古代ギリシア文化にふれ得ない人でも、古来、ラテン文学を通してギリシア文学を味ふと共に、ラテン文学をも鑑賞してゐたのである。ギリシア文学とラテン文学とは切つても切れぬ姉妹関係にあるので、その一方の研究のみでは、西洋文化を内容において將又形式において完全に理解することは出来ぬであらう。この度、生活社が西洋古典文学の原典に拠る邦訳といふまことに有意義なる叢書の刊行計画をたてられるにあたり、その相談に預れる不肖として、まことに僭越ながら、その一般的紹介の意味で、簡単な古代ギリシア文学史とラテン文学史との姉妹篇を世に送ることにした。

 ここに図らずも、「ギリシア・ラテン叢書」の企画の意図が語られていることになる。ただこれらの文言が「皇紀二千六百三年三月二日」付で記されていることにも留意すべきだろう。

 結局のところ、『希臘・羅甸文学史』はまず『ラテン文学史』が出され、姉妹篇としての『古代ギリシア文学史』は未刊のままになったと思われる。巻末の「ギリシア・ラテン叢書」の既刊として、『ラテン文学史』の他に、ヘロドトスとトゥーキュディデースの『歴史』(いずれも青木巌訳、上下)、キケロー『ラエリウス(友情論)、大カトウ(老年論)』(長澤信壽他訳)が挙げられている。とすれば、昭和十八年五月までに四点六冊が刊行されたことは確かだが、その後の続刊は確認していない。


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古本夜話926 レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』とジョセフ・コット

 本連載922の山田吉彦はモースの『太平洋民族の原始経済』に先駆けて、昭和十年二小山書店からレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』を翻訳刊行している。これは菊判の裸本が手元にあり、まずモースの翻訳と同様に、「A Monsieur Joseph Cotte, mon cher maître et ami 」という山田による献辞が見える。このジョセフ・コットは自伝や評伝も出されていないと思われるので、竹内博編著『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ)などにより、その簡略なプロフィルを提出してみる。
未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』) f:id:OdaMitsuo:20190616102918j:plain:h113

 コットは一八七五年フランスに生まれ、リヨン大学、パリ大学で学位を取得し、一九〇四年にイランのテヘランでペルシャ皇太子の家庭教師を務めながら、ラフカディオ・ハーンの著作に親しみ、日本に憧れ、一九〇八年=明治四十一年にシベリア経由で日本を訪れた。翌年に再来日し、ケーベル博士の後任として、明治四十五年まで東京帝大でフランス語とラテン語を教えた。そして大正元年に神田にフランス語を教える夜学校アテネ・フランセを独力で創立し、日本においてフランス語だけでなく、ギリシャ・ラテンの古典語、古典文学の教育に多大の貢献を果たしたとされる。日仏学院などのフランス政府の後援によるものと異なり、コットは自らの理念に基づく自由な教育方針を尊重し、戦後も戦災にあったアテネ・フランセの復興に取り組み、校舎を現在の駿河台に移転させた。そして昭和二十四年に雑司ヶ谷の自宅にて死去し、音羽護国寺に埋葬されたという。

 明治四十四年に山田は開成中学時代に函館に家出し、トラピスト修道院にいたコットに出会い、その薫陶を受ける。大正六年に慶應大学理財科を中退し、コットのもとでフランス語と古典語を学び、アテネ・フランセの教師となっている。それからラマルクの小泉丹共訳『動物哲学』ファーブルの林達夫共訳『昆虫記』(いずれも岩波文庫)などの翻訳に取り組み、先の『未開社会の思惟』の刊行に至る。これには一九二八年付のレヴィ・ブリュルの四ページに及ぶフランス語の「序」が置かれている。
動物哲学 昆虫記

 しかしその「訳者序」は刊行の前年の一九三四年=昭和九年九月付で記され、そこには三校を中途まで見て、パリに立たなければならないとあるが、これは既述しておいたように、フランス政府奨学生としての出発のことをさしている。またそこには六年前に柳田国男に翻訳について相談すると、「本書は日本の民族学研究者が先ず第一に読まなければならない本である」との励ましを受けたとの言が見える。

