出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1140 坂本嘉治馬と吉田東伍『大日本地名辞書』

 本探索1133において、冨山房の『漢文大系』には言及しなかったので、ここでその代わりとしてではないけれど、これも同じく予約出版だったと見なせる吉田東伍の『大日本地名辞書』を挿入しておきたい。

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 私が架蔵しているのは明治三十三年初版、昭和十二年十二月再版の『大日本地名辞書』全七冊である。著者の吉田のプロフィルと編集執筆状況、その刊行に至る経緯と事情に関しては『冨山房五十年』、杉村武「大日本地名辞書」(『近代日本大出版事業史』所収)、紀田順一郎「超人学者の記憶容量―吉田東伍と『大日本地名辞書』」(『日本博覧人物史』所収)などにおいて、詳細に語られているので、やはり続けて流通販売の視点から考えてみよう。

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 冨山房については『近代出版史探索Ⅱ』237と『近代出版史探索Ⅴ』994で「模範家庭文庫」、『近代出版史探索Ⅴ』995で「画とお話の本」、『近代出版史探索Ⅱ』238で『国民百科大辞典』、『近代出版史探索Ⅳ』626で『カトリック大辞典』といった児童書シリーズや辞典を取り上げ、前者が児童書としてはとても高価であることにふれた。それゆえに当時の書店事情からして販売が限定されたのではないかと推測しておいたが、視点を変えると、外交販売市場に向けての企画ゆえに高定価も成立したのではないかとも思われた。それは「近代社と『世界童話大系』」(『古本探究』所収)も同様で、当時のハイレベルな児童書は書店とは異なる外交販売市場を有していたことから、そうした企画と高定価設定も許されたと認識するに至ったのである。

近代出版史探索II 近代出版史探索V 近代出版史探索IV 古本探究

 冨山房にあって、児童書のみならず、辞典の分野においても、それが成立していたと考えられるので、まずはそのことをうかがわせている創業者の立項を引いてみる。

 [坂本嘉治馬さかもと・かじま]一八六六~一九三八(慶応二~昭和一三)冨山房創業者。高知県生れ。一八歳で上京、郷土の先輩小野梓の経営する書肆東洋館に入り、支配人格となったが、小野の没後、一八八六年(明治一九)神田神保町に冨山房を創業。天野為之の『経済原論』を処女出版、以来、学術書、教科書などを出版、円本合戦のさなか一九二七年(昭和二)には、時流に超然としてわが道を行くの態度で『日本家庭大百科事彙』全四巻の刊行をはじめ多くの出版を成功させた。また、上田万年、松井簡治『大日本国語辞典』全五巻、大槻文彦『大言海』、『国民百科大辞典』全一二巻などで社名を高めた。小野梓の遺訓「益世報効」を社是とし、「良い本は高くとも売れる」という信念をもって生涯良書の出版事業に専念した。中学教科書協会会長もつとめた。

 残念ながら、ここには『大日本地名辞書』は挙げられていないので、それを補足しておく。吉田は明治二十六年に冨山房から『日刊古史断』を上梓した際に、史学研究には地理地誌の知識が不可欠だと痛感し、そのためにはまず地名辞書を編纂すべきだと考えた。それを同郷の市島春城に相談した。拙稿「市島春城と出版事業」(『古本探究』所収)で既述しているように、この時代に市島は早稲田大学出版部設立に参加し、さらに国書刊行会、大日本文明協会などの出版事業に関係していくことになる。

 その市島が吉田の企画を冨山房の坂本のところに持ちこみ、明治三十三年に『大日本地名辞書』第一冊上が出され、四十年に十一冊目の「汎論索引」によって完結する、この五一八〇ページに及ぶ大冊は「歳月を閲すること十有三春秋」(「序言」)に及んだのであり、その書影と早大図書館蔵の数万枚の原稿は、先述の紀田の論稿に見ることができる。そして吉田はこの編纂の功によって、中学しか出ていないにもかかわらず、文学博士の学位を授けられたのである。

