出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1077 大槻文彦『言海』と林平次郎

 前々回の吉川弘文館の『日本随筆大成』の合板、つまり共同出版のかたちにふれたことで、吉川半七と吉川弘文館がやはり大槻文彦の『言海』を共同出版していたことを思い出した。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 これは背と本扉には『言海』、奥付には『改版言海縮刷』とある菊半截判の一冊で、三段組、千百余ページ、「正価金一円十銭」とされる。初版は明治三十七年三月で、それ以後の重版記載は明治後半から大正前半にかけて大増刷された、ロングセラーだったことを示している。入手しているのは大正六年十月の第三百九十版である。
f:id:OdaMitsuo:20201005112352j:plain:h105(『改版言海縮刷』)

 冒頭に大槻による「本書編纂ノ大意」が述べられているので、その最初の部分を引く。

 此書ハ、日本普通語ノ辞書ナリ、凡ソ普通辞書ノ体例ハ、専ラ、其国普通ノ単語、若シクハ、熟語(二三語合シテ、別ニ一義ヲ成スモノ)ヲ挙ゲテ、地名人名等ノ固有名称、或ハ、高尚ナル学術専門ノ語ノ如キヲバ収メズ、又、語字ノ排列モ、其字母、又ハ形体ノ順序、種類ニ従ヒテ次第シテ、部門類別ノ方ニ拠ラザルヲ法トスベシ、其固有名称、又ハ、専門語等ハ、別ニ自ラ其辞書アルベク、又、部門ニ類別スルハ類書ノ体タルベシ、此書編纂ノ方法、一ニ普通辞書ノ体例ニ拠レリ、

 これは明治十七年十二月に文部省准奏任御用掛として大槻が記したもので、その後に「本書、草稿全部、去年十月、文部省ヨリ下賜セラレタリ、因テ私版トシテ刊行ス」とあり、同二十二年一月の日付がしたためられている。しかし小さな活字でぎっしりと組まれた「ことはのうみのおくがき」を読むと、その「私版トシテ刊行ス」ることがいかに困難であったが伝わってくる。

 当初は明治二十三年九月に全四冊刊行予定だったが、「此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて」、完結までに二年半を費やし、二十四年四月になってしまったのである。それらは印刷所の問題、校正者たちの死と転勤、著者の妻子の病死、予約出版遅延の苦情、資金の乏しさなどだった。

 そうして刊行された『言海』は、大槻が「年を遂ひて刪修潤色の功をつみ、再版、三版、四五版にもいたらむ」と念じたように、順調に版を重ねていったのだろう。そして先に見た如く、明治三十七年には「改版言海縮刷」版も出るに及び、こちらもすばらしい売れ行きだったのである。ただ明治二十四年の『言海』は入手していないので、発行所は不明だが、「おくがき」には旧知の小林新兵衛、牧野善兵衛、三木佐助に「予約発売の方法」で、「発売の事を託せし」とあった。三木佐助は拙稿「明治維新前後の書店」(『書店の近代』所収)で取り上げているように、大槻の『日本小史』というベストセラー教科書を出版し、教科書取次と全国的教科書出版にも携わっていた人物である。小林と牧野もおそらく同業者だったと見なしていい。

書店の近代
 そのような『言海』に対して、「改版言海縮刷」版は奥付表記によって、その生産、流通、販売、及びその経済も明らかであるので、それらのメカニズムをたどってみる。まず著者兼発行者として大槻文彦とあり、検印部分に「大槻氏蔵版」が押されているので、彼は初版の際の著者兼発行者の権利をそのまま保持していたはずだ。その事実は大槻の印税が「著者兼発者」として、通常より高い二十%ほどだったのではないかとの推測も可能であろう。

