出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1208 三水社と西牧保雄訳『女優ナナ』

 もう一冊『女優ナナ』がある。それは大正十五年に大谷徳之助を発行者とする日本橋区蠣殻町の三水社から刊行されている。四六判並製一九八ページの一冊で、クロージング部分はナナの死と「伯林へ、伯林へ、伯林へ!」で終わり、前々回の永井荷風の『女優ナナ』と同じだけれど、さらなる抄訳である。

f:id:OdaMitsuo:20210908101557j:plain:h120(三水社版、西牧保雄訳)f:id:OdaMitsuo:20210906175904j:plain:h123(新声社版、永井荷風訳)

 訳者名は表紙に記載がないのだが、西牧保雄で、そのプロフィルはまったくわからない。それでも奥付の下のところに、「大正十五年五月十日譲受」と記されていることからすれば、版元は不明であるにしても、他社から出されていたとわかる。しかし私も『ナナ』の訳者なので、ここまで中抜きした抄訳は翻訳というよりも、先行する荷風や前回の本間久訳『女優ナナ』、及び『近代出版史探索Ⅵ』1198の宇高伸一訳を参照してのリライトのように思われる。これは翻訳者としての実感からいうのだが、英語からの重訳にしても、ここまでのダイジェスト訳は困難だし、考えられないと見なすほうが妥当であろう。

ナナ (ルーゴン=マッカール叢書) (論創社版、拙訳) f:id:OdaMitsuo:20210907095908j:plain:h120(東亜堂版、本間久訳)f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(新潮社版、宇高伸一訳)

 それに三水社という版元名は『近代出版史探索Ⅱ』227などの三陽堂や三星社、同259の三芳屋と相似しているし、それに譲受出版のことを考えれば、この出版社も特価本や造り本を手がけていたと推測される。巻末広告にやはり西牧訳のシエンキュヰ原著『何処へ行』(原名『クオヴァヂス』)、トルストイの野村賢三訳『復活』も掲載されているが、これらも『女優ナナ』と同じくダイジェスト版と考えられる。

 しかもこれらの三冊は国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』に見えておらず、その代わりに昭和十四年に東江堂からの『何処へ行く』と『復活』の二冊が挙がっている。東江堂も特価本や造り本を手がける版元であり、さらに二冊が三水社から東江堂へと譲渡されたことを伝えている。それらの事実からわかるのは『女優ナナ』だけは売れ続けていたことで、新潮社のベストセラーとナナ御殿の神話はまだ保たれていたのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20210801151015j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210908103305j:plain:h110(東江堂版『何処へ行く』)f:id:OdaMitsuo:20210908103613j:plain:h110(東江堂版『復活』)

 そこで例によって、特価本と造り本などの『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』を繰ってみた。すると昭和九年の「全国見切本数物卸商一覧」に東京下谷区御徒町の三水月報社を見出すことができた。さらにたどっていくと、昭和十年頃の下谷方面の三水月報社も挙げられ、「カタログ、新聞広告などで読者直接の通信販売が主で、戦後神保町に移り、東京書籍として活躍しました」とあった。そして戦後を迎え、昭和二十年秋に設立された出版物卸商業組合メンバーの中に『女優ナナ』の発行者名の大谷徳之助が東京書籍を名乗って、そこにいたのである。

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 渡辺勝衛の東江堂も同様だ。渡辺は『近代出版史探索Ⅱ』285や286などの坂東恭吾や松木春吉とともに、戦後の代表的な市である二十日会の中心人物だったようだ。それは同296の大京堂の神谷泰治の家で、月々二十日に開かれていたが、戦後の発展によって個人の家では手狭となり、上野の貸席で開かれるようになったとされる。

 三水社の大谷や東江堂の渡辺も昭和戦前は満洲や朝鮮も含む通信販売を主としていて、その範となったのは大京堂の神谷による上田保の『趣味の法律』のベストセラーであった。私も376で、この「通信販売による伝説的ベストセラー」に言及しているけれど、その通販は戦後を迎えても、特価本業界ではまだ盛んに行なわれていた。『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に、中行社の神谷清成は「父・神谷泰治の思い出」を寄せ、次のように語っている。