 山田と柳田とブリュルの関係だが、「日本の民族学研究者」という文言からすれば、柳田たちが大正十四年から昭和三年にかけて刊行していた『民族』を通じて成立したと推測される。だが『民族』に山田の寄稿やブリュルに関する記事は見当らないし、柳田にしても『日本の祭』などにブリュルの名前は挙がっているけれど、山田と同様に具体的に言及されていない。それからブリュルの「序」と小山書店刊行年の六年に及ぶタイムラグは何を意味しているのか。
日本の祭

 山田は小山書店版を改訳し、昭和二十八年に岩波文庫化しているので、それを確認してみると、山田による「凡例」にいくつかの付記がある。それによれば、山田が自ら『未開社会の思惟』の翻訳権を獲得していたこと、及びコットとブリュルが親しい友人だったという事実である。これは詳細がまったく不明だが、山田は昭和四年に山濤書院を経営し、破産させている。おそらくこの書院の刊行物として、『未開社会の思惟』は企画され、翻訳権取得とともに、ブリュルの「序」も送られていたのではないだろうか。ところが破産したことで出版できず、昭和八年に岩波書店にいた小山久二郎が小山書店を創業したことから、未刊のままだった『未開社会の思惟』の刊行を引き継いだように考えられる。

 さて前置きが長くなってしまったけれど、この『未開社会の思惟』のアウトラインだけでもふれておこう。ブリュルは「諸論」に示されているように、本連載906や913などのイギリス人類学派のタイラーやフレイザーの影響を受けながらも、タイラーのアニミズムに代表される、現在から見ての知性主義的合理的推論を批判し、未開人の心性を社会的事実である集団表象として捉え、文明人とは異なる「原始心性」が存在すると見なす。未開人は道具や発明に驚くべき手際を発揮し、芸術品にも同じくその才能を見せ、言語にしても、文明人の国語と同じ文章構造を備え、子供たちも宣教師の学校で学びの能力を発揮する。そしてブリュルはその「序」でいっている。

 けれども、こららに劣らず驚くべき事実は大多数の例に於て「原始心性」は我々のもののやうに構造されて居ないと云ふことを示してゐる。それは他の方向に方位づけられて居る。それは異つた道を通つてゐる。我々が続発因を恒常的に先行件を求めるところで、この心性は到る処にその作用を感じて居る神秘的原因にしか注意を与へない。一つの同じ存在が同じ時に二つ或ひはそれ以上の場所にあると云ふことをこの心性は造作もなく認めてゐる。それは屡々融即の法則にしたがつてゐる。そしてその時、この心性は我々の精神が認容しない矛盾に対して無関心になる。それ故この心性を我々の其れに比べて論理前的だと云ふ事は許される。

 このような視座に基づき、原始人の集団表象から始め、分析されていくことになる。


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古本夜話925 金子光晴『マレー蘭印紀行』

 前回の神原泰『蘭印の石油資源』にふれながら、タイトルのこともあり、絶えず想起されたのは金子光晴の『マレー蘭印紀行』だった。ただ私が読んでいるのは中公文庫版なので確認してみると、初版は昭和十五年十月に山雅房から刊行されていて、神原の著書とほぼ同時代に出されているとわかる。やはり昭和十年代後半は大東亜戦争と併走するように、蘭印も含めた東南アジアに関する多くの出版物が次々に企画され、本連載でもそれらを取り上げてきた。その時代ならでは著作や研究として刊行されたのであろう。金子の旅行記にしても、そうした一冊だったと考えられる。
マレー蘭印紀行(中公文庫版)