 大槻に並んで発行者として吉川半七と林平次郎、発売者として大阪市の三木佐助、印刷者として、神田区三河町の武木勝治郎の名前がある。そして発行所として、吉川弘文館と六合館が続いている。前者は既述しておいたように、『日本随筆大成』の発行所、六合館は『大成』と前回の『日本図会全集』の発売所だった。印刷者の武木はひとまずおくとして、吉川は前々回にプロフィルを紹介し、三木は前述している。この場合、三木は発売者のはずなので、製作費は負担しておらず、関西方面での一手販売、つまり『言海』の独占取次だったことを意味していよう。

 残るは林だが、彼は『出版人物事典』に見えている。

 [林平次郎 はやし・へいじろう]一八六一~一九三一(文久元~昭和六)六合館主。一二歳で吉川弘文館、に入り、一八八七年(明治二〇)二七歳で独立、文魁堂と称し出版兼書籍仲買店を開業。九四年(明治二七)六合館を買収、本格的に出版をはじめ、大槻文彦『言海』、浜野知三郎『新訳漢和大辞典』などの大著も刊行。中等教科書の関東地区一手販売を行うなど幅広く事業を進めた。六合館は明治初年設立したもので欧米の原書を翻訳発行した。大日本図書、東京辞書出版、大阪宝文館、国定教科書共同出版所、日本書籍などの役員に就任、また全国書籍商組合会長、東京書籍商組合組合長を務めるなど、業界の大御所とも呼ばれ、通称を林平といった。

 ここでようやく、吉川弘文館、六合館、『言海』が一直線につながってことになる。それらを通じて、『言海』がこのような生産、流通、販売システムに支えられ、「改版言海縮刷」版のすばらしい売れ行きが保たれたといっていいだろう。その際に忘れてはならないのが、「正価金一円五十銭」とあることで、これは本探索1071の東京出版同志会の『類聚近世風俗志』でも見たばかりの自由価格販売だ。ただ同書は印税の発生しない「造り本」ゆえに可能な正価設定であった。

 それに対し、『言海』は高印税が前提となっていることからすれば、どのような流通販売システムになっているのか。それは吉川弘文館と六合館が版元と取次を兼ねる独占販売なので、その他の取次や書店のほうは一般正味より安い価格で大量に仕入れる「入銀」、もしくは一定の部数に対して、「添本」が生じる注文買切によっていたと思われる。そのようなシステムを通じて、書店のほうも学校などの大量採用に際し、価格競争や値引きも可能とされたのである。このような辞書の大量生産、それによってもたらされた「一円五十銭」という安い正価は昭和初期の円本時代を用意していたことになろう。

 そのようにしてもたらされた大槻への大量印税は『近代出版史探索Ⅲ』415でふれた彼の芸者遊びを実現させたことになろう。なお後の『大言海』の他に言及したい辞書も多く残っているのだが、それらはあらためて取り上げることにしよう。

近代出版史探索Ⅲ f:id:OdaMitsuo:20201005202100j:plain:h110(『大言海』)


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古本夜話1076 桜井庄吉、日本随筆大成刊行会、『日本図会全集』

 前回の日本随筆大成刊行会は昭和三年から四年にかけて、『日本図会全集』全十二巻を出版している。これは江戸時代に出された代表的な名所図会を収録したものであり、『図解現代百科辞典』(三省堂、昭和八年)を引いてみると、「名所図会」は以下のように述べられていた。「地方の名所の図を描き、各ゝ其地に関する由来・伝説・詩歌等を記し集めた冊子。徳川時代のやうに旅行不便であった時代に文学と絵との助を藉りて世人に名勝旧跡を知らしめるために盛んに製作された。東海道名所図会・木曽街道名所図会・江戸名所図会・東海道五十三次等は是」と。
f:id:OdaMitsuo:20201004140343j:plain(『図解現代百科辞典』)

 なおこれは余談だが、日本版 I See All といっていいこの図解辞典に関しては、かつて両者の最初のページを収録した「三省堂と『図解現代百科事典』」(『古本探究』所収)を書いているので、よろしければ参照してほしい。

