出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1118 時事新報社『福澤全集』と国民図書

 国民図書株式会社の全集類については、拙稿「中塚栄次郎と国民図書株式会社」の他に、『近代出版史探索Ⅲ』551で『現代戯曲全集』、本探索1019で『泡鳴全集』、前々回と前回で『校註日本文学大系』『校註国歌大系』を取り上げてきた。そこでもうひとつの『福澤全集』にもふれておきたい。

f:id:OdaMitsuo:20200303211530j:plain:h110(『現代戯曲全集』)f:id:OdaMitsuo:20200410112527j:plain:h110(『泡鳴全集』) 近代出版史探索III

 この『福澤全集』は大正十四年から「非売品」として全十巻が刊行されている。各巻は五円となっているけれど、やはり昭和円本時代を迎える中で企画された国民図書ならではの予約出版、外交販売商品と見なしていい。それは小川菊松が『出版興亡五十年』において、『福澤全集』は四十万部の内容見本を作り、有力な名簿をもとに発送したと証言していることでも明らかだ。

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 また私の入手した『福澤全集』は第一、三、八巻の三冊だが、ある高等女学校図書館の廃棄本で、それがラベルと蔵書印からわかる。おそらくこの図書館も内容見本を送られ、外交販売ルートで購入し、蔵書としたのではないだろうか。この『福澤全集』はは菊判上製・函入、天金七百ページ前後、いかにも学校図書館の蔵書にふさわしい装幀造本である。福澤は明治三十四年に没しているが、『学問のすゝめ』『文明論之概略』などにおける近代思想家、教育者、慶応義塾創設者として、その名声はまだ衰えておらず、国民図書が全集内容見本四十万部を発行できるだけの著名人であり続けていたのだろう。

 それに忘れてはならないのは、福澤が近代出版者でもあったことで、『出版人物事典』はその立項を落としていない。それを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [福沢諭吉 ふくざわ・ゆきち]一八三四~一九〇一(天保五~明治三四)慶応義塾出版局創始者。大分県生れ。長崎で蘭学を学び、一八五五年(安政二)大阪に出て緒方洪庵の適塾で学んだ。五八年江戸に出て塾を開き、英語を独習。六〇年(万延一)幕府の使節に従って渡米。明治維新後民間人となり、六八年(慶応四)塾を芝に移し、慶応義塾と改称。また出版局を開設して出版販売に着手、自著の『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などつぎつぎに出版、いわばユニバーシティ・プレスの最初であった。福沢本は、明治のベストセラーの筆頭にあげられる。自著の偽版の続出を憤り、copyright を版権と称して著作兼保護の必要を説き、先駆的な役割を果した。

 私も本探索で「版権」問題に多く言及しているが、この立項により、そのタームが福澤による訳語だと再認識させられる。そこで『福澤全集』の奥付を見てみると、編纂者は時事新報社、発行者と発行所は中塚と国民図書だが、検印部分には福澤の印が押され、この全集版権=著作権が福澤一族にあるとわかる。

 このことで福澤著作権問題は実証できるが、編纂者が時事新報社であることはトレースしておかなければならない。それは明治三十一年の存命中に時事新報社から最初の『福澤全集』全五巻が刊行されたことに端を発している。福澤は明治十四年に『時事新報』を創刊し、ジャーナリストとしても活動し、晩年に『福翁百話』や『福翁自伝』などの著作を時事新報社から刊行している。それに合わせ全集も企画され、三十年九月付で『福澤全集緒言』が書かれ、それは第一巻に収録され、国民図書版でも同様なので、幸いにして読むことができる。

f:id:OdaMitsuo:20210116160443j:plain:h115(全5巻)f:id:OdaMitsuo:20210116160018j:plain:h115

 そこで福澤は「四十年来余が著述又は翻訳したる諸書類を集めて新たに版行せんとするに当り聊か其趣意を一言して巻首に記し置かんとす」と始めていえる。「其趣意」を要約すれば、自分は著訳書を多く出版し、自らの所見を発表してきたけれど、その後は著訳者として成り行きまかせで、歳月の推移とともに何冊出したのか、内容はどうなのかも忘却するようにもなっている。だからここに全集としてまとめ、散逸を防ぎ、子孫や知己朋友のためにも、単行本未収録原稿も集め、出版を思い立った次第だと。