 それを物語るように、金子は「跋」において、「南洋の旅行記を山雅房の川内氏の好意で出版するはこびになった。/この旅行記は、もっと早く出版したかったのだが、都合が悪くて今日まで延びてしまった」と記している。それに加えて、私は『金子光晴』(新潮日本文学アルバム)で、山雅房の『マレー蘭印紀行』の書影を見ているけれど、山雅房のことや「川内氏」が川内敬五であること以外は、残念ながら何もつかめていない。

金子光晴  f:id:OdaMitsuo:20190614163847j:plain:h115(山雅房版)

 だがこの「南洋の旅行記」は、昭和三年から七年にかけての渡欧の途次に立ち寄ったシンガポール、マレー半島、ジャワ、スマトラなどの「熱帯地の陰暗な自然の寂莫が読者諸君に迫ること」を意図し、帰国後に徐々に書き継がれていたとされる。その事実を知ると、やはり内容が時期尚早で、その出版を受ける版元がなく、ようやくこの時代になって、山雅房が名乗りを上げたと見ていいように思われる。またこの旅は妻の森三千代を伴っての、金子の二回目の渡欧に他ならなかった。それにこの戦前における『マレー蘭印紀行』の上梓があったからこそ、戦後になってそれらをトータルに記録した自伝的小説ともいえる『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』(いずれも中公文庫)も書かれるに至ったのではないだろうか。 私も『どくろ杯』の上海滞在記を参照し、以前に拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)を書いていることを付記しておこう。

どくろ杯  ねむれ巴里  西ひがし  書店の近代

 さてここで『マレー蘭印紀行』に戻ると、そこには前回の石油資源としての即物的な蘭印とはまったく異なる、金子のいうところの「熱帯地の陰暗な自然の寂莫」を孕んだ蘭印が十全に描かれている。そこからその特有の熱気と湿度に包まれた熱帯地の原色の色彩が迫ってくるし、それは金子が日本人としてはまさにアンリ・ミショーの『アジアにおける一野蛮人』(小海永二訳、弥生書房)ではないけれど、「東南アジアにおけるエイリアン」のような眼差しとポジションを有していたことを伝えているかのようだ。
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 それゆえに「熱帯地の陰暗な自然の寂莫」が浮かび上がってくるし、それは昼の世界と異なる熱帯地の闇の深さに他ならない。熱帯地の夜のジャングルとは、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』(鼓直訳、水声社)のエピグラフに記したヘンリージェイムズの「人生のメタファーとしての狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」のようにして現れる。金子は書いている。
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 夜の密生林(ジャングル)を走る無数の流れ星。交わるヘッドライト。
 そいつは、眼なのだ。いきものたちが縦横無尽に餌食をあさる炬火(たいまつ)、二つずつ並んで疾走(はし)る飢渇の業火なのだ。
 双の火の距離、火皿の大小、光の射(や)の強弱、燃える色合いなどで、山に人たちは、およそ、その正体が、なにものなにかを判断する。ゴムの嫩葉(わかば)を摘みにくる麋、畑の果物をねらう貍(モサ)、鶏舎のまわりを終夜徘徊する山猫、人の足音をきいて鎌首をもたげるコブラ、野豚(バビ)、怖るべき豹、―それぞれに、あるものは螢光、あるものは黄燐、エメラルド、茶金色、等々。あやめもわからぬ深海のふかさから光物は現われ、右に、左に、方向をそらせて條光(しゆつこつ)と消える。(後略)
  
 窓の外は、どんよりとした闇空であるが、雨は一静雲落ちてこない。
 雨の樹(レイン・トリー)が、オラン・ウータンのように、毛むくじゃらな枝を、次から次へ、縦横にのばして、からみあっていた。その枝のあいだにのぞく闇が、毒血を吸込んだ蛭のように、まるくふくれかえっていた。

 このような夜の闇と動物たちのざわめき、風景描写を前にすると、高度成長期以前の田舎の闇の深さや森の不気味さを思い起こしてしまう。そういえば、二十年ほど前のことだったが、ロンドンで貿易商を営んでいる友人がベトナムに出張した際に手紙を寄越し、ここにはイギリスや日本で失われてしまった闇の暗さがまだ残っていると書いてきたことがあった。かつての日本の農村は街灯もなければ、人通りもなく、もちろん車も走っていなかった。だから星が見えなければ、夜は漆黒の闇に近かった。