古本探究

 それはともかく、『日本図会全集』は次のような構成である。「名所図会」の著者、校訂者、絵師なども含めて挙げてみる。

 1『江戸名勝図絵』1(斎藤幸雄、斎藤幸孝・斎藤幸成校訂、長谷川雪旦・長谷川雪堤画)
 2『江戸名勝図絵』2(同)
 3『江戸名勝図絵』3(同)
 4『江戸名勝図絵』4(同)
 5『東海道名所図会』上(秋里舜福、竹原春潮斎ら画)
 6『東海道名所図会』下(同)
  『東都歳時記』  (斎藤幸成、長谷川雪旦・長谷川雪堤画)
 7『都名所図会』  (秋里舜福、竹原信繁画)
 8『拾遺都名所図絵』(同)
 9『都林泉名勝図絵』(秋里舜福、佐久間草偃ら画)
 10『伊勢参宮名所図絵』(蔀徳基)
 11『藝州厳島図会』上(岡田清、頼惟柔・加藤景纘、田中芳樹校訂、山野守嗣画)
 12『藝州厳島図会』下(同)
  『厳島宝物図会』 (同)
f:id:OdaMitsuo:20201004222644j:plain:h110f:id:OdaMitsuo:20201004223028j:plain:h110(『江戸名所図会』)

 これらは表記、巻数も含めて、やはり『世界名著大事典』第六巻によるのだが、書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』を確認すると、こちらは全十四巻、版元は吉川弘文館、定価一円で、『日本随筆大成』と同様に円本として刊行されたとわかる。さらに別巻が出されたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)世界名著大事典  全集叢書総覧新訂版

 手元にあるのはセット函入の11と12で、その函には本探索1071の東京出版同志会版の『類聚近世風俗志』に描かれていた三人の男女の絵が使われている。それは『日本図会全集』自体が東京出版同志会関係者の手によって出されたのではないかという推測を生じさせる。あらためて奥付を見てみると、編輯兼発行者は本郷区森川町の桜井庄吉、発行所も同住所の日本随筆大成刊行会で、発売所のほうは前回挙げた五店と変わっていない。異なっているのは写真銅版製造者として、府下下目黒の写真工芸研究所、活版製版者として、神田区鎌倉町の川瀬松太郎が新たに挙がっていることだろう。

 確かに11、12の『藝州厳島図会』『厳島宝物図会』だけを見ても、前者ですら「挿画之部」が「本文之部」よりも多く、後者に至ってはまさに「宝物図会目録」なので、ほとんどが挿画で占められている。それゆえに印刷にあたって、写真銅版製造者や活版製版者が招聘されているのだろう。そのことを象徴するように、11と12の表紙にはカラーの厳島神社の大鳥居が描かれ、『日本随筆大成』の地味な装丁と一線を画している。前回、桜井が印刷関係者ではないかと指摘しておいたが、的外れではないようにも思われる。

 そのようにして編まれた12の『厳島宝物図会』で、とりわけ興味深いのは「抜頭面」を始めとする面類で、それらは正倉院の「酔胡王面」(伎楽の面)などを彷彿とさせる。それには「抜頭舞伝来」という注釈が付され、「凡六七百年バカリ以前ヨリコノ舞アリシコト知ラレ」、「文明三年二天王寺楽人太秦廣吉トイフ者ヨリ、彦三部安種トイフ者ヘ抜頭相伝ノ状アリ」と見える。そして安種が「当島ノ者」で、「サレバ当島ニオイテ抜頭舞ノ伝来ハ、イトフルキコトニテ、ヤンゴトナキ神事ナリカシ」とある。これに同じく宝物の「弘法大師仏具」や「同袈裟」を重ね合わせれば、『近代出版史探索Ⅳ』653などの景教と空海伝説が浮かび上がってくる。私も十年ほど前に厳島を訪れているが、これらの宝物にはお目にかかれなかったことを付記しておこう。
近代出版史探索Ⅳ

