出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1330 阿部真之助『現代世相読本』

 『神近市子自伝』に戻ると、そこには思いがけない人物が出てくる。それは神近の東京日日新聞社の婦人記者としての社会的ポジションと英語ができる女性という評判が作用していたのであろう。ところがそうしたキャリアも、大正五年に大杉栄との恋愛問題で反故にされてしまった。そこで頼ったのは玄文社の結城禮一郎で、神近は彼の私設秘書のようなかたちで庇護され、それは十数年に及んだとされる。結城に関しては「結城禮一郎の『旧幕新選組の結城無二三』(『古本探究』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

 古本探究

 もう一人は阿部真之助である。彼は東京日日新聞の部長で、神近は結城と同様に、長きにわたって世話になったと述べている。私などの戦後世代にとって阿部はNHK会長のイメージが強いが、意外なことに『日本近代文学大事典』にも立項され、戦前はよく知られたジャーナリストだったとわかる。それによれば、明治十七年埼玉県熊谷生まれ、東京帝大社会学科卒で、東京日日新聞社を経て、大正三年に大阪毎日新聞に転じ、社会部長時代に吉川英治を起用し、『鳴門秘話』を連載させた。昭和四年東日部長、八年学芸部長として、社友顧問に菊池寛、久米正雄、横光利一などを迎え、長谷川時雨、野上弥生子たちの女流作家の東紅会を結成するといった東日学芸部全盛時代を築いたとされる。

 これによって、ずっと前に阿部の『現代世相読本』(東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、昭和十二年)を均一台から気まぐれに拾っていたのだが、発行所が二社となっている理由を理解した。東京の最初の日刊紙『東京日日新聞』は明治四十四年に『大阪毎日新聞』の傘下に入り、昭和十六年に『毎日新聞』に統一されることになるので、実質的に同じ新聞社だったのである。

 その『現代世相読本』は「政治論」「時事論評」「人物論」「婦人論」にわたる百二十編余の阿部の「毒舌」の集積で、おそらく昭和十年から十二年にかけて両社や様々な雑誌に掲載した「世相読本」だと思われる。

『神近市子自伝』で挙げられている「人物論・神近市子」は収録されていないけれど、「婦人論」の昭和五十一年五日付の「新聞記者の観た話題の婦人」で、村岡花子、神近市子、長谷川春子、平塚雷鳥、山川菊栄、吉岡弥生、吉屋信子、与謝野晶子、河崎なつの九人の女性を取り上げている。そしてその中でも神近市子が最も長く、親近感がこもっているし、彼女の阿部への言及も同様なので、やはり紹介しておくべきだろう。阿部は自ら「旧弊人」で、「淑女」と交際する機会はまったくなかった。それは男性に対して、「良家」は「絶対に門戸を閉鎖して居た」からで、接触するのは「余り名誉ならぬ職業の婦人方」に決まっていたとして続けている。

 自然私は、女の友達といふものを持つて居ない。たつた一人、神近市子君だけは、その除外例である。神近さんでは友人らしくない『君』と云はして貰ほう。神近君を知つたのは、私にとつては全く女性に対する新発見であり、驚異でもあつた。(中略)
 私が東京日日社へ入社して、三四年して、神近君が同じ社にやつて来た。左様二十年ももつと以前のことだつたから、私が若かつた如く、神近君も若かつた。そこでこの、若き美人と、美青年(?)との間に、恋愛関係でも持ち上りでもしたのだつたならば、それこそ天下の一大事で、一篇の映画物語位にはなつたであらうが、あの頃どうしてあんなに、淡々たる付き合いが出来たものか、今から考へても不思議でたまらない。多分、恋愛を求める対象が、正反対の方向を指して居たせいかも知れない。(中略)
 ある晩、晩飯に呼ばれて、神近君の下宿を訪ねたことがある。そこで、現在の山川均氏夫人、当時の青山菊栄さんも来合わせてゐた。牛肉を突きながら、どんな話をしたが忘れてしまつたが、何でも、何かの議論をおつ始じめて、二人の御婦人に、さんざん凹まされたやうに覚えてゐる。それは口が達者といふ計りでなかつた。頭脳の冷徹さに於て、世の中への知見の該博さに於て、なまけ坊主で酒くらひの、私なんぞは、太刀討ちのしようが無かつたのであつた。(中略)それにしても、あの人達は、私の持つ、女性の概念とは、全く別のカテゴリーに所属するのであつた。これが私の女性観を一変させた。一変しないまでも、女を見る目を、非常に遠慮深くさせたことに間違ひない。