 それから福澤は自らの著者の解題を述べていくのだが、鉄砲洲某稿の名で書かれた「唐人往来」は江戸末期の世間の唐人=外国人観を伝え、それが現在へと通じるひとつの変わらないナショナリズムのかたちであることを教えてくれる。また『華英通語』は福澤が著した英語辞典というべきもので、このようにして英語が学ばれていったことがまざまざと伝わってくる。次にくるのは『西洋事情』で、同書から『学問のすゝめ』の間には、「雷銃操法」「西洋旅案」「窮理図解」「洋兵明鑑」「議亊院談」「世界国尽」といった小著がはさまれている。

 福沢の言からすれば、これらの彼の所為の著訳書も明治三十年代に入ると、「何時しか蔵書四散して」の状態、つまり散逸していたとも考えられる。またその後の未収録原稿も多く見つかったはずで、それが時事新報社版全五巻を増補した国民図書版全十巻へと結びついていったのであろう。第一巻の編纂者「端言」は大正十四年十二月の日付で、「今回時事新報社一万五千号の記念として先生の遺文を出版するに当り、是等未載のもの、幷に先生の筆に成れる時事新報社説の鈔録とを既刊の全集に加へて都合十巻となし」とはその事実を物語っている。

 そしてこの国民図書版の『福澤全集』を受け継ぐかたちで、昭和八年に岩波書店から『福澤全集(続)』全七巻が出され、戦後の昭和三十九年には『福沢諭吉全集』全二十二巻が刊行されることになる。そうした流れをたどると、編纂者が誰なのか不明だし、国民図書版が四十万部の内容見本に見合うだけの売れ行きを示したかは詳らかにしないが、福澤の出版史と研究史に少なからぬ貢献をなしたことは確実だと思われる。

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古本夜話1117 国民図書『校註国歌大系』と佐伯常麿

 前回の『校註日本文学大系』に少し遅れて昭和三年からほぼ併走するかたちで、やはり国民図書による『校註国歌大系』が刊行されている。

f:id:OdaMitsuo:20210113102520j:plain(『校註日本文学大系』)

 これは『世界名著大事典』の「全集・双書目録」において、誠文堂版が挙げられ、次のような解題が見える。「古代から明治初期までの和歌の集成。校訂はかなり安易であるが、収録和歌の多いことは随一である。本巻に索引と作者部類とを付ける。一般向き刊行書」だと。実は元版に当たる国民図書『校註国歌大系』のほう拾っていて、以前に「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(『古本探究』所収)で、函の背表紙だけを掲載している。だがここでは所持する端本リストを示す。

古本探究 

13『中古諸家集全』 玉井幸助
14『中古諸家集全』 小林好日
15『近代諸家集一』 山岸徳平
16『近代諸家集二』 野村宗朔
17『近代諸家集三』 山﨑麓
18『近代諸家集四』 山岸徳平
20『明治初期諸家集全』 佐伯常麿

 これらはB6判函入天金上製、いずれも九百から千ページに及ぶ。このすべての内容は挙げられないので、20の『明治初期諸家集』を例とすれば、橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』、太田垣蓮月『海人の苅藻』、八田知紀『しのぶぐさ』、井上文雄『調鶴集』、福田行誠『於知葉集』、僧弁玉『瑲々室集』、野村望東『向陵集』、大国隆正『真爾園翁歌集』を収録している。リストの下部にある名前は編輯担当者で、佐伯が『校註日本文学大系』でも同様だったことは、前回の上田万年の言に明らかであるし、佐伯は引き続き、『校註国歌大系』でも「組織編纂」の立場にあったはずだ。それぞれに「解題」が付され、底本も明記され、上版が註、下段が本文という『校註日本文学大系』と同じ編輯である。

 残念ながら第一巻の『古歌謡集』は入手していないので、そこに寄せられているはずの上田などの「序」を見ていないけれど、おそらく『校註日本文学大系』の「序」で述べられていたその第三期「和歌」に相当するのが『校註国歌大系』だと思われる。それはタイトルに「校註」と「大系」が含まれていることからも類推できよう。