 それでも吉田は休む間もなく、続篇の『北海道・樺太・琉球・台湾』をも完成して全五巻、さらに死後の大正十二年の第三版は全七巻となり、私が入手したのは昭和十年の「新修復興版」に他ならない。四六倍判の七冊は「上方」「中国・四国・西国」「奥羽」「北国・東国」「北海道・樺太・琉球・台湾」「汎論索引」となっている。奥付定価は七十円で、著者吉田東伍と並んで、右相続者吉田春太郎の名前がある。その事実からすれば、長きにわたって著作権と印税が吉田の遺族に保証されていたことを示し、吉田の仕事が家族に対して報いられたことを知るのである。

 「汎論索引」の巻頭に収録された八六ページに及ぶ多数の「祝辞、序、評論」は『大日本地名辞書』が当時の一大出版プロジェクトであることを知らしめている。巻末の坂本の「大日本地名辞書の後に書す」には、明治三十三年当初「予約価七円五十銭なりき」が刊行に連れ、ページ数が増え、「三十五年九月予約は諸君子の義俠に訴へて、第三冊以下実費半額の追加を請ひて事業を継続せり」、「今日本書が無事実成の功を全うし得たる所以のもの、一は予約諸君子が深大なる同情の賜と感激措く能はざる所なり」との言が見える。

 これらは『大日本地名辞書』が予約出版と外交販売市場に多くを負っていたことを伝えているし、先の坂本の立項にしても、そうした含みをこめているのだろう。また冨山房の辞書事業にしても、市島経由で早稲田大学出版部の予約出版を見習っていたこと、それに加えて『坂本嘉治馬自伝』(「出版人の遺文」所収、栗田書店)でほのめかされているように、中等教科書の合同事業としての明治図書株式会社に参加し、新たな書店外商ルートとつながったことが大きく作用したのではないかと思われる。

f:id:OdaMitsuo:20210321152752j:plain:h110(「 出版人の遺文」)


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古本夜話1139 齋藤秀三郎『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』と『齋藤和英大辞典』

 漢文書出版の系譜をたどる中に、英語文法書や辞典を挿入して違和感を与えるかもしれないけれど、そうしたダブルイメージこそが近代出版の現実でもあった。またそこには思いがけない出版経済のメカニズムすらも潜んでいたのではないかとも推測されるので、そのことにふれてみたい。

 前回、齋藤秀三郎の『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』を挙げたが、その巻末一ページに「尋常中学校幷商業学校用英語会話文法広告」の大見出しで、内容紹介がなされ、「此書ハ著者カ夙ニ本邦人ノ正則ニ英語ヲ学習スルノ困難ナルト共ニ良書ナキヲ深慨スルノ余リ編著セラレタルモノナリ」とある。紀田順一郎は「英語の鬼がつくった驚異の辞典」(『日本博覧人物史』所収、ジャストシステム)において、『齋藤和英大辞典』にスポットを当てているが、先の英語文法書こそが彼の処女作であった。紀田はそれを次のように始めている。

f:id:OdaMitsuo:20210318151732j:plain:h115(『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』)f:id:OdaMitsuo:20210317205310j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20210106174611j:plain:h115

 明治二〇年代から三〇年代にかけて、東京の二大私立英学校といえばイーストレーキの創設した国民英学会と齋藤秀三郎(一八六八~一九二九)の創立した正則英語学校で、この二校の並び建っている神田錦町界隈は夕刻になると学生の熱気であふれ返るようだった。商店の店員や官庁のボーイなどが押しかけるので、それを当て込んだミルクホールやレストランも大いに繁盛していた。

 イーストレーキと英和辞典に関しては拙稿「三省堂『ウェブスター氏新刊大辞典和訳辞彙』と教科書流通ルート」(『古本屋散策』所収)で言及し、国民英学会と正則英語学校による英語普及の多大な貢献にもふれている。それは出版界においても同様で、本探索1134の国民文庫刊行会の鶴田久作が国民英学会出身であることを既述したばかりだ。正則英語学校の場合も例を挙げれば、『近代出版史探索Ⅲ』445などの三笠書房の竹内道之助がその出身で、この両校に在学した出版関係者は彼らの他にも多く見出されるはずだ。だがそれは稿をあらためることにして、ここでは正則英語学校と齋藤のことにしぼりたい。