 『青踏』に象徴される「新しい女」の出現に阿部という「毒舌」ジャーナリストがどのように対処したかが率直に語られているので、あえて長い引用を試みた。あまりにも散文的にして通俗的であるにしても、彼の「女性観」を一変させた「驚異」の事件であったことがよくわかる。しかし本探索1320の『女人芸術』創刊号の山川、神近、望月の「評論」三本立てが示しているように、「フェミニズム」の道はまだ遠かったのである。
 
  

 それに加えて、彼女たちのアイコンも問われなければならない。女性のアイコンが中條百合子たちだったように、男性アイコンは青山にとってはコミュニストの山川均、神近にとってはアナキストの大杉栄に他ならず、阿部のようなジャーナリストとの「恋愛関係」は「天下の一大事」でもなく、「一篇の映画物語」は成立するすべもなかった。神近は大杉との「恋愛関係」に向かい、それこそ「天下の一大事」的事件となり、戦後になって「一篇の映画物語」のテーマともされてしまったのである。

 阿部の死は昭和三十九年で、吉田喜重の映画『エロス+虐殺』の上映は同四十五年、『神近市子自伝』の刊行は同四十七年である。阿部が存命であったならば、映画と彼女の自伝にどのような戦後の「世相」を見たであろうか。

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古本夜話1329 中西悟堂と『野鳥』

 前々回、石川三四郎の近傍の人脈として中西悟堂の名前を挙げたが、彼は思いがけないことに『日本アナキズム運動人名事典』にも長く立項され、それは『日本近代文学大事典』も同様なので、悟堂にまつわる一編も書いておこう。

日本アナキズム運動人名事典 日本近代文学大事典

 小林照幸の「評伝・中西悟堂」とある『野の鳥は野に』(新潮選書、平成十九年)はタイトルが示しているように、昭和に入ってからの「日本野鳥の会」創立者としての悟堂に焦点が当てられている。そのためにアナキスト系文学者としての悟堂についてはほとんどふれられていない。それでも晩年になってからだが、その創刊にも関わった悟堂の『愛鳥自伝』(平凡社ライブラリー上下、平成四年)が残されているので、その前半生をラフスケッチしてみたい。

野の鳥は野に―評伝・中西悟堂 (新潮選書)  愛鳥自伝〈上〉 (平凡社ライブラリー) 愛鳥自伝〈下〉 (平凡社ライブラリー)

 悟堂は明治二十八年に金沢市に生まれ、十六歳で調布市深大寺において得度し、大正二年に東京駒込の天台宗学林に学び、愛媛県新居浜の瑞応寺で禅生活を送る。それとパラレルに『近代出版史探索Ⅵ』1023の内藤鋠策の歌誌『抒情詩』に同人として加わり、大正五年には歌集『唱名』(抒情詩社)を上梓し、同七年にはこれも拙稿「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)の東雲堂に入り、『短歌雑誌』の編集に携わる。また同十年にはやはり『同Ⅵ』1052の詩話会同人として『日本詩人』などに詩を発表し、翌年には処女詩集『東京市』(抒情詩社)を刊行史、アナキズムや社会主義運動へと接していく。大正時代に彼は僧侶、歌人にして詩人、それに編集者でもあったのだ。

 このような悟堂の前史というものに注視してこなかったので、石川三四郎との接点もいまひとつ不明のままだったことになる。そして大正十五年に悟堂は三十歳を迎え、僧職を離れ、野鳥と暮らすかのように木食生活に入る。それが「日本野鳥の会」創立の端緒であり、先述の小林の紹介のほうが悟堂の『愛鳥自伝』の記述よりも簡にして要を得ているので、そちらを引いたほうがいいだろう。

 そして、東京府北多摩郡千歳村(現在の世田谷区烏山付近)の山谷の一軒家を、五年分(『愛鳥自伝』では二年分―引用者注)の家賃を前払いして借りた。それから約三年半、米食と火食を断った木食採食生活に入ったのである。主食は水でこねた蕎麦粉だった。茶碗も箸も用いない。木の葉や野草は塩で揉んで食した。
 風呂の代わりに川に入り、雑木林の中に敷いたゴザの上を書斎として、多くの書に触れた。ソローの『森の生活』を耽読し、さらにホイットマン、タゴールの詩に傾倒した。仏教のふるさとであるインドの古代から現代に及ぶ思想史の造詣を養ったのもこの時期である。木食生活は自然との一体感を養い、鳥、昆虫、魚、蛇などをじっくり観察する時間でもあった。

 こうした生活に加えて、『愛鳥自伝』における悟堂の証言によれば、千歳村の周辺には半農生活を営む石川三四郎の他に、田園生活を唱える尾崎喜八、百姓生活の実践者江渡狄嶺、『近代出版史探索』184の農民文芸会とその機関誌『農民』によっていた加藤武雄、鑓田研一、それに『同Ⅴ』807の徳富蘆花もいて、木食生活はともかく、石川のいう「土民生活」の実践がトレンドであったともいえよう。実際に悟堂は石川とも親交し、それゆえに『ディナミック』の寄稿者にもなったのだろう。