 それも残念だが、『日本図会全集』で全四巻で及ぶ『江戸名勝図会絵』を見られないことも同様であるけれど、こちらは昭和四十一年の角川文庫版の『江戸名所図会』(鈴木棠三、朝倉治彦校注)全六巻を所持している。それによって先述の『日本図会全集』に付された人名や書名の由来が判明する。名所図会は7の秋里の『都名所図会』が安永年間に上梓されると、一種のブームとなり、出版の一分野をなした。それを範として、神田の名主の斎藤幸雄・幸孝、幸成が三代にわたり、編集、増補、改稿を加え、天保七年に出版された。まさに三十余年を要した家業としての絵入り地誌、しかも長谷川雪旦の豊富な挿絵は江戸郊外も含む武蔵名所図会にふさわしいもので、広範な江戸時代の風景を集成した出版だったといえよう。『日本図会全集』を入手したら、それらの風景を比べてみたい。ひょっとすると国木田独歩の『武蔵野』の発見もそれに端を発していたかもしれないからだ。

f:id:OdaMitsuo:20201004140059j:plain:h105 (角川文庫版)


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古本夜話1075 早川純三郎、『日本随筆大成』、吉川弘文館

『嬉遊笑覧』だが、これは昭和円本時代にも刊行されている。それは『日本随筆大成』の別巻としてで、その別巻は各二冊からなる大田南畝『一話一言』、『嬉遊笑覧』、寺島良安編『和漢三才図会』である。『一話一言』上下は所持しているけれど、残念ながら『嬉遊笑覧』と『和漢三才図会』は入手していない。だがやはり前々回の「有朋堂文庫」と同様に、『日本随筆大成』には山東京伝『骨董集』、滝沢馬琴『燕石雑志』、柳亭種彦『用捨箱』も収録されているので、この『大成』にもふれておきたい。
f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 これは昭和二年から六年にかけて、近世随筆を最も多く集め、三期に分けて刊行したもので、全四十三巻に及び、校正に難はあるが、『日本随筆大成』にふさわしい三百編近くの大部の集成といえよう。実は揃っていないけれど、第一期は十冊、第二期も九冊、先の別巻二冊を購入している。確か不揃いだったことから、古書目録にかなり安い古書価で掲載されていたので、買い求めたのだと思う。それも二十年以上前のことで、山中共古と集古会の資料としてだった。

この『日本随筆大成』の各巻明細は、これも『世界名著大事典』第六巻に詳しいし、近世随筆の世界がそこに紛れなく凝縮され、とりわけ、第二期の第一巻所収の『兎園小説』は大槻如電が序文を寄せ、閲している「百家説林本」によっているようだ。如電の緒言や馬琴を始めとする十二人の語る「奇事異聞」も興味は尽きないけれど、私はその方面の素養に欠けているので、これ以上の言及を差し控える。それよりもここではこの円本特有の近世随筆出版プロジェクトの編集、生産、流通、販売の実態を考察してみたい。

世界名著大事典

 まずは全巻を通じて、巻頭に宮内省御用掛関根正直、東京帝国大学資料編纂官中村孝也、宮内省図書寮編集官田辺勝也の三人が監修者として挙げられている。それから第一期第一巻の林羅山『梅村載筆』などの奥付を見ると、編纂者は日本随筆大成編輯部とその代表者の早川純三郎、その横には発行兼印刷者として、吉川半七の名前がある。そして発行所は東京市京橋区鈴木町の吉川弘文館、発売所として東京市日本橋区の六合館、名古屋市の川瀬書店、大阪市の柳原書店、東京市京橋区の日用書店、東京市牛込区早稲田鶴巻町の国際美術社が並んでいる。