古本屋散策 近代出版史探索III

 先の英語文法書と学校名に見られる「正則」とは、当時の英語教育が漢文的な直訳、つまり「変則」的だったことに対し、齋藤英語の特徴は一読して日本語らしい意味を会得することをめざしていたので、本当の英語という意味で「正則」を使ったとされる。その「正則」に基づき、編まれた『齋藤和英大辞典』にはそれも立項されているので引いてみる。

 Seisoku(正則)【名】A regular system : (=no)regular ; systematic. ・英語を正則に研究する to make a regular study of English―make a systematic study of English

 これだけでは見えてこないけれど、『同辞典』は日本語の慣用句、ことわざ、和歌、俳句、端唄、都々逸などの用例をふんだんに取り入れた日本人の英語というべきだろう。それゆえに、これは紀田も挙げているGisei(犠牲)の用例としての「自国語を犠牲にして英語を学んだI learned my English at the expense of my Japanese.」は当てはまらないことになる。

 ところでこの『齋藤和英大辞典』だが、紀田はカラー書影入り、厚さ一四センチ、四六四〇ページに及ぶ、昭和三年刊行の日英社版を紹介している。これは齋藤が処女作を上梓した興文社と喧嘩別れしたことから、自らが日英社という版元を興して刊行したとされる一冊で、一度目にしたいと思っているだが、長きにわたって未見のままである。それでも幸いなことに、昭和五十四年にほぼ半世紀ぶりで、名著普及会から覆刻版が出され、手元にあるのは同五十八年第六刷である。これは日英社版の四ページ文を一ページにまとめ、版面を七〇パーセントに縮刷したものだが、あらためて英語学者ではなく、出版者しての齋藤と日英社を支えたのは誰だったかが気にかかる。

齋藤和英大辞典 普及版

 これも紀田によれば、明治二十九年の正則英語学校の創設にあたって、そのスポンサーとなったのは興文社の社長鹿島長次郎だったとされる。前回鹿島の名前を『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』の奥付発行者として見たばかりだが、その指摘によってひとつの疑問が解けたように思われるので、そのことを書きとめておきたい。実はその同じ奥付の版権所有のところに「石川印証」という検印が貼られ、その上に解読不明の大きな印が打たれている。これは齋藤の「版権所有」ではなく、石川なる人物にそれがあることを示している。

 それならば、石川とは誰かというと、これも拙稿「藤井誠治郎『回顧五十年』と興文社」(『古本屋散策』所収)でふれておいた興文社のオーナーの石川家をさしているのではないだろうか。藤井によれば、三代目石川治兵衛は教科書出版で業績を上げたが、惜しくも夭折し、その後はすず未亡人の経営となった。彼女はその支配人の鹿島長次郎と再婚するが、鹿島は興文社の代表、つまり発行者に納まったものの、石川家の養子に入ることはできなかったという。

 とすれば、興文社の実質的オーナーは相変わらず石川家のままであり、齋藤の正則英語学校設立資金を用意したのは石川家で、その際に先の版権も融資の代わりに譲渡されたと考えるのが妥当のようにも思われる。ただ鹿島が発行者=代表者だったことから、彼がスポンサーだとの風評が広まり、それが事実のようにして伝えられていったのだろう。おそらくそうした齋藤の処女作の出版事情、その後の印税問題、それらの風評などが重なり、齋藤は興文社と喧嘩別れすることになったのではないだろうか。


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古本夜話1138 博文館「少年叢書」と興文社「少年叢書漢文学講義」

 漢文書出版の裾野は想像する以上に広く拡がり、それは博文館も例外ではなく、明治二十五年には「支那文学全書」全二十四巻の刊行を始めている。そのことに関して、『博文館五十年史』は書影を示し、「当時国文学の気勢稍ゝ衰へ、漢文学が漸く頭を擡げたので、此書は四書五経より、諸子百家の長い註釈を加へて、漸次出版し、毎月一日発行、一部定価金二十五銭、内藤耻叟、小宮山綏介、石川鴻齋等の諸氏に註釈を請ひ、岸上操氏編輯を担任した」とある。

f:id:OdaMitsuo:20210317201351j:plain:h120(「支那文学全書」)