 それゆえに『校註国歌大系』も、上田を始めとする国文学アカデミズムがバックプした出版プロジェクトだったと考えられるし、『世界名著大事典』のいうところの「校訂はかなり安易で」「一般向き刊行」なる評価は気の毒である。どうしてそのような判断が下されたかは、ひとえに誠文堂版に基づいているからであろう。戦前において、誠文堂は小川菊松の特異なキャラクター、及び出版業界における実用書や譲受出版=焼き直し出版のイメージが強かったので、そうした偏見が出版物にも必然的に反映されてしまったからだと思われる。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年)  全集叢書総覧 (1983年) 

 しかしあらためて『全集叢書総覧新訂版』を見てみると、『校註国歌大系』は昭和三年の国民図書に続き、誠文堂が昭和八年に普及版、十二年に新版を出し、戦後に至っては講談社が昭和五十一年に復刻版を刊行している。この事実からすれば、国民図書版の経済、販売事情は不明だが、戦前戦後を通じて、貴重な研究資料、第一次文献的出版物として評価されてきたことを告げていよう。

f:id:OdaMitsuo:20210114112547j:plain(誠文堂普及版)f:id:OdaMitsuo:20210114113121j:plain(講談社版)

 それだけでなく、先の17の『近代緒家集』には他の巻に見られない「月報」が残っていて、意外というしかなかった。つまり「外交販売」全集であっても「月報」は付き物だったのだ。そしてそこには「常道に還りつゝある出版界―円本忌避の傾向顕著」という一文が掲載されているので、昭和四年の円本出版状況に関する証言として、それを聞いてみよう。

 所謂円本の跋扈は、遂に愛書の趣味を滅殺して、読書界をオアシスなき沙漠と化して了ひました。何処へ行つても誰に聞ひても、「どうも折角の座敷へ円本を斯う並べては、まるで安普請のバラツクへ入つたやうだね。」といふ愚癡ならざるはない。それだけ円本は蔓りきつて、今や却つて読書家に呪はれつゝあるのでありますが、併し、物は行き詰ると又転換するものであります。近来の出版に、わざゝゝ「円本にあらず」と断つてあるが如きは、此の間の消息を窺ふに足るものでありませう。(中略)
 円本刊行の如き大掛りな、お祭りさわぎの、唯宣伝一つで行かうといふ大芝居をうつには、あらゆる力が商戦に注がれるのみで、昔の出版屋のやうに、丹念に原稿に力を入れて、たとひ時がかからうと、金がいくらかゝらうと、最善を尽して以て、恥づるところなき書を作るいつたやうに、落ちついて出版をやつて行くといふ機会は、全然与へられないのでありますから、あの円本戦で生れて行くものは、二度のおつとめのもので無い限り、推敲の十分ならざる、所謂一夜づくりのものに止まるのは、己を得ない事情でありまして、これが円本の遂に読書家に呪はるゝに至つた当然の事情であります。

 ここで「円本にあらず」とされているのは、岩波書店の『露伴全集』『赤彦全集』で、いずれも一円ならぬ四円五〇銭と四円であり、ここに言外に『校註国歌大系』三円八〇銭も、それに加わるものだとされているのだろう。その販売事情は詳らかにしないけれど、「二度のおつとめ」どころか、「四度のおつとめ」まで果したであるから、その意味で、『校註国歌大系』は「円本にあらず」との自負を体現したことになろう。

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古本夜話1116 国民図書『校註日本文学大系』と中山泰昌

 小川菊松の『出版興亡五十年』を援用しながら、吉川弘文館の外交販売にふれてきたが、そうした出版社・取次・書店という「正常ルート」以外の流通販売は古典類の出版にあって、かなり多く採用されていたと見るべきなのかもしれない。しかもそれを当の小川と誠文堂新光社が譲受出版していることを考えると、古典類の出版の流通反愛を含めた多様性にも注視すべきであろう。