 しかし先述の第二期第一巻となると、編纂者と発売所はそのままが、発行兼印刷者は本郷区森川町の桜井庄吉、発行所は桜井と住所を同じくする日本随筆大成刊行会と入れ代わっている。これは昭和三年四月三十日の刊行であるけれど、別巻の『一話一言』上下巻はそれに先行する同年四月十日で、第一期の奥付表記と変わっていない。この事実は『一話一言』が第一期の別巻と見なせよう。つまり『日本随筆大成』の第一期は発行兼印刷者と発行所が吉川半七、及び吉川弘文館であった。ところが第二期からはそれらが桜井庄吉と日本随筆大成刊行会に変わったことになる。おそらく吉川と吉川弘文館が資金繰りの関係から行き詰まり、櫻井に肩代わりを頼んだことで、第三期は見ていないけれど、第二期以後の刊行を委託したのであろう。これも円本ながら、本探索1071で示した「合板」と考えられる。

 日本随筆大成編輯部の早川純三郎は『近代出版史探索Ⅲ』405の国書刊行会の編集者だったはずだが、新たな印刷兼発行所の桜井庄吉のプロフィルは不明である。川半七のほうは『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。
近代出版史探索Ⅲ 出版人物事典

 [吉川半七 よしかわ・はんしち]一八三七~一九〇二(天保一〇~明治三五)吉川弘文館創業者。一八五四年(安政四)、江戸書林若林清兵衛から独立、七〇年(明治三)家業近江屋(貸本)を拡充して、京橋南伝馬町に吉川書房を開く。新古書籍の販売を行うかたわら、翻訳書なども加え、和漢の書籍を備えた。「来読貸観ところ」を設けて、一時間半銭の規程で、一般の人々に見せたという。七七年(明治一〇)ころから出版を兼業、金養堂・文玉圃などの称号を用いたが、一九〇〇年(明治三三)からはもっぱら弘文館と称した。『故実叢書』『大日本史』『本居宣長全集』『加茂真淵全集』など国文・国史関係の大部の出版に専念した。一九〇四年(明治三七)合資会社に改組、吉川弘文館と改称。

 これらの出版の系譜を背景として、『日本随筆大成』の企画が同刊行会の早川によって持ちこまれ、吉川弘文館が制作と発行所を引き受けることになったのだろう。監修の三人はいずれも『古事類苑』関係者であり、それで監修を引き受けたと考えられる。それは本探索1069の『守貞漫稿』の編集者室松岩雄が『古事類苑』の編集に携わったことを想起させる。 また発行所の名古屋の川瀬書店と大坂の柳原書店は有力な地方取次であるから、東京の六合館などの三店も取次を兼ねていた書店だと思われる。この事実は吉川弘文館が製作や流通販売も含め、全面的にバックアップしたが、第二期はその立場を第三者に委託するしかなかったことを伝えていよう。

 それでも戦後になって、吉川弘文館が『日本随筆大成』(全八十一巻、昭和四十八年)を刊行している事実からすれば、その経緯と事情は不明だが、すべての著作権を引き継いだことを物語っていよう。
f:id:OdaMitsuo:20200912115743j:plain:h115(『嬉遊笑覧』)

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古本夜話1074 「有朋堂文庫」、魯山人、岡本かの子「食魔」

 前回の『骨董集・燕石雑志・用捨箱』を取り上げるに当たって、「有朋堂文庫」は、同じく昭和円本時代に刊行された興文社の類似企画『日本名著全集』と比べ、入手した巻が少ないと思っていた。だが実際は逆で、古本屋で一冊ずつ拾っているうちに、いつの間にか増えてしまったことになる。「有朋堂文庫」が十一冊、に対し、『日本名著全集』は八冊で、それは前者が全百二十一巻、後者が三十一巻であることの反映と見なせよう。なお『日本名著全集』に関しては『近代出版史探索Ⅲ』423で既述している。

f:id:OdaMitsuo:20200915115255j:plain f:id:OdaMitsuo:20200914115859j:plain:h103(「有朋堂文庫」)f:id:OdaMitsuo:20200916193111j:plain:h108 f:id:OdaMitsuo:20200916192824j:plain:h108(『日本名著全集』)近代出版史探索Ⅲ

