出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1051 新潮社と『生田春月全集』

 昭和五年十二月に新潮社から『生田春月全集』全十巻の刊行が始まった。『新潮社四十年』は「新潮社出版年史」において、「その思想的煩悶の為めに昭和五年五月海に投じて死するに際し、書を遺して、全集出版の事を託された。即ち『生田春月全集』全十巻を刊行して、この縁故深き詩人の霊に捧げたのである」と述べている。また同書には『生田春月全集』のカラー内容見本も掲載され、それが昭和二年の『世界文学全集』と同じ「予約出版」形式での出版だとわかる。このような春月の死から半年後の迅速な全集の刊行は、あらためて予約出版に基づく昭和円本時代が続いていたことを示唆していよう。
 f:id:OdaMitsuo:20200704172533j:plain   f:id:OdaMitsuo:20190208103344j:plain:h113(『世界文学全集』)

 この『生田春月全集』第一巻を入手している。函無し裸本だが、この一冊には前回挙げた大正六年の処女詩集『霊魂の秋』を始めとする八詩集が収録されている。しかも巻末の「全十巻目次」を見ると、第二、三巻も翻訳も含めた詩集、第三、四、五巻は小説、第七、八、九巻は感想集、及び雑篇、第十巻は評論集とあり、三十八歳の短い生涯にあって、春月が大正時代を通じて、詩人、翻訳者、小説家、それにこの言葉はよく使われていたのかわからないけれど、感想家として、本当に多くの作品を残したと実感させてくれる。
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 しかも第一巻の『霊魂の秋』はそのタイトルの章だけでなく、「シンプル・ハアト」「我が画廊より」「一詩人の言葉」「Taedium vitae」「道化者として」「心の放浪」「落穂びろひ」という全九章、百余の詩からなり、それらは一九〇九年から一六年、すなわち明治四十二年から大正五年にかけての作品とされる。その年代から判断すると、前回既述しておいたように、春月が上京し、生田長江の家に身を寄せたのは明治四十二年十七歳の時だったはずなので、上京後に詩作されたと考えられる。それらの『霊魂の秋』に残りの七詩集の作品を加えると、この第一巻に上下二段組で六百作近くがぎっしりと収録されていることになる。

 さらに第二、三巻も詩集であり、それらに翻訳が含まれているにしても、春月は膨大な詩を書いていたのであり、その詩の流れから、自動記述のようにして書かれていたのではないかというイメージすらももたらされる。これはやはり上下二段組、八ページに及ぶ「自序」からも伝わってくる。これは次のように書き出されている

 あまりにも早く墓の彼方に運ばれし生命(いのち)よ。それは春の夜のおぼろなる花かげを忍びやかに通り過ぎたあの微風ではなかつたか? 夏の夜の地平線の上に明滅した稲妻の一閃ではなかつたか? いずれにしても、それは白昼のものではなかつた――あゝ、我が青春よ、我が青春の夢よ、我が青春の嘆きよ!

 それに続いて、「あゝ、青春の日は貧しき歩行者の上に、いかに速かに暮れるであらう!」とさらに「青春」がリピートされ、春月の詩が「青春の夢」と「嘆き」をモチーフとすることを暗示している。そして「私は『未だ認められずにして已に忘られた詩人』である」し、「これが私の運命」とも称される。この告白は所謂ロマン主義者の先天的な挫折の観念へともリンクしていく一方で、そのことによって「失はれたる幸福の歌」を形成する。それは「楽しむ事なくして永遠に返る日なく失はれてしまつた青春の輓歌である」し、そのような詩を通じて、「自分のやうなものでも、なお何等かの足跡を此世に残して置きたい」からだ。

 そして「霊魂の秋」の最初の詩「断篇」へと移っていく。その第一連だけを引いてみる。

   あはれわが胸こそ
   あめつちのあやしき鏡、
   悲しくも、嬉しも、うつるが儘に
   くもりてはまた照れど、
   よろこびは消えやすく
   かなしみはながくとどまる。
   くだくるまでは眠りがたきに
   絶えず人の世の影をうつして、
   とこしへに止む日もあらぬ
   なげきをぞする。