 岸上は号を質軒とする漢詩人で、内藤や小宮山たちと江戸会を設立し、『江戸会誌』を編集していたが、収支が難しく、その発行が博文館に移ると、岸上もそれに従い、江戸時代研究の権威とされた内藤や小宮山も「支那文学全書」のみならず、博文館の有力な著者となっていったのである。

 「支那文学全書」は未見だけれど、明治三十年の野口寧齋『少年詩話』は入手していて、これは「少年叢書」第二編とあり、「博文館出版年表」を確認すると、十冊刊行されている。野口も当時の著名な漢詩人で、『少年詩話』はB6判並製、一六三ページの小著ながら、少年のための漢詩入門、及び作り方といった内容である。「少年叢書」はこの一冊しか見ていないのだが、先の小宮山の『洋学大家列伝』、やはり漢学者の依田百川(学海)の『英武蒙求』も含まれていることからすれば、著者の多くが漢詩人人脈から召喚されているとも考えられる。そのキャッチコピーを巻末広告から引けば、「少年叢書現はる。人物伝、冒険談、作文書、理科、歴史話、歴史話、紀行類、凡そ少年の良友たるべき珍書は、収めて皆此中に在り」と謳われている。

f:id:OdaMitsuo:20210317202400j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20210317201951j:plain:h120

 『博文館五十年史』における明治二十年代の漢文学台頭の状況、それと併走する「支那文学全書」や「少年叢書」などの刊行は、明治後半から大正にかけての漢文書出版トレンドの先駆けとなったのかもしれない。

 それを興文社の「少年叢書漢文学講義」に当てはめることができるように思う。「少年叢書」は博文館とシリーズ名が同じだが、こちらは菊判和本仕立ての一冊である。私が拾っているのはその十三編『増訂唐宋八家文講義四』で、大正二年初版、同九年第八版との重版表記から、同書がロングセラーとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20210317202905j:plain:h120(『増訂唐宋八家文講義』)

 その内容を「巻之二十五」の章によって示せば、蘚轍子由の著とされ、その一ページを当てた詳細な紹介の「事歴」を見て、次に「清国 沈徳潜確士評点/日本 喰代豹蔵講述」と記され、本文に入り、漢文、字解と講義が続いていくのである。そして巻末には漢文用語辞典と見なしていい、伊藤長胤輯「校正用字格」が付され、おそらくこれが見返しに全二十六冊とある「少年叢書漢文学講義」の共通する編み方だったと考えらえる。

 編輯発行兼印刷者は日本橋馬喰町の興文社/代表者鹿島長次郎とあり、著作権所有も明記されているので、この「叢書」が印税の生じない買切原稿による出版だとわかる。この興文社に関しては『近代出版史探索Ⅲ』421で『日本名著全集』、また前々回にふれたばかりの「藤井誠治郎『回顧五十年』と興文社」(『古本屋散策』所収)において、彼の「中等教科書を始め、漢文書、参考書、予約物等多くの出版があって毎日取物に行った」という証言を引いておいた。そして鹿島長治次郎が興文社の支配人だったが、当時の大事件とされる、興文社がピストル強盗に襲われた際に、未亡人の女主人を救ったことにより、彼女と結ばれ、興文社を株式会社に改組してその代表に就いたことも。

近代出版史探索III 古本屋散策 

 その鹿島がやはり発行者となっている『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』も入手している。これは著者を斎藤秀三郎とするもので、明治二十六年初版、二十九年二月訂正再版とある。「PREFACE」には「This book is designed to be used in the primary classes to the Jinjo-Chugakko and schools of similar grade, before the student undertakes the study of regular grammar」と述べられているように、当時の中学生用の英会話文法入門書と考えられよう。斎藤と英語のことは次回に譲るつもりなので、ここでは十六ぺージに及ぶ巻末広告に示された興文社の「中学教科書を始め、漢文書、参考書、予約物の多くの出版」を見てみよう。

f:id:OdaMitsuo:20210318151732j:plain:h115(『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』)