趣味の法律【76版】 (『趣味の法律』)

 昭和二十六年頃出版しました「万有常識百科事典」が大変良く売れました。これ以後暫区の間「百科事典」時代が始まります。所謂、こと典の事典ものが売れると見るや大同小異の「事典」ものが各社より発刊され、次第に売れ行きがつまってくるのですが、一番影響が出はじめたのは、大出版社までが中小出版の企画類似ものを発行しはじめたことによります。書籍の題名が具体的で且つ長くなったのは我々小出版社の特長だと思います。それが最近では大出版社まで類似した題名をつけて各種の本を発刊しています。

f:id:OdaMitsuo:20210908113727j:plain:h83(『万有常識百科事典』)

 それは「事典もの」だけでなく、赤本、特価本業界の講談や漫画、歌本や付録ものにしても同様で、戦後になって「大出版社までが中小出版の企画類似ものを発行しはじめた」のである。特価本業界は『近代出版史探索』28でいうところのいかがわしい「ヒツジモノ」や譲受出版の王国のように見られていたけれども、それなにの代価を払ってのものだった。しかし特価本業界の中小出版社から譲受にも似た大出版社の企画の類似出版に対して、その代価は支払われることがなかった。このような出版事情は五十歳以下の人々にとって、もはや理解することは難しいと思われる。だが戦後における貸本屋をめぐる出版の興亡にしても、再販制に象徴されるように、書店と貸本屋、古本屋の中にあっての、大手出版社と赤本、特価本業界の代理戦争的な図式を描いたのである。

 大正十五年、ほぼ一世紀前の三水社版『女優ナナ』の出版、流通、販売を考えただけでも、出版社・取次・書店という近代出版流通システムに依存しない出版物が多く生み出されていたことを示唆してくれる。またそこには近代出版流通システムに対抗するオルタナティヴなシステムが構築されていたことも。しかし一世紀後の現在において、それらはすべてアマゾンに集約されてしまったというべきだろう。


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古本夜話1207 本間久と『女優ナナ』

 最近になって、前回の永井荷風訳『女優ナナ』と異なる二冊の『女優ナナ』を入手している。一冊は『近代出版史探索Ⅵ』1179でリストアップしておいたように、大正時代に入っての最初の「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳で、本間久訳として、大正二年に東亜堂から刊行されている。これは二十年ほど前から探していたが、見つからず、このほどようやく入手した一冊である。

f:id:OdaMitsuo:20210906175904j:plain:h125(新声社版『女優ナナ』、永井荷風訳)

 東亜堂は同1190の水上齋訳『ボワ゛リー夫人』、同1197の金子健二訳『全訳カンタベリ物語』、『近代出版史探索Ⅱ』220の佐々木邦訳『全訳ドン・キホーテ』の版元で、その他にもやはり本間久訳『全訳アラビヤンナイト』を出している。だがこれも長きにわたって留意しているけれど、めぐり会えていない。けれどその経営者の伊東芳次郎に関しては拙稿「幸田露伴と『日本文芸叢書』」(『古本屋散策』所収)で、塩谷賛『幸田露伴』(中公文庫)を通じての若干のプロフィルを提出している。

f:id:OdaMitsuo:20210823113148p:plain:h120 (『全訳カンタベリ物語』)f:id:OdaMitsuo:20210907101952j:plain:h120

 念のために大正七年版『東京書籍商組合員図書総目録』を繰ってみると、露伴の『努力論』『立志立功』などを始めとする人生論や歴史書百点ほどが挙げられ、前掲の翻訳書は主流でないとわかる。それに『女優ナナ』は見当らない。だが塩谷の証言によれば、伊東の東亜堂は大正十年頃閉じられたとあるので、『同目録』に出版目録が掲載されたのも最後になってしまった。