 おそらく大正時代には春月のような思いに捉われた若い詩人や読者たちが多く出現していたにちがいない。それらの人々が春月の多くの作品を支えていたのであり、この第一巻の詩集を通読し、あらためて大正がそのような時代だったと確認できよう。そのことは巻末に「生田春月遺稿進呈」という「抽籤券」が添付され、その番号が3117である事実にも表出している。これは第一巻の全冊に添付されていると推測されるので、この全集の予約購読者数は三千人を超えていたのであろう。

 また奥付のところに「編輯者」として、生田花世と生田博孝の名前が並記されているが、これは後に戸田房子『詩人の妻 生田花世』(新潮社、昭和六十一年)を読み、了承することになった。同書によれば、全集刊行が始まる前に、新潮社で印税をどうするかの話し合いがもたれた。遺産継承者は妻の花世、春月の両親はすでに亡くなっていたので、米子市に住む末弟の生田博孝であり、新潮社の意向として、「著作権は半々にしたら、どうかというもの」で、中村武羅夫や加藤武雄たちはそれに賛同した。花世は春月の「自分が死んだあと、すべてのものを妻の花世に遺す」という遺言状を差し出したが、それは何年かの記載がなく、酒に酔った時に花世に強要されて書いたという印象を与え、採用されず、「半分と決まったのだった」。
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 戸田はもちろんそれに関してフォローしている。「花世はその決定に強い不満をもった。誰一人自分の立場を理解してくれない。春月の仕事にいかに協力したか、妻の協力があったからこそ、あれだけの著述が出来たのだ」と。だがどうして「編輯者」の表記が二人に付せられたのかには言及していない。それはどのような事情があったからなのだろうか。


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古本夜話1050 生田春月『真実に生きる悩み』

 生田春月の感想集『真実に生きる悩み』が手元にある。これは小B6判、並製三一五ページ、大正十二年初版発行、十三年十一版の一冊で、新潮社から出されている。
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 その巻末広告を見ると、春月の「文壇嘱目の中心となれる一大長篇小説」として、二千有余枚の『相ひ寄る魂』上中下巻、詩集として『霊魂の秋』『感傷の春』『慰めの国』『私の花環』の四冊が並び、大正末期が春月の時代であったことを伝えていよう。
f:id:OdaMitsuo:20200704143647j:plain:h110 (『感傷の春』)

 『日本近代文学大事典』で春月を引いてみると、ほぼ一ページの立項があるので、その軌跡をたどるために要約してみる。彼は明治十五年米子市に生まれ、高等小学校中退後、各地を流浪する中で詩作を続け、十七歳で上京し、生田長江の玄関番兼書生となる。前回記述したように、この時期に中村武羅夫と知り合っている。長江の紹介で新潮社の「講義録」の添削の仕事に携わり、そのかたわらで、ドイツ語を独学で修める。『帝国文学』などに詩作品が掲載され、詩人として立つ決意を固める。大正三年に『青踏』同人の西崎花世と結婚し、六年二十六歳で第一詩集『霊魂の秋』、七年には『感傷の春』をいずれも新潮社から刊行し、詩人としての地位を確立する。これらの詩集の成功は、新潮社に詩話会の運営や詩誌『日本詩集』の刊行を促すことになった。その一方で、春月は翻訳家としても活躍し、ハイネ研究にも励み、詩雑誌『詩と人生』も主宰した。しかし次第にニヒリズムに陥り、昭和五年三十八歳で播磨灘に身を投じ、その生涯に自ら終止符を打った。
 
 『新潮社四十年』所収の「新潮社刊行図書年表」を見てみると、本連載833でもふれたように、明治四十年代から新潮社と生田長江の関係は深く、ニーチェなどの翻訳も出し始めていたので、長江を通じて春月も新潮社から著書や翻訳を刊行していくのは当然の成り行きであった。大正四年には『修養語録』とゴーリキイ『強き恋』が出され、それらが詩集の出版とリンクしていったのであろう。また大正時代の新潮社の出版を追っていくと、大正五年の江馬修『受難者』、八年の島田清次郎『地上』のベストセラー化によって、出版活動が隆盛となっていくのがわかるし、春月の大長編小説『相ひ寄る魂』にしても、これらの長編のベストセラー化を意識して書かれたはずだ。
f:id:OdaMitsuo:20200704151657j:plain:h110 地上