 まず「操觚実用文壇宝典」との角書を付す『要字鑑』が挙げられ、そこに示された多くの新聞書評からすれば、これは明治二十年代において漢字辞典として好評だったことを告げておいるようにも思われる。それに続いて「少年叢書漢文学講義」が二ページの見開きで紹介され、まだ二十編までの刊行だが、これらはすでに「二五万余冊ヲ販売」との言がキャッチコピーに見える。また「学生必読漢文学全書」全八冊の二ページ広告もあり、これらは確かに『博文館五十年史』がいうように、「漢文学が漸く頭を擡げ」てきたことの証左となるし、明らかに中学校などでの教科書採用も相次いでいたと判断できよう。この時代に漢文書出版は大いなる利益をもたらしたのである。

 博文館や興文社に続いて、他の出版社にも漢文書出版に参入したことは本探索でずっと見てきたとおりだ。そしてそれは昭和円本時代まで続いていったことになる。


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古本夜話1137 米田祐太郎、支那文献刊行会『支那珍籍全集』、伊藤禱一

 こちらは昭和円本時代になってしまうのだが、やはり漢文書に関連すると見なせる『支那珍籍全集』が刊行されている。これは『全集叢書総覧新訂版』によれば、昭和三年に甲子社から四冊出され、その後は続かなかったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210311113529j:plain:h113f:id:OdaMitsuo:20210311113040j:plain:h113(『支那珍籍全集』)全集叢書総覧 (1983年)

 私にしてもその一冊の第二十巻『風流八紘』を入手しているだけだが、それを手掛かりにして、言及を試みる。その編訳者による「序に」に、『風流八紘』とは次のように説明されている。

 支那の正史に現われぬ閨閣の経緯、史外史伝とでも云ふべき、門外不出の秘記異聞で、四百余州四千年を通じての風流皇帝八人を選んでの艶史である。
 新らしい国が起るには、明君があり、英傑がある。明君英傑の裏には、美くしい女が潜む。それと同じで、国が亡ぶにも、明君があり、奸臣がある。そして彼らの後には、やはり傾城傾国と云れる妖婦が居るのだ。
 ここでは多く、亡国の端を啓いた麗妃佳人に配するに、奸寧邪悪な主従の非行、時代の裏を覗ふに足るもの許りを集めた。

 それらは殷の紂王と姐妃の「殷紂王艶史」、周の幽王と褒似の「周幽王艶史」、元の順帝と三十六鴛鴦婦の「元順帝艶史」、明の正徳帝と鳳姐香玉の「明正徳帝艶史」、清の乾隆帝と廓ぞめきの「清乾隆帝艶史」、同じく康熙帝と麗驪の「清康煕帝艶史」、隋の煬帝と楽女千人の「隋煬帝艶史」、唐の玄宗と楊貴妃の「唐明帝艶史」の八編からなる。そしてこれらの三八九ページに加えて、巻末には「隋煬帝艶史」と「楊玉環全伝」=「唐明帝艶史」二編の原文=漢文が一三〇ページにわたって収録され、「艶史」らしからぬ趣を添えている。

 奥付を見ると、翻訳編修、著作者は芝区白金台の米田祐太郎、「賛輯」として宮越健太郎と武田寧信の名前が並び、装幀は木村荘八、発行所は赤坂区青山南町の支那文献刊行会、発行者は牛込区市ヶ谷富久町伊藤禱一である。また「非売品」「会費金二円」との記載はこの『支那珍籍全集』も円本時代の産物だったことを伝えていよう。

 翻訳編修の米田祐太郎の名前は平凡社の『発禁本』(「別冊太陽」)シリーズに見出すことができる。それらに米田は『紅閨記』『支那猥談集』(いずれも支那文献刊行会、昭和二年)の著訳者、川端男勇との『東西媚薬考』(文久社出版部、昭和三年)の共著者として見え、何度も発禁、摘発を重ねた人物とわかる。

発禁本―明治・大正・昭和・平成 (別冊太陽) f:id:OdaMitsuo:20210316115505j:plain:h110(『支那猥談集』)