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 そうした格好の例を、大正十四年に刊行され始めた『校註日本文学大系』に見てみる。これもまた『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」に「中世末までの古典作品の集成。校註は厳密ではなく、頭注も少ないが、解題には見るべきものがある。収載量の多いことでは随一である」との説明に加え、全二十五巻の明細も示されている。

f:id:OdaMitsuo:20210113102520j:plain(『校註日本文学大系』)

 この『校註日本文学大系』は本探索1107の中塚栄次郎の国民図書株式会社が円本時代に企てたものだった。それは新聞広告による内容見本送付という予約出版と通信、外交販売を兼ねていたようで、小川は『出版興亡五十年』で次のように書いている。彼は国民図書刊行会と誤記しているが、『世界名著大事典』も国民図書会社と同様なので、ママとする。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年) 

 国民図書刊行会(ママ)では、広告に依る請求者ばかりでなく、有力な名簿を手に入れて見本をこれに直送する。即ち同社の「校註日本文学大系」には三十万部(中略)の内容見本を刷つて発送したのであつた。当時市内特別郵便物は僅に六厘であつたから、同社では、大阪、神戸、京都、名古屋の大都市には、その市内だけのものを一括して客車で送り、社員を出張させて、その地の郵便局にこれを出さしめた。こういう方法が、頻々と派手に行われたので、逓信省は一種の脱税行為と見、市内特別は、その発行所在地の局以外は、扱わぬという制限を設けるに至った。

 この内容見本送付のからわかるように、中塚の国民図書株式会社の場合は流通販売に関して一筋縄ではいかない。それは公共料金や税制にも熟知し、新聞、鉄道、郵便などのインフラも全面的に利用し、その上で予約出版、通信、外交販売が組み合わされ、稼働していく。もちろん出版社・取次・書店という「正常ルート」は注文だけの仲間口座、地方取次に対しては入銀制による低正味が導入され、代理店的外交販売が促進されたと考えられる。後に中塚が政治家となっていくことを表象するように、全面的なオルガナイザーとしての出版者だったと見なせよう。

 それでは編集のほうはどうなっていたのだろうか。手元にあるのは一冊だけだが、その奥付には編輯兼発行者として国民図書株式会社、その代表者として中塚の名前が挙がっている。幸いにして、これは函入、四六判天金上製、九六〇ページの第一巻で、『古事記』や『日本書紀』などの収録である。上田万年、関根正直、三上参次による三つの「序」は、昭和を迎えての『校註日本文学大系』の位置づけ、その第四期にまで及ぶ計画、具体的な編輯者への言及もあるので、それらをたどってみる。

 上田はまず「国文学各種の一大結集を作らんとする、日本文学大系の計画は、出版界に於ける壮挙」と宣言する。それは「忌憚なく言へば、在来のこの種の叢書には遺憾とする点が少なくなかつた」し、一般的に売れるものだけを集めたり、量だけを誇ったり、編纂の不備は明らかで、無責任な複刻、校訂校正の杜撰さを露呈するばかりであった。それらに対し、『校註日本文学大系』は先行の叢書類の欠点を子細に点検し、「永く後代に残す本として」「理想的なもの」になったと述べている。

 そして第一期が奈良朝より室町末期での文学、第二期が徳川時代の文芸、第三期は和歌、第四期は俳諧を収録刊行する予定で、それらを系統的組織的に排列し、最も信頼できる資料により、校訂や註釈に力を注ぎ、詳細の解題を付する計画である。それもあってか、まだ第一期事業すら完了していないにもかかわらず、早くも「大系本」という呼称が広く認められ、「此の上なき名誉」だとの言も見えている。それはともかく、後の、また戦後になっても使われる「大系」なるシリーズ名はこの『校註日本文学大系』が始まりだったかもしれない。

 さらに上田はよほどうれしかったのか、この時代にしてはアカデミズム側からはめずらしい企画者と編輯者と出版者にオマージュを捧げている。それで企画者と編輯者の名前が判明したので、それを引いておく。