 さらに大正十年代には春月の『漂泊と夢想』を始めとする「感想集」シリーズが、吉田絃二郎『小鳥の来る日』『草光る』、江馬修『心の窓』、島崎藤村『仏蘭西だより 戦時に際会して』として続刊され、それに『真実に生きる悩み』も加えられていくことになる。同書の巻頭に置かれた同タイトルの一編を読むことで、春月の「感想集」の一端を覗いてみたい。まず春月は自分のポルトレを提出している。
f:id:OdaMitsuo:20200704164449j:plain:h110(『草光る』) f:id:OdaMitsuo:20200312175535p:plain:h110

 私は孤独な人間であつて、あまり賑やかな人中に出て行くのは好ましくないので、大抵家に引籠つて、丁度屋根裏のやうな感じのする狭い書斎で、静かに好きな本を読むとか、自分の書きたい事を書くとか、又は、いろゝゝな小さな計画を立てゝ見るとか、さうした事で、毎日の日を送つている。

 それから続けて、「私は大体系統立つた学問をして来なかつた人間」で、「しつかりした学問のない一介の詩人にすぎない」こともあり、「かうした高い演壇に立つて、何か物言う事は(中略)私とつては、ふさはしい事ではない」と述べている。

 これは何気ない記述のように思われるかもしれないが、正規の学歴を有さず、上京して詩人となった春月が獲得した特権的なポジションともいえるのではないだろうか。春月は江馬修や島田清次郎のようなベストセラーを生み出さなかった。しかし大正時代を迎えての新潮社の文芸出版の躍進に詩人として寄り添うことによって、こうした初めての講演を頼まれるようになったのである。

 それを支えたのは明治時代と異なる出版流通販売インフラの成長であった。明治末期に実業之日本社が導入した『婦人世界』の委託販売制は、三千店だった書店を一万店まで増加させた。それは新潮社の文芸書出版の隆盛とパラレルで、本連載1044の名古屋の『青騎士』ではないけれど、多くの詩人たちを誕生させたといっていいだろう。文芸市場と文学者たちの出現はともに手を携えていたのである。実際に春月は「自分の救ひと慰めとの為に」で書いている。

 書くことによつて、いろいろの事を学ぶ、それは単に愛ばかりではない、智恵も、真実も、いや、凡てのものを。
 自分のやうな学歴のないものにとつて、創作はいい学校である。
 心霊の教化、人格の鍛錬、生死の救抜。
 これが私の信仰だ。
 若しこの信仰が破れたら?
 そのときは私が文学をすてる時だ。
 文学が自分の慰めでなくなつた時、救ひでないと悟つた時は、
 その時は私が文学者でなくなる時だ。
 それは深淵だ、暗い、恐ろしい……

 ここには『相ひ寄る魂』を書き継ぎながら、不安に追いやられている春月の「魂」の揺曳が垣間見えている。それは関東大震災後に出され、ある程度は売れたようだが、文壇からはほとんど無視されてしまったとされ、さらなるニヒリズムへと追いやられたのかもしれない。


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古本夜話1049 中村武羅夫『明治大正の文学者』と生田春月

 中村武羅夫のことは『近代出版史探索』178などで、また春山行夫との関係については本連載1027などでも言及してきたけれど、楢崎勤の慫慂によって昭和十七、十八年の二年間『新潮』に連載し、戦後に単行本化された中村の一冊がある。それは昭和二十四年に留女書店から刊行された『明治大正の文学者』で、中村の「序」によれば、『近代出版史探索Ⅱ』351の島村利正の友誼と留女書店の加納正吉の厚意に基づく勧めによるとされている。確か留女書店は志賀直哉の作品からとられた命名で、巻末には既刊として林芙美子『放浪記第三部』、尾崎一雄『虫のいろいろ』、近刊として太田静子『あはれわが歌』が挙がっている。

f:id:OdaMitsuo:20200701150938j:plain:h110 近代出版史探索 近代出版史探索Ⅱ f:id:OdaMitsuo:20200703172455j:plain:h110(『虫のいろいろ』)