 この際だから、『骨董集・燕石雑志・用捨箱』以外の「有朋堂文庫」のナンバーとタイトルも示しておこう。それらは第1輯の39、40、41『近松浄瑠璃』上中下、42『海音半二・山村宗輔傑作集』、54『東海道中膝栗毛』、第2輯の1『古事記・祝詞・風土記』、4、5『宇津保物語』上下、27『名家俳句集』、28『風俗文選・和漢文藻・鶉衣』である。

 これらの「有朋堂文庫」は新書版よりも少し小さい三六判といっていいかもしれないが、藍色の上製で、表紙と背に金の箔押しのタイトルと花模様をあしらった絵が描かれ、古典叢書としての「有朋堂文庫」のイメージを印象づけている。函入は見たことがないけれど。それを最初に見たのは高校の図書室だったはずで、確か一本の棚が埋められていたことから考えると、全冊が揃っていたのかもしれない。だがそれは半世紀以上前のことだから、すでに廃棄処分されてしまったであろう。そのようにして、社会の風景と同じく、小中高の図書室の蔵書も変わってしまったはずだ。

 それもあって、あらためてこの十一冊を立て並べてみると、出版された時代を表象する風格が感じられ、その背に書かれた金色のタイトルが別の意味合いもこめて迫ってくるようにも思われた。それはまったく偶然だが、白崎秀雄の『北大路魯山人』(上下、中公文庫)を読み、次のような記述に出会ったからだ。
北大路魯山人

 「有朋堂文庫の題簽の字は、あれは俺が書いたんだ」
と、後年魯山人は側近に語ったことがある。有朋堂文庫は、今日の新書判に魁けた小型の日本古典全集ともいうべきもの。紺のクロースの装幀で、その背の金文字や大扉の題字は、すべて篆気の濃い隷書で書かれている。当時可亭の嘱された版下書きを、病臥中の彼に代わって房次郎の潤筆した一例であろう。
 なお、有朋堂文庫は終始題簽の筆者名を記さない。

 これには若干の補足と検証が必要であろう。巻末の「北大路魯山人晩年譜」を照合しながら、白崎の魯山人伝を読むと、書家志望の房次郎=後の魯山人は明治三十六年に京都から上京し、翌年に日本美術展覧会において、隷書の千字文で一等賞を受ける。三十八年には著名な版下書家の岡本可亭の内弟子となり、それから二年間を京橋区南伝馬町の岡本家で過ごした。顔真卿を宗とする書家の可亭は、『近代出版史探索Ⅱ』365の岡本一平の父で、妻と三女があった。一平は三十九年に東京美術学校に入学しており、彼も魯山人と生活をともにしていたし、それは娘たちも同様で、末子の篁は、後に画家の池部釣と結婚し、俳優池部良の母となるのである。
近代出版史探索Ⅱ

 可亭の家では家人が一週間交代で炊事に当たることになっていたが、「すでに六歳の頃から煮炊きに使われ、料理に異常な熱情を懐いていた房次郎には、かえって幸であった。彼の調える惣菜料理を可亭は少からずよろこんだ」と白崎は記している。一平が大貫かの子と結婚するのは明治四十三年で、かの子も房次郎と接していたはずであり、彼をモデルとする「食魔」を書いている。この中編は初出発表紙未詳とされ、創作集『鮨』(改造社、昭和十六年)、後に冬樹社の『岡本かの子全集』第五巻に収録される。

 f:id:OdaMitsuo:20200916114343j:plain:h110(『鮨』)f:id:OdaMitsuo:20200916114801j:plain:h110

 この作品は「素人の家にしては道具万端整つてゐる料理部屋」での「若い料理教師」の鼈四郎とその家の姉妹のお千代とお絹が菊萵苣(アンディーヴ)の調理をしている場面から始まっている。姉妹はそれに「ほんとうにおいしい」という嘆声をもらし、この青年は「身体全体が舌の代表となつてゐて、料理の所作の順序、運び、拍子、そんなものゝカンから味の調不調の結果がひとりでに見分けられるらしい。食欲だけ取立てられて人類の文化に寄与すべく運命付けられた畸形な天才」だと思うのだ。