 『女優ナナ』の巻末には七十近い「東亜堂出版図書特約売捌店」が見え、全国のみならず、京城や大連も含め、流通販売網が整備されていたと思われるだけに、どうして立ちゆかなくなったのかという疑念がつきまとう。しかも関東大震災前でもあり、それは『近代出版史探索Ⅵ』1198の廣文堂と共通する要因があるのかもしれない。ただ点数からしても、翻訳物に起因していないことは確かめられたので、少しばかり安堵する思いだ。同じく同書の巻末広告には新刊、近刊として、ツルゲーネフ、花園緑人訳『女優』やバルザック、吉田荻洲訳が掲げられていたからだ。

 さて前置きが長くなってしまったが、『女優ナナ』に戻らなければならない。函の有無は不明だが、本体の装幀と造本と口絵はナナにふさわしくない。本体には公園の風景が描かれ、淡い緑の芝生、銀色の池には紺の樹々が映り、その上に二羽の白鳥が戯れている。そして口絵はたおやかな舞台の光景のようで、優美な二人の女優の姿がある。「緒言」に「此書の口絵表紙はすべて中沢弘光画伯の手に成つたもの」と記されているように、彼はロマン派的な趣の画風を有し、時代の『新小説』の春陽堂の表紙を手がけ、多くの小説の装幀にも携わり、田山花袋と共著で『温泉周遊』(金星堂、大正十一年)も刊行しているらしいが、こちらは未見である。

f:id:OdaMitsuo:20210907095908j:plain:h126 f:id:OdaMitsuo:20210907095400j:plain:h126(東亜堂版『女優ナナ』、本間久訳)f:id:OdaMitsuo:20210907142436j:plain:h125(『温泉周遊』)

 訳者の本間は『日本近代文学大事典』に立項が見出せるで、それを引いてみる。

 本間久 ほんまひさし 生没年不明。小説家、批評家。明治四三年ごろ二六新報の記者をするなど、新聞、雑誌の記者をした。作品批判である馬場胡蝶らの序文、森鷗外のあとがきを付した長編小説『枯木』(明四三・一 良明堂)を処女出版。過渡期の諸問題に立向かう青年を性急かつ強引な筆致で描いたの。著書はほかに自己流の社会評論集『白眼』(明四五・七 良明堂)、シェンケーヴィッチ『死にゝ行く身』(明四五 東亜堂)、『女優ナナ』(大二・七 東亜堂)などの翻訳もある。文壇の枠からはみ出した人間であった。

 おそらくこの立項は長編小説『枯木』の「森鷗外のあとがき」に大きく起因し、成立したと目されるし、本間の小説家、批評家、翻訳者としての評価ゆえではないだろう。「文壇の枠からはみ出した人間」という漠然とした評にしても、何に基づいているのか、『枯木』や『白眼』を読む機会を得ていないので、判断を下せない。

 そこで『日本近代文学大事典』の『二六新報』の解題によって、明治四十三年前後の『二六新報』の動向を追ってみる。同誌は二六社より明治二十六年に大新聞として創刊された。創刊中心メンバーは秋山定輔、江木衷、柴四郎、土子金四郎、鈴木天眼たちで、文学者としては与謝野鉄幹、斎藤緑雨などが参加していた。明治三十年代には反藩閥、反財閥の論調をとり、社会正義感を発揮する新聞となった。しかし政府批判記事による発禁を通じて、四十一年には家庭面を充実させ、中産階級に向けての大衆紙となると同時に、多くの文学者が寄稿する「時代文芸」欄も設けられた。だが四十四年に秋山は引退し、秋山清が社長となる。

 この『二六新報』のラフスケッチに『日本近代文学大事典』の秋山定輔の立項を重ねれば、さらに多面的になるけれど、肝心の本間は不在であるので、このような『二六新報』との状況から、彼のポジションをうかがうしかないし、それが本間をして翻訳の道へと進ませた要因だったとも考えられる。そうしたニュアンスは『女優ナナ』の「緒言」にも表出しているように思える。