 その帯にはやはり新潮社に在籍していた河盛好蔵の推薦文が寄せられているので、それを示す。「これは多年『新潮』を主宰していた剛直にして人情に篤い著者が親しく接触した明治大正の文学者たちの風貌と生活を活けるが如くに描いた興味津々たる文壇裏面史であるとともに明治大正文学研究の貴重な文献である」。確かに中村は明治四十年に北海道から上京し、『新潮』の記者となり、「序」で自らいうように、「終戦直前まで凡そ四十余年間の長きに亙つて、一貫して文学雑誌記者としての仕事に従事して来た」。それゆえに『日本近代文学大事典』において、この徳田秋声に捧げられた『明治大正の文学者』は書影も示され、「後世に残る傑れた回想録の一つ」と評されている。

 『明治大正の文学者』は全二十四章からなり、いずれも編集者兼作家としての証言であるだけに、河盛がいうところの「興味津々たる文壇裏面史」を形成している。しかしここではその最後の二章を占める「生田春月のこと」を取り上げてみたい。生田が自死したのは昭和五年で、中村の回想はその二十年後の昭和二十四年に出され、もはや生田は忘れられた詩人だと思われるのだが、「最後に是非もう一人、生田春月のことを書いておきたい。―春月は私のためには最も親しい友人の一人でもあつた」と述べているからだ。

 だがそれは『明治大正の文学者』の中でも、ほとんど「興味津々たる」ものではない。その理由として、生田への「文学者」としての言及ではなく、「余談」に多くが費やされていることによっていよう。中村は生田長江の家で、そこに身を寄せていた春月を紹介された。長江と同郷の山陰の伯耆出身の「田舎者まる出しの青年」だったが、長江によれば、「天才青年」というふれこみだった。春月は長江の世話で新潮社の「文書講義録」の添削の仕事を長く続けていたので、中村とよく顔を合わせていた。しかし中村は詩が好きでなかったこともあり、献本されていたけれど、春月の作品はほとんど読んでいなかった。

 春月のほうは長江の病気もあって、感染させられたという観念に取り憑かれ、中村は春月の後年の自殺がそれに基づいているのではないかとも推測している。このような「余談」がずっと続き、ようやく二人が親しくなった事情が語られるのである。

 私と春月とが、「ツマらない、偶然の機会から」「一瞬にして忽ち肝膽相照らす」ことになつた偶然の機会といふのは、ちやうど晩秋のころだつたと思ふ。夕方のことで、私が新潮社から帰らうとして、二階の編輯室から降りて玄関に出ると、そこでバツタリと、春月に出逢つたのである。ちようど春月も、これから帰るので、玄関まで出たところであつた。そのころ流行つた、羅紗の釣鐘マントを着て、右の片羽根を撥ね上げてゐたのだが、小脇には例の文章講義録の会員から来た添削原稿とハトロン紙に包んだのを、一拘へほども抱へてゐるのが、チラと見えてゐた。
 「いつしよに出ませうか。」
 いつもは顔を合わせても、めつた(傍点)に口を利くことのない、オドオドした眼を反らすやうにして、コソコソ帰ってゆく春月が、その時は何んと思つたのかニコニコと自分の方から、僕を誘ふのであつた。

 それで中村は春月と一緒に出た。すると春月は長江のところを出て、今日部屋を借りたので、中村に寄ってくれという。「つまり春月は、長江の家庭を離れ、嬉しくて堪らなかつたのだらう」。二人はその部屋に一時間余りしゃべり合い、近くのヤマニバーで蟹を食い、酒をしたたか飲んで酔っ払い、「それを機会にして私と春月とは、俄然『肝膽相照らす』仲になつたわけである」。

それから春月は下宿を変えたりしたが、新潮社の近くの中村の家から遠く離れることなく、ずっと牛込に住み、そこで初めて会う花世を花嫁とし、中村、『近代出版史探索Ⅲ』541の水守亀之助、『近代出版史探索』181の加藤武雄が新婚の酒盛に招かれた。その光景を描いて、中村は「生田春月のこと」、すなわち『明治大正の文学者』を閉じているので、やはりそれを引いておくべきだろう。
近代出版史探索Ⅲ

 机のそばの畳の上に、赤土の焜爐を据ゑて、小さな、新しいフライ鍋を掛け、すき焼きした。西洋皿に葱、肉などを盛り、これも畳の上に置いた。一升徳利を持ちだして、我れ我れは淋しい木枯の音を聞きながら肉を煮て、春月の新婚を祝して、大いに酒宴を開いたのであつたが……。(完)