 日本は熱帯地ではないけれど、『マレー蘭印紀行』は東南アジアの夜の風景や闇の深さが日本と地続きであることを示唆し、日本も紛れもない東南アジアの一画に位置していることを暗示しているかのようだ。それは大東亜共栄圏幻想を胚胎させたファクターでもあったかもしれないし、金子の後の『どくろ杯』に始まる三部作と異なる色彩を放つ描写を形成するものとならしめているのだろう。

 この『マレー蘭印紀行』に触発され、そこからの一節を添え、一冊の写真集が編まれている。それは横山良一の『アジア旅人』(情報センター出版局)、『金子光晴の旅』(平凡社)で、前者は熱帯地の明るさに注視し、それらを映し出しているといえよう。
アジア旅人 金子光晴の旅

 なお戦後の山雅房は神道書出版を主としているようだが、戦前と同一の版元であるのかは確認できていない。
 

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古本夜話924 神原泰『蘭印の石油資源』と「朝日時局新輯」

 前回のリーゼンバーグの『太平洋史』の出版の翌年の昭和十七年に、やはり朝日新聞社から神原泰の『蘭印の石油資源』という七三ページのブックレット判の一冊が出ている。「蘭印」とはその見返しの地図に示されているように、オランダ植民地の東インド、つまり現在のインドネシア共和国をさし、具体的にいえば、その「石油資源」はスマトラ島、ボルネオ島、ジャヴア島などにあり、それらの油田はボルネオ油田組合、コロニアル石油会社、オランダ石油会社に支配されている。ただ神原によれば、これらの石油会社は英米資本の傘下に置かれているようだ。
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 神原はその「序説」を、「蘭印の石油は、大東亜戦争における大きな希望の一つであるが、更に大東亜戦争の最大な原因の一つであつたことは、断言しても誤りないである」と始めている。

 これを補足すれば、昭和十六年七月の日本に対するアメリカの「徹底的石油断交」によって、アメリカの石油はもちろんのこと、イギリスや蘭印の石油も断たれ、所謂「A・B・Dの石油封鎖」状況の中で、日本にとっては蘭印の石油を支配することが緊急の問題となっていた。それは「東亜共栄圏中最も多く石油を産出するものは蘭印であり、もっとも多く石油を消費するところは日本である」からだ。かくしてこの『蘭印の石油資源』が朝日新聞社の「朝日時局新輯」の一冊として刊行されたことになる。この巻末に「編者付記」が置かれ、そこに「皇軍は二月二十八日夜来ジヤバ島に上陸を敢行し忽ち戦火を拡大、一方スマトラその他蘭印全島の完全攻略も時間の問題」と記されている。

 その「朝日時局新輯」の「発刊の趣旨」は次のように謳われている。「世界は今や有史以来空前ともいふべき大戦と激動の最中にある。今日に一日一ヶ月は過去の歴史中の十年にも一世紀も匹敵する変転を続けてゐる。かうした異常極まりなき時機において最も大切なことは、矢継ぎ早に起きつゝある内外百般の出来事の中で、その主流的な題目につき正確な知識と認識とを持つことである」として、このブックレットシリーズは企画刊行されたことになる。