 此の大系本刊行の計画は、中山泰昌君によつて立てられ、国民図書株式会社の中塚栄次郎君が、財界の不安甚しかつた震災直後にあつて、非常の決心を以てこれが発行を引受けられたのである。而して組織編纂等の方面には、佐伯常麿君が膺られ、中山君はまた、事業の信仰と各巻の校正とに、終始一貫して力を注がれつゝある。而して両君が、出来うる限り良い本を作らうといふ上の註文は、かなり営業者に失費、犠牲を払はしめるものであるが、中塚君は快くこれに応ぜらるゝ(中略)。

 こうして第四期まで出せれば、「日本文学の一大殿堂が築かれ」るはずであったが、おそらく第四期百巻までを予告していた『校註日本文学大系』は第一期二十五巻だけで、それ以後は続かなかった。

 しかし昭和十三年になって、その復刊といっていい「普及版」を刊行したのは小川の誠文堂新光社で、たまたまこちらもその一冊の第二十三巻『狂言記』を拾っているが、奥付編輯者名は中山、解題者は『近代出版史探索Ⅲ』524の尾上八郎あった。小川の『出版興亡五十年』を確認すると、中山は彼の友人として出てくる。まさに出版人脈は連鎖しているのだ。

近代出版史探索III 


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古本夜話1115 石原俊明、国際情報社、大正通信社『国際画報』

 前回、小川菊松が証言する「外交販売専門で、大正期に早くも大成功した」石原信明の名前を挙げておいたが、石原は『出版人物事典』にも立項が見出せるので、まずそれを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人 

 [石原俊明 いしはら・としあき]一八八八~一九七三(明治二一~昭和四八)国際情報社、大法法輪閣創業者。一九二二年(大正一一)有限会社国際情報社を東京・銀座山下町に創業、大型グラフ雑誌の月刊『国際写真情報』を中心に、『世界画報』『映画情報』『婦人グラフ』などの写真グラフ雑誌を出版。また、三三年(昭和八)大法輪閣を併設、仏教専門雑誌『大法輪』を創刊、仏教関係書を出版した。『国際写真情報』などは直販形式をとり、その販売形式はその後の直販業界の基礎ともなった。敗戦の四五年(昭和二〇)一時休業したが、五一年(昭和二六)株式会社国際情報社として再出発、大法輪閣も独立した。

 この立項によって、前回の村上の「宗教書ルート」と外交販売がリンクするし、これも小川のいう石原が「終戦後再起を躊躇」との事情が伝わってくる。ただこうした直販形式のグラフ雑誌に群がった「この畑育ちの連中」は、石原氏以外には『出版人物事典』『日本出版百年史年表』にも見出せないので、戦後を迎え、一世を風靡したと思われる、この出版分野の詳細はもはやたどることは難しいだろう。

 そのように認識していたし、また古本屋でそれらのグラフ雑誌に出会うこともなかったので、気になりながらも詳細に言及する機会は得られないだろうと考えていた。

 ところが数ヵ月前に骨董市で、それらの戦前戦後のグラフ雑誌が束になって売られていたのである。戦前版は大正通信社の『国際画報』、戦後版は国際写真通信社の『国際写真通信』、国際情報社の『映画情報』だった。いずれも菊倍判、もしくはB4判といっていいのか、かつての新聞社系の『アサヒグラフ』や『毎日クラブ』を一回り大きくした雑誌と目されたい。

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 戦後の『国際写真通信』は編集人を佐介賢、発行人を高田俊郎とするもので、昭和三十、三一年の号が十一冊、それに対し『映画情報』はまさに編集兼印刷人を石原俊郎としているけれども、残念ながら一冊しかない。そうしたこともあって、ここでは戦後版と比べて洗練されておらず、編集や印刷もぎこちないが、グラフ雑誌の原型の面影をとどめている『国際画報』にふれてみたい。

f:id:OdaMitsuo:20210112175610j:plain(『国際画報』)

 これは昭和三年三月号から七月号までの五冊が専門のバインダーに収められたもので、そこには『国際画報』のタイトルの下にTHE INTERNATIONL PICTORIALが謳われ、これが英訳で、そのようなコンセプトによることを発信しているのだろう。裏表紙の編輯兼発行人、印刷者は久保秀雄、その住所は東京市麹町区土手三番町、発行所の大正通信社も同様である。表紙には東京と並んで大阪も記載されていることからすれば、営業のための支店も設けられているとわかる。これらの昭和三年の号は第七巻、第三種郵便許可は大正十一年とされているので、大正十一年創刊だと推定できる。