今回は中村の生田春月に終始してしまったので、もう少し春月に関して続けなければならない。 


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古本夜話1048 柳亮『あの巴里この巴里』

 前回、柳亮が ALBUM SURRÉALISTE の訳者の一人で、『追想大下正男』の「『みづゑ』編集の時代」の執筆者だったことにふれてきた。
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 どのような経緯があってなのかは不明だが、柳は『日本近代文学大事典』に立項が見える。それによれば、明治三十六年名古屋生まれの美術評論家で、大正十年日本美術学校卒業後、十三年に渡仏し、ルーヴル美術館付属研究所のジャモー教室で西洋絵画史を学び、昭和六年に帰国し、美術評論に従事し、十三年から十八年にかけて日本大学芸術科美術部長とある。

 ただ私の場合、柳が日本のシュルレアリスムの関係者だとは知らなかったけれど、昭和四十年代後半に彼の著書『黄金分割』(美術出版社)を読んでいた。それから二十年ほど前に同じく柳の『あの巴里この巴里』(沙羅書房、昭和二十四年)を古本屋の均一台から拾っている。四六判上製だが、カバーのない裸本で、用紙も時代を反映してザラ紙に類するもので、巻末には「ノート」が付され、「本書は昭和十一年に初版刊行後、戦争その他のため絶版となつていたものであるが、こんど沙羅書房の中山君の計らいで重版の運びとなり再び世に出ることになつたのは衷心欣びに耐へない」と記されている。さらこれを補足すると、沙羅書房の発行者は初谷一郎なので、「中山君」とは柳の近傍にいた編集者だと考えられる。ただ柳は「装幀、口絵とも、初版の時のような贅澤は許されない」とも述べているので、初版にかなり愛着があったことがしのばれる。

黄金分割 f:id:OdaMitsuo:20200630000714p:plain:h115( 『あの巴里この巴里』)

 また「ここに収めた短篇や随筆は、昭和九年以降の『改造』『日本評論』『セルパン』等へ随時発表したものですべて筆者の滞欧中に見分した一種の生活記録」であり、それらを通じて「巴里の芸術家達の生活や雰囲気」を伝えることができればとも記している。こうした「ノート」の言葉と藤田嗣治による「著者のポルトレエ」の口絵から、よくある滞仏見聞録かと思い、読み出してみたのだが、予測と異なり、戦前のパリを描いた優れた小説のようで、その達者な筆致に堪能させられてしまった。

 例えば、藤田と元愛人のバレエのことから始まる「ふあむ・もんぱるの」に、次のような一節が見える。「パリでは、冬の前ぶれは雨であつた。幾日も幾日も、霧の様な小糠雨が、乳色の空を濡らして降り続いた。そして、その雨の後には灰色の冬が、憂鬱な大陸の様に無限に続くのであつた」。それからこの後に対照的なキャフェのガラス張りのテラスのにぎわいと大きなストーブを囲む人々が描かれ、映画のシーンのような光景を喚起させてくれる。それはこの一編だけでなく、モンパルナスやモンマルトルを背景とする他の作品も同様で、「随筆」というよりも、柳自身がいっているように、「短篇」と呼ぶほうがふさわしいように思われる。

 冒頭の「クウポールの酒場」にしても、その夜の酒場には画家たちだけでなく、アンドレ・ブルトン、亡命詩人のエレンブルグ、写真家のマン・レイが姿を見せ、パリの一九二〇年代のひとつのトポスを浮かび上がらせている。そうした意味では、アベル・ガンスを始めとするパリの映画人たちが登場する「しねあすと・ぱりじやん」が興味深いのだが、ここではやはり美術絡みの「ラモン事件」を取り上げるべきだろう。それに「殊にパリは、一九二六年から三〇年にかけて、インフレの波に乗つて絢爛な黄金時代を、その美術界のためにも華々しい時代である」からだ。