 『朝日新聞社図書総目録』を繰ってみると、この「朝日時局新輯」は昭和十六年九月に始まり、『蘭印の石油資源』はその19に当たり、二十年九月の嵯峨根遼吉『原子爆弾』に至るまで七十点ほどが出されたとわかる。全点は挙げられないけれど、18までリストアップしてみる。
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1 朝日新聞政経部編 『対日包囲陣と臨戦態勢』
2 益田直彦 『独ソ戦の長期化とソ連の抗戦力』
3 神川彦松 『米国参戦問題』
4 久門英夫 『物価問題と国民生活』
5 末松満 『世界動乱図』
6 奥野七郎 『要約マイン・カンプ』
7 朝日新聞政経部編 『戦時下の産業合理化』
8 室賀信夫 『シンガポール』
9 安藤一郎 『ルーズヴエルト』
10 太田正孝 『戦時財政と増税』
11 松下正壽 『フイリツピン』
12 久門英夫 『変貌する日本産業』
13 朝日新聞調査部編 『変貌する日本産業』
14 高山毅、高垣金三郎 『学年短縮と兵役』
15 杉本健 『太平洋海軍問答』
16 野村宣 『法幣の壊滅』
17 藤田義光 『防空法解説』
18 寺田勤 『労務調整令の解決』

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 これらの著者に関しては、本連載901でも8の室賀は取り上げているが、他の人々については別の機会に譲りたい。19に見える神原の紹介は、「中央大学商科、外国語学校イタリア語科卒業、現在日本石油株式会社調査課長、商工省燃料局、陸軍燃料廠 、企画院各嘱託員たり。美術並に石油に関する著訳書多し」とある。

 だが私たちは神原の顔を知っているし、それは『日本近代文学大事典』にも立項されている。

  神原泰 かんばら たい 明治三一・二・二三~平成九 (1898~1997) 詩人、画家、芸術評論家。東京生れ。(中略)大正後期から昭和初期にかけて、未来派を中心として前衛芸術運動の旗手として、指導的役割を果たした。「熱狂し、一日、二、三時間しか眠らないで議論し、製作し、講演し、執筆した」とみずから回顧するごとく、その精力的な活動は国際的にも評価をされ、F=T=マリネッティのLA GRANDE MILANO TRADIONALE E FUTURISTA にも、Tokioの同志としてTai-Kanbaraの名が記載されている。

 この立項は一ページ近くに及んで、彼の近代文学史における存在の意味と影響を伝えているのだが、長すぎるきらいもあり、要約するしかない。神原は前衛詩人として注目される一方で、個人展覧会を開催し、日本における最初のアバンギャルディスト宣言を発表し、新鋭画家としての名声を確立する。そして未来派のイデオローグとして、常に新興芸術のスキャンダラスな創造の嵐の中心に位置していた。これは本連載でも後述するが、昭和三年には春山行夫たちと『詩と詩論』を創刊するが、左傾し、北川冬彦らと『詩・現実』の創刊に至る。さらに未来派の機械文明讃美を断罪し、自らの命運を担った未来派に思想的訣別を告げたとされる。

 そのかたわらで、神原は大正九年から石油業界に半生を捧げていたとされ、私は『蘭印の石油資源』しか読んでいないけれど、石油に関する著作も多く刊行しているのだろう。日本における未来派詩人やアバンギャルディストにしても、このようにして大東亜戦争の渦中に向かいつつあったことになろう。

 
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古本夜話923 リーゼンバーグ、太平洋協会訳『太平洋史』

 続けてマリノウスキー『西太平洋の遠洋航海者』、マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』、マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』などの太平洋民族に関する文化人類学や社会学の著作にふれてきた。また以前にも本連載584などで太平洋協会とその出版物、同587で矢内原忠雄『南洋群島の研究』、同678で室伏高信『南進論』、同682でダイヤモンド社『南洋地理大系』、同687で東邦社『南方年鑑』を取り上げてきた。文化人類学の研究書の翻訳はいずれも昭和十七、八年に出されているけれど、それらも太平洋協会を始めとする出版物と併走していたことはいうまでもあるまい。

西太平洋の遠洋航海者(『西太平洋の遠洋航海者』) f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h115(『マヌス族の生態研究』) 南洋地理大系 