 此書の印刷全部校了の頃に至つて、急に書肆から註文が出た。警保局の関門通過が危いから三四ヶ所訂正しろと云ふのである。成程此頃は大分お役所の取締が厳しいやうだ。(中略)それを憚つての用心は至極尤もであるが、此ナナの抄訳は既に業に出来るだけ穏やかに書いた(後略)。

 まだ続いていくが繰り返しとなるので、ここで止める。この三〇〇ページの『女優ナナ』は荷風のものよりは長いにしても、ストーリーは原著の半分のところで終わっている。荷風の『女優ナナ』はナナの死と「行けよ、伯林、伯林、伯林!」というクロージングのところまでを収めている。本間は荷風と異なり、ヴィゼッテリイ以外の英訳によっていたのかもしれない。

 なお付記しておくと、この二冊の『女優ナナ』も発禁とされたようだ。


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古本夜話1206 新声社と永井荷風『女優ナナ』

 『近代出版史探索Ⅵ』に、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の出版、翻訳、訳者に関して、十編ほど収録しておいたが、その後さらに六冊入手したので、それらも付け加えておきたい。だがその前に永井荷風『女優ナナ』の出版をめぐる一編を書いておかなければならない。

 これまで明治三十六年新声社から刊行された荷風の『女優ナナ』にふれてこなかったのは抄訳だったからで、大正時代における英語からの重訳であっても、全訳の試みとは異なると認識していたことによっている。また佐藤義亮『出版おもい出話』(『新潮社四十年』所収)にも、明治三十六年出版の荷風の『夢の女』は挙げられているけれど、やはり同年の『女優ナナ』への言及がなかったことも作用している。

f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 それに私としても、抄訳はともかく、『近代出版史探索Ⅵ』1178などで、大正十一年の宇高伸一訳『ナナ』が大ベストセラーとなり、新潮社が新社屋を建設し、それがナナ御殿とよばれたエピソードを記しておいたように、荷風の『女優ナナ』の出版がその伏線になったと思いこんでいた。荷風にしても続けて同1179の『獣人』の縮訳『恋と刃』をも刊行し、明治三十九年に新声社から三冊を上梓していたのである。

f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(宇高伸一訳、『世界文芸全集』)f:id:OdaMitsuo:20210906150844j:plain:h110 (『 恋と刃』)

 しかしあらためて荷風のゾラ関係を一巻にまとめた『荷風全集』(第十八巻所収、岩波書店、昭和四十七年)を繰ってみると、荷風も『近代出版史探索Ⅵ』1189のシャトー・アンド・ウインダム社のヴィゼッテリイの英訳によっていたこと、及び『女優ナナ』や『恋と刃』は佐藤義亮の新声社からの出版ではないことが浮かび上がってくる。そこで『新潮社四十年』の「新潮社刊行図書年表」を開いてみると、確かに明治三十六年のところに『夢の女』は挙がっているけれど、それに伊藤銀月『東京対大阪』、青柳有美『八円旅行』と『雑誌旅之友』が続いているだけで、そこで新声社は終わり、明治三十七年からは新潮社となっている。

f:id:OdaMitsuo:20210906175904j:plain:h125(新声社版『女優ナナ』)

 そこで佐藤の『出版おもい出話』に「新声社の幕を閉ぢる」の章があったことを思いだし、再読してみた。そこで佐藤は語っていた。明治三十六年九月、出版者としての立場に重大な転換が起きた。文芸出版者として一所懸命働いてきたが、商売人手腕が不足し、経済の運用はなっておらず、毎晩約束手形の夢にうなされるばかりだ。それが一年ばかり続き、新規巻き直しを決意するに至った。

 ちょうどその時、新声社の同人の正岡芸陽がしばらくぶりで姿を見せ、「新声社を手離す気持ちはありませんか」といった。佐藤はただちにそれに応じた。「誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ、たゞ『結構です。結構です。』と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終つた。/明治二十九年以来の、私の新声社は、かうして幕が閉されたのである。」