 石原の国際情報社の『国際写真情報』の創刊も同年で、朝日新聞社の『アサヒグラフ』は同十二年だからグラフ雑誌は関東大震災後の大正末期に続々と創刊されたと考えられる。 今橋映子の『フォト・リテラシー』(中公新書)が示しているように、欧米のグラフ誌の創刊が活発だったのは一九二〇年代から三〇年代にかけてで、それらとパラレルに日本のグラフ誌も発刊されていったことになる。

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書) 

 そのひとつが『国際画報』であるが、全五冊に言及できないので、ここでは三月号を見てみたい。まず表紙を繰ると、目次の下に現在でいうところの「編集後記」が「斜陽倒影」としてコラム的に並べて置かれ、その二番目には「血と肉とで苦闘、漸く我々大衆の手に獲得した参政権! 最も有意義に行使してこそ、普通選挙は光、世は明るく、清くなる」との言葉が見え、あらためて昭和三年二月に最初の普通選挙が行なわれたことを想起するのである。 それにモノクロの皇后の写真、沼津の浮世絵、ボッチチェルリの「讒訴者」、磯田湖龍斎の「雛形若葉初模様」の各一ページが掲載されている。

 それから一ページ毎にモノクロ写真がそれぞれにレイアウトされた、時代を浮かび上がらせる「普選案通過史の回顧」「栄冠は何れに? 本邦初めての普通選挙による衆議院そうせんきょ」が並んでいる。その後に「英国ラグビー軍わが軍を子供扱にして帰る」というスポーツページ、「芽を出した椰子の実」「欧州各国美術工芸品誌上展覧会」、さらに脈絡なく、「労農露西亜で活躍する片山潜氏」「南欧に咲き誇る名花リカーネ・ハイド嬢」「米国潜水艦84号沈む」「ロスアンゼルス市を風靡する巫山戯た新流行の建物」「暹羅の古典的白象の儀式」「リンドバーン大佐の墨国訪問」「大宰府都府楼の址」が続いていく。

 そして次にはまたカラーで富田温一郎の「緑明」、間郁時雄の「窓」という絵、山中宏の「春日遅々」と題した芸術的写真、「美術工芸品としての更紗と敷瓦」、それから再び「国際連盟軍縮快事」「米国議会開院式」「珍妙なフイリツピン人の風俗」「ニカラガへ送らるゝ兵士と弾薬」などの国際写真が続き、ようやく大型グラフ雑誌を閉じることができる。そして表3広告で、大正通信社が『国際情報』の他に、月刊誌『映画』『写真通信』『演芸写真』を刊行していたことを知るのである。

 こうした直販形式の大型グラフ雑誌の紹介は初めてで、ラフスケッチに終わってしまったが、出版社や編集者、読者のことを再考したいと思う。


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古本夜話1114 村上信明『出版流通図鑑』と外交販売の系譜

 続けて二編ほど「外交販売」に関して書いてみる。

 昭和六十三年に出版業界紙『新文化』の記者だった村上信明による『出版流通図鑑』(新文化通信社)が出された。これは出版社・取次・書店という「正常ルート」以外の十四のルートを取材し、上梓した一冊で、同じく村上の「正常ルート」を対象とした『出版流通とシステム』(同前、昭和五十九年)とともに、まさにアクチュアルに出版物の流通販売に肉薄した、彼しかなしえなかった労作である。

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 両書がいずれも昭和末期に刊行されたことは象徴的で、図らずも書店も郊外店、及び雑誌販売もコンビニの全盛を迎えつつあり、これまで出版物の流通販売を支えていた街の中小書店が危機に追いやられる時代に入っていた。またそのような状況の中で、再版委託制に基づく出版社・取次・書店という近代出版流通システムが問われなければならない時期を迎えていたし、村上の問題意識もそこにあったはずだ。