 これらの事実からすれば、支那文献刊行会は昭和二年から支那文学、文化史関連の出版を始めていて、翌年に『支那珍籍全集』という二十巻以上の円本全集に取りかかったことになろう。ただそれでも定かでないのは『風流八紘』の検印のところに米田の押印を確認できるけれど、この全集自体が彼の企画だったのかである。もちろん米田が支那文学や漢文に通じていたことは明らかだが、発行者としての伊藤禱一のことを考えると、そうとばかりは思えない。それはこれまで多くの奥付表記によって証明してきたように、著作者と発行者のいずれかが発行所の住所と一致すれば、そちらが実質的な経営者ということになる。ところが『支那珍籍全集』は先述したように、三者三様であり、一致していないので、支那文献刊行会の背後には誰か別の人物が控えていたとの推測も可能であろう。

 実はこの伊藤は拙稿「第一書房と『近代劇全集』のパトロン」(『古本屋散策』所収)で指摘しておいたように、第一書房の編集者で、昭和二十三年に第二書房を設立し、やはり第一書房のパトロネスだった片山廣子『野に住みて』を始めとする歌集や詩集を刊行し、後にその息子の伊藤文学によってゲイ雑誌『薔薇族』が創刊されていくのである。この雑誌に関しては伊藤文学『「薔薇族」編集長』(幻冬舎アウトロー文庫)を参照されたい。

古本屋散策 f:id:OdaMitsuo:20210316221728j:plain:h115 『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)

 それらのことはともかく、伊藤禱一は林達夫他編著『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)に従うならば、昭和四年四月に早稲田大学を中退し、第一書房に入社し、その歴史に残る仕事をすることになったという。昭和四年といえば、『支那珍籍全集』が発刊され、また中絶に終わった翌年のことであり、それは偶然の暗合だろうか。

 この当時、これも前掲書によれば、第一書房は「社屋をはじめ多くのものが抵当にはいり、内部はいわゆる火の車であった」とされる。そのような状況の中で、伊藤と支那文献刊行会は第一書房の別働隊として、発禁の可能性を多分にはらむ『支那珍籍全集』の刊行に踏み切ったのではないだろうか。それでなければ、学生の身で、二十巻を超える全集の製作費の調達は無理だったであろう。円本バブル時代は本探索1132の春陽堂に見たばかりだし、第一書房の長谷川巳之吉にしても、それを夢見なかったはずもない。

 だが良心的文芸書出版社のイメージを汚すことはできないので、その出版を伊藤に託した。それが結果として失敗に終わったとはいえ、その労に報いるために、伊藤を第一書房へと招くことになったとも考えられるし、近代出版史の複雑な関係からいっても、その可能性も大いにありうると思われる。


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古本夜話1136 至誠堂「新訳漢文叢書」

 
 続けて漢文出版を取り上げてきたけれど、明治から大正にかけて、思いがけずに新書判や袖珍判としても出版されていたのである。

 紀田順一郎の『古書収集十番勝負』(創元推理文庫)において、その勝負の六番目に「有朋堂対訳詳解漢文叢書」が挙げられていた。これは大正時代に刊行された、本探索1073、1074の「有朋堂文庫」の姉妹版で、全四十一巻とされる。だがその最終巻『靖献遺言』が関東大震災によってほとんど消滅してしまい、尋常の手段では入手できない「キキメ」となっているからだった。

古書収集十番勝負 (創元推理文庫)

 この新書判の「有朋堂対訳詳解漢文叢書」は入手していないが、それに先行して、やはり大正時代に至誠堂から「新訳漢文叢書」が出され、その一冊の第十四編『新訳大学中庸』は拾っている。こちらは新書版よりもさらに小さい袖珍本で、『全集叢書総覧新訂版』に見当らないので、その巻末広告から訳者も含め、十四冊をリストアップしてみる。

f:id:OdaMitsuo:20210308102312j:plain:h120(「新訳漢文叢書」)