 この佐藤の述懐をふまえ、山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)によって、『夢の女』『女優ナナ』『恋と刃』の書誌を確認してみる。『夢の女』は明治三十六年五月刊行だから、佐藤の新声社、『女優ナナ』は同年九月、『恋と刃』は同年十一月とあるので、佐藤が新声社を手離した後の出版と見なせよう。そして『荷風書誌』は『女優ナナ』の奥付裏面に、新声社は森山守次が引き継ぐ旨の広告文があると指摘している。だがここでは『新潮社四十年』よりも直截的な『新潮社七十年』を引いてみよう。

f:id:OdaMitsuo:20181215222327j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20180806153457j:plain:h110 

 新声社を譲り受けたのは法学士森山吐虹であった。そのときまで『新声』は通巻九十一冊まで出していたが、三十六年八月号を最後として義亮の手から離れたのである。吐虹は九月号の『新声』に「・・・・・・佐藤橘香氏は都合により本社を小生に譲渡さるる事と成り、今後の新声社は全く同氏と関係を離れたるものと相成り申候て、新声社が各売捌店に有する債権其他の一部の権利及び雑誌『新声』も小生一箇の有と相成り申候」云々という社告を出している。第二期「新声」は正岡を主幹として新発足、ときどきは休刊しながら四十三年三月号までつづいた。

 この記述からうかがえるのは森山が吐虹という号を有していることからわかるように、出版と文学に野心をふくらませていた法学士だったのではという憶測である。そこにこれまた『新声』を乗っ取りたい欲望に駆られた正岡がいて、この二人がコラボして既刊在庫と著作権、各取次売掛金、『新声』の編集権をまさに「居抜き」のかたちで買収したことになろう。

 ただ『日本近代文学大事典』における『新声』の解題をたどっただけでも、十月号には同人田口掬丁、金子薫園、平福百穂の退社が告知されている。また明治三十七年の『新潮』創刊五月号社告に「芸陽正岡猶一 右者本社と一切関係無之候」とあるのを目にすると、その後に何らかの買収の不祥事や不都合が生じた結果のように思われてならない。

 それに著作権のほうだが、荷風の『夢の女』に関して、山田は「新声社が破産し、紙型が転々とした」として、実際にカラー書影を示し、明治四十年の精華堂版、同四十四年の岡本増進堂版、大正十五年の近代文芸社、橋本自由堂版を挙げている。『女優ナナ』は大正五年に『近代出版史探索Ⅵ』1163などの籾山書店が縮刷版として引き継ぎ、『恋と刃』は新声社版だけで終わったようだ。これが明治の荷風訳『女優ナナ』の出版状況ということになろう。

 f:id:OdaMitsuo:20210906144741j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210906144511j:plain:h120(籾山書店版)


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古本夜話1205 加藤敬事『思言敬事』、大久保和郎、八木さわ子

 みすず書房の元編集長加藤敬事の『思言敬事』(岩波書店)を読み、教えられることがあったので、それを書いてみたい。

思言敬事: ある人文書編集者の回想

 加藤はその「出会った人々のこと」の章において、「翻訳者素描」を試み、最初に大久保和郎にふれている。大久保の名前は『近代出版史探索Ⅵ』1190で、ドーデの『風車小屋だより』『月曜物語』(いずれも旺文社文庫)の訳者として挙げたばかりだが、まずは加藤による翻訳者としての紹介を引いてみよう。

f:id:OdaMitsuo:20210815233549j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210815234047j:plain:h120

 大久保さんは翻訳者としては(中略)、みすず書房からはツヴァイクの『運命の賭』(一九五一年)など、ドイツの小説を訳していた。それが一九六〇年代に入ると、マリアンネ・ウェーバーの『マックス・ウエーバー』(一九六三―六五)、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(一九六五年)、『全体主義の起原』(一九七二―七四年)、カール・シュミット『政治的ロマン主義』(一九七〇年)というように、十年くらいの間に次々と、みすず書房の出版の核をなす本、というより二十世紀を代表する本のいくつかを訳してみすず書房から出した。訳されてから半世紀、二十一世紀になってますます広く読まれている奇跡のような書物群である。

  イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告 全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義 政治的ロマン主義

 私はこれらのみすず書房の大久保のすべての訳書を読み、架蔵しているし、中学時代には彼のフランスミステリの翻訳にも世話になっている。それらはボワロ&ナスジャックの『思い乱れて』『技師は数字を愛しすぎた』『呪い』(いずれも創元推理文庫)である。とりわけ『技師は数字を愛しすぎた』は当時ミステリらしからぬタイトルゆえに記憶に残り、後に確かめたところ、原題は l'ingénieur aimait trop les chiffresで、邦訳は『思い乱れて』A cœur perdu )と同様に名訳だと思った。

f:id:OdaMitsuo:20210904114932j:plain:h120 技師は数字を愛しすぎた【新版】 (創元推理文庫) 呪い (創元推理文庫 M ホ 2-4)

 加藤はそのことにふれ、大久保夫人が創元推理文庫の担当編集者だったこと、夫人の東京女子大時代の同級生が『全体主義の起原』の共訳者の大島かほりであり、後のミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)の翻訳者も、その修行の第一歩は大久保のもとで始められたと記している。

モモ (岩波少年文庫(127))

 しかしそれ以上に驚きだったのは、大久保の母親が八木さわ子だったことだ。彼女は戦前からのドーデの訳者で、『私生児』(新作社、大正十三年、後に『ヂャック』として春陽堂文庫)『プチ・ショーズ』(岩波文庫、昭和八年)を刊行している。加藤は八木と大久保の母子関係の事情を説明していないけれど、大久保がドーデの二冊を旺文社文庫で翻訳したのは、母親が『月曜物語』の訳注本を白水社から出していること、及び「母親への記念のため」ではないかと推測している。それだけでなく、独協出身で慶応大学中退の大久保はほぼ独学で英仏独語を修得していたし、彼をそれらの外国語と翻訳へと誘ったのは八木自身だったのではないだろうか。八木の訳注本は『白水社80年のあゆみ』によれば、大正十五年に「仏蘭西文学訳註叢書」4として刊行されていた。

f:id:OdaMitsuo:20180527220904j:plain:h110(『白水社80年のあゆみ』)

 昭和五十年に亡くなった大久保と異なり、八木は『日本近代文学大事典』に立項が見出せるので、それを引いてみる。

 八木さわ子 やぎさわこ 明治二六・四・六~昭和二一・五・八(1893~1946)仏文学者。東京生れ。大正一〇年アテネ・フランセを卒業したのち、母校で教鞭をとる。主要訳書にあるフォンス=ドーデ『私生児』(大一三・九 新作社)『ヂャック』『プチ・シヨオズ(ちび君)』(昭八・10 岩波文庫)、アナトール=フランスの『襯衣』(昭二・七 日向新しき村出版部)『黒麺麭』、オノレ=ド=バルザックの『谷間の白百合』などがあるほか、注訳本にドーデの『月曜物語』がある。

 この立項によって、大久保は大正十二年生まれなので、二十三歳で母と死別したことになる。またこの八木のアテネ・フランセ履歴からすれば、彼女は『近代出版史探索Ⅴ』953、954などのジョゼフ・コットやきだみのる、『近代出版史探索』198の関義の近傍にいたことになるけれど、彼らの側からの証言は見ていない。それでも八木訳のバルザック『谷間の白百合』は入手している。大正九年に新潮社から出され、昭和十五年に春陽堂文庫化されているので、八木こそはこのバルザックの傑作『谷間の白百合』の本邦初の訳者で、戦前は彼女の訳で読まれ続けていたことになる。私が読んだのは戦後の新潮文庫の『谷間の百合』(小西茂也訳)によってであり、小西訳にしても、戦後を待たなければならなかったのだ。

f:id:OdaMitsuo:20210905162324j:plain:h120(小西茂也訳)