 それらはともかく、『出版流通図鑑』に戻ると、サブタイトルに「50万アイテムの販売システム」とあるように、ここでは大分類としてのキヨスク、即売、新聞販売店、政府刊行物、専門店、職域直販、図書教材、生協、農協、宗教書、流派家元、通販、宅配便、輸出ルートが挙げられている。つまりこれらの各ルートの中にも多様なアイテムの存在が認められるのである。村上はこれらのルートの始まりについても取材と分析を重ねた上で、「出版流通チャート」を示しながら、次のように述べている。

 要するに、出版社、出版販売業者、異業種企業のそれぞれの事情と必要性が出版流通ルートを多様化させた。いわば関係者寄り集って「多様化」を合作したのであって、決して誰かが一人歩きしたわけではない。出版物自体の個性と多様性を考えれば、流通ルートはむしろ多様化するのが自然の姿といえるであろう。

 このように「正常ルート」以外の多様化した出版物流通販売システムの始まりのひとつが、大正時代に盛んになった「外交販売」だと思われる。取次出身で流通販売にも通じていた小川菊松は『出版興亡五十年』で書いている。

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 外交販売専門で、大正期に早くも大成功したのは、石原俊郎氏の「国際写真情報」で、全国的に外交員が活躍、三、四十万部を発行したが、紙の統制で制約を受け、ついに廃刊の憂き目を見た。終戦後再起を躊躇している中に、もと同社にいた大沢氏が逸早く国際文化情報社を起し、「国際文化画報」と題して、石原氏と同様のものを発行し、ついで「画報近代百年史」を刊行し、共に外交販売の一手で、百年史は現に十八万部以上刷つている。石原氏も「国際写真情報」を再興、昔同様の豪華なものを発行しているが、聊か強敵に立遅れた感がある。この成績優良に刺激され、この畑育ちの連中は、国際情報、世界画報、映画情報、世界文化何々、時事何々と乱立して外交販売で鎬を削つているが、書店販売しないので返品皆無ため何れも成功している。

 この小川「外交販売」に関する記述は昭和二十年代で、『出版流通図鑑』の刊行はその四十年後であり、もはや村上の著書に「外交販売」という言葉は使われていない。そこでもう少し小川の説明を聞いてみる。外交販売の系譜は隆文館の草村北星が大隈侯を総裁として大日本文明協会を組織し、「大日本文明協会叢書」五十巻の翻訳書、隆文館の名前で豪華本『大日本美術略史』、建築工芸会で『建築工芸資料』、龍吟社、及び財政経済会として『明治大正財政史』『日蓮全集』『白隠全集』などを出したとされる。これらに関しては私も「市島春城と出版事業」(『古本探究』所収)、『近代出版史探索』149から159などでふれている。

古本探究 近代出版史探索

 その草村に続くのは玄黄社の鶴田久作が組織した国民文庫刊行会、これも「鶴田久作と国民文庫刊行会」(同前)、やはり『近代出版史探索』104などで論じているので、必要とあれば、そちらを参照してほしい。それは本探索1107で記したように、吉川弘文館の『古事類苑』なども同様であった。

 つまり元来は「正常ルート」の出版者だった草村、鶴田、吉川たちが、それとは異なる「外交販売」に取り組んでいたことになる。そのような明治末期から大正にかけての「外交販売」があって、それに携わっていた人々、小川の言葉を借りれば、「この畑育ち連中」が「外交販売専門」として、石原の『国際写真情報』を始めとするグラフ誌を発行するようになったのではないだろうか。

 先に引用したように、それらの会社や雑誌タイトルは「国際」が点く場合が多い。そういえば、吉川弘文館の発売所に国際美術社なる一社があったが、それが「外交販売」出版人脈の起源だったのではないかと思われるので、さらに一編を続けてみる。

 なお小川の証言によって、拙稿「白倉敬彦とエディション・エパーヴ」(『古本屋散策』所収)、及び『近代出版史探索Ⅳ』603で、国際情報社と国際文化情報社を混同していたことに気づかされた。重版の際に訂正するつもりだが、ここに付記しておく。

古本屋散策 近代出版史探索IV


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