 「食魔」は岡本一平の回想によれば、外遊直後に書いたようなので、おそらく昭和五年の執筆となろう。そのシノプスから考えて、岡本の三姉妹からの聞き書きも入っているにしても、やはりかの子が実際に房次郎と一緒に料理体験を持ったことがベースになっていると推測される。房次郎は料理だけでなく、版下書きの技術らも練達し、「巧みに可亭の書体を模し、可亭と彼自身以外の者には、ほとんどその差異を見分け難くした」という。

 しかし留意すべきは「有朋堂文庫」のことで、白崎は円本時代のものを想定していると思われるが、それは明治四十五年に着手され、大正四年に完結した第一期「有朋堂文庫」である。先の「年譜」によれば、房次郎は明治四十年に可亭の家を辞し、独立し、四十二年には実業之日本社の増田義一に認められ、その看板や『実業之日本』『日本少年』『少女の友』の題字を書いたとされる。それらに関して『実業之日本社七十年史』には何も記されていないけれど、口絵写真に見られる「実業之日本」の看板と雑誌の題字はまさに魯山人の書を彷彿とさせる。

 そうした出版社との関係を考えると、「有朋堂文庫」の刊行時において、可亭は病臥中で晩年にあたり、大正八年に鬼籍に入っていることから、魯山人がその版下書きを代行したと想像するに難くない。ただ残念なのは第一期「有朋堂文庫」を見ていないので、円本時代とまったく同じ題字なのか確認がとれていない。

 またこれも白崎の『北大路魯山人』に教えられたのだが、魯山人の星岡茶寮の共同経営者の中村竹四郎は、『近代出版史探索Ⅱ』363などの有楽社の創業者中村彌二郎の弟で、そのカメラマンを務めていたという。その他にも魯山人には出版をめぐるエピソードがあるけれど、それは別の機会に譲ろう。


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古本夜話1073 「有朋堂文庫」と『骨董集・燕石雑志・用捨箱』』

 前回の 喜多村信節『嬉遊笑覧』が山東京伝『骨董集』や柳亭種彦『用捨箱』と通底していることを既述しておいたが、この両書が同じ一冊に収録され、昭和円本時代に刊行されている。それは「有朋堂文庫」シリーズで、『骨董集・燕石雑志・用捨箱』としての出版である。『燕石雑志』は曲亭馬琴による同様の書といえよう。

f:id:OdaMitsuo:20200911150305j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20200915114310j:plain:h110(『用捨箱』)

 この「有朋堂文庫」は『世界名著大事典』第六巻に改題と明細が見出され、以下のように記されている。「国文古典文学作品の集成で、2期に分けて刊行された。第1輯210種、60冊、第2輯261種、60冊。他に総索引・総解題書1冊を付す。本文はおおむね流布本によるが、要領のよい頭注と巻末索引を附すものが多い。一般向きの刊行書としても便利である」と。そして続けて全巻明細も掲載され、先の一巻が第2輯の24に当たるとわかる。また刊行は大正元年から四年にかけてで、私の所持する一冊は昭和六年に出て、奥付に「非売品」と表記された「有朋堂文庫」はその再刊としての円本バージョンに他ならない。

f:id:OdaMitsuo:20200915115255j:plain f:id:OdaMitsuo:20200914115859j:plain:h103(「有朋堂文庫」)世界名著大事典

 その有朋堂の創業者は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

三浦 理 みうら・おさむ】一八七二~一九二八(明治五~昭和三)有朋堂創業者。静岡県生れ。一八八三年(明治一六)上京、三省堂書店の少年社員となる。一九〇一年(明治三四)三省堂を退社、神田錦有朋堂を創業。南日恒太郎編『袖珍英和辞典』を始め、“袖珍”と名づけたポケット判の各種辞典を出版、人気を博したが、有朋堂の名を高めたのは『有朋堂文庫』である。平安から江戸までの古典文学を網羅した全一二一巻の古典大全集で、一二年(明治四五)に着手、一三年秋予約募集を開始、満四年半で完結。この種の出版物の貴重な原点とされている。また、なかでも塚本哲三『国文解釈法』『漢文解釈法』、南日恒太郎『英文解釈法』などは旧制高校生、専門学校の受験生必携の書ともいわれた。