 ラモンはルーブル美術館の会計官で、時の美術大臣フランソワ・ポンセに気に入られ、その秘書官も兼ねていた。彼は教養と品格を備えた四十前の青年紳士だったし、ルノアールを愛し、彼自身のコレクションにしても、相当な数やレベルに達していた。それもあってラモンは画商になりたいと夢想していたが、その背中を押したのはマダム・ラポーズだった。彼女は美術雑誌『ルネッサンス』を発行し、大画廊「ギャルリー・ド・ラ・ルネッサンス」を有し、美術商を営んでいた。一九二九年秋にその画廊で、パリの諸流派の代表作品を一堂に会した巴里派画家展覧会、つまり最初で最後の「エコール・ド・パリ」の総合展覧会が催されたのである。

 それはマダム・ラポーズが発案し、ラモンが手がけた事業に他ならず、その反響は予想以上に大きく、彼は官界を退き、画商として立つことを決心させた。ラモンは「エコール・ド・パリ」の展覧会をアメリカでも開催し、画商としてデビューする計画で、それが発表されると、センセーションを巻き起こした。それにはラモンとマダム・ラポーズとの密接な関係も含まれていた。ラモンがニューヨークに送ったのはマチス、ピカソ、ドランたちの作品で、千点以上、金に見積れば数億フランとの噂も立つ中で、ラモンはアメリカ行き大汽船にあって、「ラモン画廊」の出現を夢見ていた。

 ところが一九三〇年三月のある朝、パリの新聞は「ルーブル美術館の会計官ラモン氏、紐育に於て逮捕さる」とう驚くべきニュースを報道した。それによれば、ラモンはルーブル美術館を休職中で、「エコール・ド・パリ」展覧会開催のためにニューヨーク滞在中だが、同美術館の会計検査の結果、使途不明金二百万フランが判明し、ラモンが横領容疑者ゆえに逮捕されたのである。

 担当検事はラモンを護送し、パリへ帰ってきたが、ラモンは強硬に犯罪を否認し続け、自白を肯んじなかった。そうするうちに奇怪な新事実が発覚した。それはロアール銀行の取りつけ騒ぎに続いて、一流画商の「エミイル」が突然店を閉め、それをきっかけにして大小の画商が次々と倒産し、画商街に突発的恐慌が起きた。それはラモン事件とつながっていたと後に判明する。彼がアメリカで関税をパスしようとして、ルーブル美術館長の肩書を偽証し、そのためにラモンの身元照会電報が出されたこと、また彼の逮捕により、ニューヨークの税関が作品を差し押え、保税倉庫費のために一部を競売したという噂が流れ、それがパリに誇大に伝わり、画商街の一大恐慌を巻き起こす原因となったのである。先の「ふあむ・もんぱるの」では百五十軒以上あったとされるパリの新画商の半数が倒産したという。

 美術批評家にいわせれば、ニューヨーク展覧会の首謀者はマダム・ラポーズだったかもしれないが、「黄金時代の絶頂にあると考へられてゐた画商街に、ハツキリ言へば金がなかつた」ことに尽きるのだ。彼はラモン減刑運動委員長となり、嘆願書を持参していた。それを受け取った「私」はそこに書かれたサインをみて、驚きの叫びをもらすところだった。それは「パブロ・ピカソ、アンリ・マチス、アンドレ・ドラン―」と続いていたのである。

 なお後に、初版は『巴里すうぶにいる』のタイトルで、昭和一一年に昭森社より刊行されていたことを知った。
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古本夜話1047 美術出版社、大下正男、『みづゑ』

 新しい文学や思想ムーブメントが起きると、それに必ず同伴する出版社と編集者がいる。モダニズム文学に関してはそれが厚生閣と春山行夫だったことを見てきたが、シュルレアリスムの場合は春鳥会、後の美術出版社と大下正男に他ならなかった。

 昭和十二年の「海外超現実主義作品展」、及びその図録『ALBUM SURRÉALISTE』と『海外超現実主義作品集』は、春鳥会の美術雑誌『みづゑ』の主催、二冊の図録と作品集はいずれも『みづゑ』の臨時増刊号として刊行されたのである。本連載1045の山中散生が『シュルレアリスム資料と回想』で証言しているように、「海外超現実主義作品展」は東京、京都、大阪、名古屋で開催されたが、「展覧会開催についての基本事項は、『みづゑ』の経営者大下正男と詩論家瀧口修造の協議により定められ、当時名古屋にいた私は、すべて両氏に委任の形をとった」。それでも図録において、瀧口が前回挙げた「現代の美学的凝結」という緒言の執筆と収録作品の翻訳、山中が作家録、年表、文献の執筆を分担している。