 たまたまそれらをトータルに表象するような一冊を入手したので、ここで書いておきたい。それは昭和十六年三月に朝日新聞社から刊行されたリーゼンバーグの太平洋協会訳『太平洋史』である。そこには『太平洋問題の再検討』という近刊の投げ込みチラシがはさまり、蠟山正道の「大東亜広域圏論」を巻頭に置き、続けて三木清「東亜新秩序の歴史的哲学的考察」など七編が収録されているとわかる。『朝日新聞社図書総目録』を確認してみると、これも太平洋協会編とあり、両書は姉妹書のようなかたちで出されていたことになる。いってみれば、タイトルに示されているように、昭和十六年は日米開戦を迎えつつあり、「太平洋問題の再検討」が迫られていたことを浮かび上がらせていよう。

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 そのことを象徴するが如く、『太平洋史』の表見返しには太平洋におけるクックの航行図、裏見返しにはマゼラン航海図が転載され、太平洋そのものの世界における構図、及びその覇権のよってきたるべき歴史を知らしめるような役割を伝えている。

 「訳者はしがき」は太平洋協会常務理事としての鶴見祐輔名で書かれている。そこで鶴見は著者のリーゼンバーグが探検家にして、海の権威者で、『太平洋史』は資料に基づき、探検家、開拓者の業績を叙述し、太平洋史の全貌を明らかにせんとする労作だと認めながらも、次のように述べている。「今や西洋の没落と共に世界史の中心が太平洋に移行せんとする大勢顕著なる秋」を迎え、「太平洋が如何にして世界史の上に登場して来たか」、「その探検開拓に活躍したる欧米各民族が日本の太平洋国策に如何なる影響を及ぼしたか」を明確に把握することが必要であり、そのためにここに訳出したと。そしてさらに付け加えている。

 勿論この本にも多くの不満はある。太平洋の開拓と称しつゝも、実はマゼラン海峡を通過して来た人々の事蹟を中心として描いてゐるが故に、例へばポルトガル人、オランダ人等のマラッカ海峡を拠点としての活躍や、十九世紀における西欧諸列強の帝国主義的活動については触れるところが少い。殊にこの書の最大の欠点は、ヨーロッパ人種の立場において書かれた歴史であるため、東洋人、即ち日本人、支那人、印度人等の東南アジアを舞台とする活動について全然触れてゐないことである。しかしながら、これらの研究を中心にした太平洋の新しき歴史を書くことは日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設と共に、今後われゝゝに残された一大課題である。

 本連載584で既述しておいたが、太平洋協会は昭和十三年に鶴見によって設立され、ここで述べられているように、「日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設」と「太平洋の新しき歴史を書くこと」を目的としていたと考えていい。それは太平洋問題に関する総合的なシンクタンクの形成を意図し、必然的にアカデミズムと提携し、雑誌や書籍の出版も兼ねることによって、これも同585で示しておいたが、多くの出版社とコラボレーションしていく。それには朝日新聞社も加わっていたことになるし、大東亜戦争と大東亜共栄圏構想と併走し、矢野暢が『日本の南洋史観』(中公新書)でいっているように、「昭和十年代は『南進論』の黄金時代」を迎え、太平洋協会の歩みとクロスしていったと思われる。
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 だがその全貌は明らかにされておらず、この『太平洋史』の翻訳は太平洋協会調査部の関嘉彦、中野博、上原仁の手になるとされる。やはり同584で、同調査局は平野義太郎を局長とし、関の名前も挙げておいたけれど、中野や上原はここで初めて目にする名前で、この二人にしてもどのような人物であろうか。かつてそこで「大東亜共栄圏は地政学をベースとして、人類学と政治学と民族学が三位一体となって推進される」と書いたが、それに左翼からの転向者も含まれることは自明だし、これらの三人もそうした関係者だったのではないだろうか。

 そしてこれは鶴見俊輔がどこかで語っていたし、黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社)でも明らかにされているが、戦後を迎え、『思想の科学』はこの太平洋協会の取次口座を利用して創刊されることになるのである。
鶴見俊輔伝

 なお関は河合栄治郎の弟子で、昭和二十一年に社会思想研究会、後の社会思想社設立に参加し、出版部取締役を経て、東京都立大教授、民社党の中枢人物となっている。


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