 ここに再確認するかたちで、「有朋堂文庫」が大正初期の予約出版物で、それが昭和円本時代にあらためて予約出版されたことを示唆している。それだけでなく、奥付にある編輯者の塚本哲三は『国文解釈法』などの学参の著者だとわかるし、印刷兼発行者の三浦捷一は、
理の死が昭和三年だから、二代目として円本の「有朋堂文庫」を継承刊行に至っていると了承される。

 また塚本は神谷敏夫の『最新日本著作者辞典』に立項されているので、それも示してみよう。

 塚本哲三 つかもと・てつぞう
 国文学者で、明治十四年十二月静岡県小笠郡の岩澤氏に生れ、塚本氏を継いだ。浜松中学校を卒業し、後中等教員国語漢文科検定試験に合格した。爾来、熊谷・岩国・立教の各中学教諭となり、また文教大学の教師をしたこともある。其の後有朋堂文庫編輯長として同文庫刊行に尽瘁してゐたが、大正四年日土講習会講師及び考へ方研究所主任となり、兼て有朋堂編輯顧問の職にある。(後略)

 その塚本は『骨董集・燕石雑志・用捨箱』の「緒言」において、「三種共に三家の小説家としての用意、学者としての造詣を窺ふべき恰好の書にして、其考証の読者に利するもの尠少にあらざるを見る。三書共に流布の木版本を底本とし、語格、仮名遣、充字等、概ね原文のまゝにして敢て改竄を加へず、挿画の如きも悉く写真製版として覆刻する事とせり」と述べている。

 これを「三者共に」確認することは紙幅が許さないので、最初の山東京伝『骨董集』だけを見てみる。山東京伝に関しては『近代出版史探索Ⅲ』416で、彼が売薬「読書丸」で糊口を凌ぎ、当時の戯作者が小説で生計をたてていなかったことにふれている。そうであっても、京伝も「小説家としての用意」のために、このような時代風俗についての多くの古書からの抜き書き、引用に留意し、歴史の追跡や注視に怠ることがなかったことを伝えている。
近代出版史探索Ⅲ

 例えば「挑灯(ちやうちん)」はその「はじめ詳ならず」と始まり、『古今夷曲集』にある定家の「客人の帰るさ送る挑燈はまうしつけねどいでし月影」が挙げられているのだが、「此歌古書に所見なければ、證ともしがたし」と続いていく。それから蛍を入れて灯すという話も挿入うされ、さらに多くの古書からの挑灯の例が引かれ、それらはほぼ三ページに及ぶ挿絵でもて示されていく。そして次は「行燈(あんどん)」となる。

 それらを読んでいくと思いだされるのは『近代出版史探索Ⅳ』769の柳田国男『火の昔』とジヴェルブシュ『闇をひらく光』である。この両書に「挑燈」と「行燈」をリンクさせると、近代以前の闇の深さ、その暗さに対する畏怖の想いが蘇ってくる。そして闇の深さこそがアニミズムに始まる宗教を生み出したのではないかという思いも。高度成長期以前の地方、とりわけ農村は暗かった。それは現在からは想像できないものと化してしまったが、高度成長期を背景とする松本清張に始まる社会派推理小説世界にしても、その根底に時代特有の夜の闇の未明が横たわっていたように思われてならない。

近代出版史探索Ⅳ f:id:OdaMitsuo:20180308144325j:plain:h110 闇をひらく光

 なお塚本哲三の『国文解釈法』は近年『現代文解釈法』として、論創社から復刊されている。
現代文解釈法


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