『谷間の白百合』はこれも『近代出版史探索Ⅵ』1199でふれた新潮社の「翻訳叢書」として、ユゴーの『レ・ミゼラブル』と同じく菊半截判、同じ造本である。したがって記載されていないにしても、「翻訳叢書」シリーズの一冊として出版されたと考えられる。それはともかく「序」の二ページに八木の肉声が聞こえているが、何と驚くことに、ポール・リシャールの「バルザックを解剖的に読まうと云ふのは間違つている、直覚を以て読まなければならない」との言、及びリシャール夫妻の援助によってこの翻訳は成立したと述べているのだ。それは幻視者としてバルザックを読むようにとの助言に他ならなかった。『近代出版史探索Ⅲ』563で既述しておいたように、ポール・リシャールはヘルメス文書に通じたフランス人の神智学者で、大正四年から九年にかけて日本に滞在し、秋田雨雀や大川周明たちとも親密に交際していた。その磁場の中に八木さわ子もいて、『谷間の白百合』の翻訳に従事していたのである。

 なお加藤は大久保の五十年の死に立ち会い、その早い死を惜しんでいる。その半世紀後に加藤も『思言敬事』を上梓して亡くなっていることを付記しておく。


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古本夜話1204 笠井鎮夫『近代日本霊異実録』『日本神異見聞伝』

 前回、新潮社の「海外文学新選」のポルトガル文学の編集兼訳者として、笠井鎮夫の名前を挙げておいた。だがこの笠井には外国文学者としてのプロフィルの他に、もうひとつの側面があり、それは『日本近代文学大事典』の立項にも見えている。

 笠井鎮夫 かさいしずお 明治二八・一二・二七~平成元・五・二一(1895~1989)スペイン語学者、スペイン文学者。岡山の生れ。大正八年東京外語卒業後、同校や南山大学、京都外語大などで教鞭をとり、「スペイン語四週間」(昭八)など語学関係の著書多数。文学ではブラスコ=イバーニェスやピーオバローハなど近代作家の紹介が多い。心霊研究家としても知られ、『近代日本霊異実録』(昭四一・九 昭森社)などがある。

 それほど著名でない外国文学者の立項にあって、「心霊研究家」との紹介も加えられているのは異例のように映るけれど、スペイン語、文学界でも、それはよく知られていたと推測されるし、その事実が立項にも反映されているのだろう。また昭森社からの出版も意外であった。

 『近代日本霊異実録』の昭森社版は未見だが、山雅房の『復刻版』(昭和五十九年)と『日本神異見聞伝』(同六十年)は入手している。それはラテンアメリカ文学を読み始めの頃、『日本古書通信』の広告ページにこの二書がかなり長く掲載され、スペイン文学の長老がこのような本を出していることに興味を覚えたからである。

f:id:OdaMitsuo:20210903120750j:plain:h120(昭森社)  f:id:OdaMitsuo:20210902170820j:plain:h120(山雅房)f:id:OdaMitsuo:20210902170035j:plain:h120(山雅房)

 これらの二冊を読むと、笠井が霊界へと向かった経緯と事情が伝わってくる。それは彼の出自と家庭環境、時代的影響、外国文学者の先達の存在などがクロスし、笠井にとっては必然的な回路であり、霊界探究のためにスペイン語研究どころではない時間を費やしたことも、『日本神異見聞伝』に告白されている。それらをひとつずつたどってみる。

 まず笠井の父が明治七年に十七歳で金光教に入信し、そのために笠井は金光中学へと進み、神霊の「天地金之神」とその取次者「金光大神」=教祖川手文治郎を通じて示される霊徳の世界に導かれていった。そうした幕末から明治維新にかけての神霊と霊界の出現に関して、笠井は平田篤胤の『仙境異聞』(岩波文庫)から始めて、金光大神『金光大神覚』、天理教の中山みき『みかぐらうた・おふでさき』、黒住教の黒住宗忠『生命のおしえ』(いずれも平凡社東洋文庫)、宮地水位『異境備忘録』(山雅房)などを渉猟し、大本教へと至り着く。ただこれらの民間宗教の聖典や霊界研究が身近にものになったのは、昭和五十年代以降のことであり、それゆえに笠井が依拠している文献は独自に収集されたものであろう。