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 美術雑誌『みづゑ』は、明治三十八年大下藤次郎によって水彩画の指導育成を目的とした春鳥会が設立され、その普及のために創刊された。だが四十四年に大下が亡くなり、春子夫人が続けて刊行し、大正十五年に息子の正男に継承された。彼は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみよう。
出版人物事典

 [大下正男 おおした・まさお]一九〇〇~一九六六(明治三三~昭和四二)美術出版社社長。東京生れ。早大建築家卒。曽弥中條建築事務所に入社、一九二二年(大正一二)退社。父大下藤次郎没後、母春子が継承していた父の創案した美術雑誌『みづゑ』の編集に従事する。四三年(昭和一八)戦時体制下、美術雑誌統合により日本美術出版株式会社を設立、社長に就任。戦後四六年(昭和二一)『みづゑ』を復刊、四八年、株式会社美術出版社と改称。以後『美術手帖』『美術批評』『MUSEUM』などを創刊、美術関係の出版につとめた。六六年(昭和四一)二月四日、札幌雪まつりの帰途、全日空機の羽田空港沖墜落事故で、出版関係者二四名とともに死亡。『追想・大下正男』がある。

 幸いにして『追想大下正男』(美術出版社、昭和四十二年)は入手している。これは四章仕立てで、本連載1045のボン書店版L’ÉCHANGE SURRÉALISTEにおいて、ジゼール・プラシノス「武装」を翻訳した柳亮が「『みづゑ』編集の時代」を担当している。そこで柳は実質的に大下が『みづゑ』の編集を担った昭和六年から十六年にかけての十年間で、同誌が飛躍的な発展を遂げ、今日の美術出版社のベースを築いたと述べている。それは菊判から四六倍判化、アート紙使用、グラビヤ版の使用、恩地孝四郎のデザインによる装丁と題字の採用などの誌面の刷新、ピカソなどの特集形式などで、フランスの前衛雑誌『カイエ・ダール』や『ミノトール』、及びバウハウスの総合芸術活動の影響を受けたのではないかと推測している。

 その延長線上に「海外超現実主義作品展」と『みづゑ』臨時増刊号としての図録や目録の刊行があったと了解するし、それに同伴する美術誌論家が瀧口や山中、柳たちだったのである。

 瀧口も『追想大下正男』の「思い出」に「野菊一輪」という一文を寄せ、次のように記している。

 大下正男氏の美術の出版に残された業績はひとくちに尽せぬほど大きい。私はただシュルレアリスムを契機として始まった交友の一端を記録しておきたいと思う、(中略)ひとつの起点をいってよいのは、一九三六年六月号の「みづゑ」に、ダリから送ってくれたばかりの「非合理性の征服」を訳し、続けて「超現実造形論」という紹介を兼ねた論文を発表した頃であった。その頃の大下さんは毎月一度は私のアパートを訪ねて、資料を見たり、話し合ったりするうちに執筆が決まってしまうのだった。一九三七年には春鳥会の主催で「海外超現実主義展(ママ)」が催され、別冊みづゑで「ALBUM SURRÉALISTE」が出版された。(中略)大下さんの名は国際シュルレアリスム運動の推進者の一人として、マルセル・ジャンの「シュルレアリスム絵画史」にも記されている。「アルバムシュルレアリスト」は海外でも反響を呼び、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊などには数十冊を送って貰った。最近でも海外の研究者から私の許にあの本についての問い合わせがある。当時、大下さんと美術の国際出版のことを話し合ったので、あれは今日の機運の走りであったとも考えられよう。

 それらはともかく、ここでもう一度、柳の「『みづゑ』編集の時代」に戻ると、『みづゑ』の原稿料は美術雑誌としては破格の一枚一円だったので、画家も含めた有能な寄稿者が揃い、昭和十三年には発行部数が六千部を超え、毎月増刷するようになったこともあり、同年三月号から「買切制」を導入している。そして十六年には七千五百部に及び、それでも完売に至っていたようだ。

 昭和十二年には支那事変が起きていたにもかかわらず日本文学や外国文学出版の隆盛を本連載でも追跡してきたが、それは海外美術の分野においても同様だったことになろう。


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