1 大町桂月訳評 『新訳日本外史』
2 友田冝剛評 『新訳評解文章軌範』
3 浜野知三郎註解 『新訳孟子』
4 大町桂月訳評 『新訳日本楽府』
5  〃    『新訳日本政記』
6 久保天随訳評 『新訳十八史略』
7 友田冝剛評 『新訳評続文章軌範』
8 大町桂月訳評 『新訳国史解』
9 久保天随訳補 『新訳水滸全伝』上
10  〃    『新訳水滸全伝』下
11 大町桂月訳解 『新訳論語』
12 久保天随訳補 『新訳演義三国志』上
13  〃  『新訳演義三国志』下
14 浜野知三郎訳解 『新訳大学中庸』

 手元にある14はクロス装、天金函入だが、索引も含めて二百ページに満たない一冊だ。しかしこの巻だけは例外で、9、10などは上巻が千三百ページ、下巻は千二百ページとあり、袖珍判ながらも大冊とわかる。これはいずれもほとんどに「縮刷」「全一冊」と付されているように、以前に他の出版社から刊行されていた各シリーズを「縮刷」「一巻本」、もしくは上下巻とし、「新訳漢文叢書」として復刊したと見なせよう。

 訳評解者の同じく漢学学者、漢詩人としての大町桂月と久保天随に関しては『近代出版史探索Ⅱ』223で前者、同227で後者にふれているが、二人とも特価本や造り本出版社との関係が深いことに言及しておいた。それはこの「新訳漢文叢書」と至誠堂も無縁でないよう思われる。これも拙稿「至誠堂『大正名著文庫』と幸田露伴『洗心録』」(『古本屋散策』所収)で、その店員だった藤井誠治郎『回顧五十年』の証言を引き、当時の至誠堂が出版社、取次、書店を兼ね、「版元の残本まで引き受ける何でも屋であった」ことを確認している。

近代出版史探索II 古本屋散策

 藤井の先輩店員が『出版興亡五十年』の小川菊松に他ならないし、小川は『商戦三十年』(誠文堂、昭和七年)において、口絵写真の筆頭に「旧主至誠堂 加島虎吉氏」を掲げ、加島は同書に最初の「序」を寄せている。この事実は至誠堂こそが小川と誠文堂のルーツだったことを物語っていよう。小川も記しているけれども、ここでは『出版人物事典』から加島の立項を挙げてみる。

f:id:OdaMitsuo:20210131142744j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210309161158j:plain:h110 出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [加島虎吉 かしま・とらきち]一八七一~一九三六(明治四~昭和一一)至誠堂創業者。兵庫県生れ。少年時代上京、石屋の店員などをしたのち、一八九五年(明治二八)日本橋人形町で古本貸本業至誠堂を創業、九九年(明治三二)新本・雑誌の取次、販売、さらに出版事業に乗り出し、和田垣謙三の『青年諸君』を処女出帆(ママ)、『大正名著文庫』を刊行、『新婦人』を創刊するなど旺盛な活動を続け、取次は無謀な競争時代であったが、着実に業績を伸ばした。しかし、関東大震災で大きな痛手を受け、それに出版の失敗が加わり、一九二五年(大正一四)破産した。取次部門は大誠堂を設立したが、学界再編成で大誠堂を主体に東京堂・東海堂・北隆館が出資して新しい取次大東館が誕生した。ここで取次業界は四大取次時代となる。

 ここに近代出版業界が未分化であった明治後半からの古本、貸本、出版社、書店、取次を兼ねた「何でも屋」の至誠堂の軌跡の一端が浮かび上がってくる。至誠堂は明治三十年代からの六取次、大正前年の五取次の一角を占めていたけれど、大正十四年に破産に至り、そして昭和円本時代が四大取次によって担われていくのである。ちなみに大誠堂から大東館に至る取次ドラマは小川の『商戦三十年』に活写され、その再編の内幕を教示してくれるし、その中心人物の一人は先の藤井でもあり、かれは大東館の営業部長となり、新たな取次を担っていくことになる。こうした取次ドラマは近年の取次の破産と統合などが重なってくるけれど、残念ながらそこには小川や藤井のような人々は不在であることを付記しておこう。

 ところで「新訳漢文叢書」などの至誠堂の出版物はどうなったのであろうか。小川も藤井もそれらに関する証言を残していないが、やはり特価本や造り本出版社によって引き継がれ、譲受出版のかたちで復刻されていったと思われる。


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