仙境異聞・勝五郎再生記聞 (岩波文庫) 金光大神覚―民衆宗教の聖典・金光教 (東洋文庫 304) みかぐらうた・おふでさき (東洋文庫0300) 生命(いのち)のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教 (東洋文庫 319) f:id:OdaMitsuo:20210903135901j:plain:h125

 しかし笠井が父の金光教への入信に際して、そのかたわらには中村正直『西国立志編』(静岡藩出版、明治四年、講談社学術文庫)、福沢諭吉『学問ノススメ』(東京、同五年、岩波文庫)も備わり、前者の愛読者だったと述べていることに留意すべきだろう。民間宗教の勃興と、私がいうところの「近代の立身出世本」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)の出現はパラレルでもあったのだ。それに呼応するかのように『日本神異見聞伝』の自己紹介には、近代における「百花繚乱の壮大な霊的シンフォニイを奏でるこのときに符節を合するごとく生れ合わせた、アマチュア神霊学者をもって自任する笠井鎮夫教授」とあった。

西国立志編 (講談社学術文庫) 学問のすゝめ (岩波文庫) 文庫、新書の海を泳ぐ―ペーパーバック・クロール

 笠井は金光中学で、ニューヨーク在住の実業家岡本米蔵の「海外発展論」、台湾民政長官下村宏(海南)の「人口食糧問題」というふたつの課外講演を聞いた。これらのテーマの重要性と二人の憂国の至情あふれる熱弁に圧倒され、笠井は南米大陸開拓を夢見るようになった。そしてスペイン語を学ぶために、大正五年に東京外語に進む。だがその時代は『近代出版史探索』143の岡田式静坐法や同139の大霊道の流行ばかりでなく、大本教も隆盛していた。

 しかも笠井を大本教へと誘ったのは出口王仁三郎というよりも、浅野和三郎である。彼は拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究Ⅲ』所収)で言及しているように、東京帝大英文科でラフカディオ・ハンの弟子となり、明治三十三年に新潮社の前身の新声社から浅野憑虚名で、久保天随、戸澤姑射共著の美文集『白露集』を出し、横須賀の海軍機関学校の教師を務めていた。

f:id:OdaMitsuo:20210903105947j:plain:h120 (『白露集』)古本探究〈3〉

 そこで浅野は大本教の布教活動に励む元海軍機関中佐と出会い、大本教本部と綾部を訪れ、出口王仁三郎に会い、その鎮魂の神法を体験する。王仁三郎によれば、人間には肉体の他に霊魂があり、肉体は死とともに滅びるが、その霊魂は永久に実在し、守護神と化しているので、鎮魂と審神者(さにわ)の修行によって、その姿や声を召喚できるのだ。浅野はそれを目の当たりに体験したのである。そしてさらに浅野は『大本神論』(東洋文庫)を読みこみ、海軍機関学校を退職し、一家を挙げて綾部へと向かった。

大本神諭 天の巻 (東洋文庫 347)

 この浅野の大本教入信は笠井だけでなく、アカデミズムにとっても衝撃的事件であり、これを機として、浅野は大正六年に大本の機関雑誌『神霊界』(大日本修斎会)を創刊し、雑誌と書籍による出版プロパガンダを始めていく。笠井も『大本神論』を買い求め、金光教と共通する「艮(うしとら)の金神」と鎮魂帰神法を知り、大正八年に綾部へと駆けつけたのである。そして浅野の前での鎮魂帰神実習、二度目に得た鎮魂自修認可の証印を得て、笠井は金光教の「金乃神」のもとへと戻っていったのだ。


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