 しかし悟堂の本来の野鳥家としてのターニングポイントは木食生活を切り上げ、井荻町善福寺へと移り住んでからで、鳥の放し飼いを始め、「鳥は野にあるべき。野の鳥は野に、鳥とは野鳥であるべし」との心境に達した。そして鳥のすみかは日本中の山林、原野、水辺で、野鳥を守ることは日本の山河を守ることになるのだと。野鳥というタームが悟堂によって唱えられ、それに賛同したのは英文学者の竹友藻風で、柳田国男も竹友に続き、昭和九年に「日本野鳥の会」が発足し、悟堂方の同会を編集所として、梓書房から『野鳥』が創刊される。そのきっかけは梓書房から竹友が『文学遍路』、柳田が『秋風帖』を刊行していたことによっている。

  秋風帖 (1932年) (『秋風帖』)

 梓書房は拙稿「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)の別会社で、私もすでに「柳田国男『秋風帖』と梓書房」(『古本屋散策』所収)を書いている。岡書院の岡茂雄は『[新編]炉辺山話』(平凡社ライブラリー)において、梓書房とその仕事をまかせた「S」=坂口保治に言及しているけれど、そこでは『野鳥』に関して何も語っていない。悟堂のほうも『愛鳥自伝』で坂口にふれているが、岡と同様に気の毒なほどの扱いで、引用をはばかるほどだ。

新編 炉辺山話 (平凡社ライブラリー)  書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 手元に出版科学総合研究所によって復刻された『野鳥』創刊号がある。A5判本文七八ページは四ページの写真も付され、探鳥というテーマゆえに、写真ページも不可欠だとわかる。それに悟堂を司会者とする竹友、柳田など十二人の「野鳥の会座談会」は『野鳥』創刊に至る経緯と事情が語られ、彼らが悟堂を中心として熱心に盛り立て、創刊となったことが伝わってくる。発行人は岡茂雄となっているが、実質的な編集実務は坂口が担ったと考えてよかろう。しかしよくある編集者の常として、その後の坂口の消息は不明のままだ。

 私は平野伸明『野鳥記』(福音館書店、平成九年)をよく見ているが、この大型の写真集も起源をたどれば、『野鳥』ということになるのだろう。昭和十年に悟堂は『野鳥と共に』(巣林書房)という一冊を出し、よく売れたようで、野鳥のタームも定着したとされるが、古本屋でも出会っていない。

野鳥記 (写真記シリーズ)


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古本夜話1328 上野英信編『鉱夫』と新人物往来社『近代民衆の記録』

 前回の最後のところで、本探索で続けて言及してきた田口運蔵、片山潜、近藤栄蔵、永岡鶴蔵たちと加藤勘十が社会主義運動史において、炭鉱と鉱(坑)夫というラインでつながり、そこにゾラの『ジェルミナール』の翻訳も必然的にリンクしていたことにふれておいた。

ジェルミナール

 それらに関連して、戦後の出版ではあるけれど、ここで上野英信編『鉱夫』のことも書いておきたい。この一冊は資料集として後述する宮嶋資夫『坑夫』のテーマとも密接な関係にあるし、まさに日本近代の社会主義運動史のひとつの水脈ならぬ「鉱脈」を形成しているからだ。これは余談だが、西部劇のひとつのテーマが金鉱探しであることは、同じく近代の表象ともなっていよう。

 (『坑夫』)

 実は『近代出版史探索Ⅵ』1180などのゾラの『ジェルミナール』の新訳を試みるにあたって、炭坑や鉱(坑)夫について無知だったことから、上野英信の『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑いばなし』(いずれも岩波新書)から始め、翻訳に際しては常に『鉱夫』(昭和四十六年)と山本作兵衛画文『筑豊炭坑絵巻』(葦書房、同四十八年)を座右に置き、その記録と描かれた絵を参照しながら進めたのである。しかもこの二冊の刊行はほぼ同時期で、後者の出版も上野の支援によることを教えられた。
 
追われゆく坑夫たち (岩波新書) 地の底の笑い話 (岩波新書) 近代民衆の記録〈2〉鉱夫 (1971年)  

 前者は昭和四十六年に新人物往来社から刊行され始めた『近代民衆の記録』の一冊である。その刊行に際し、宮本常一は「近代民衆と記録」という一文を寄せている。

 明治になって民衆も文字を学ぶことを義務づけられたのだが大正時代までは貧しくて学校へ行けない者がまだ多かった。その人たちが文字を学ぶために苦労した話はいまでも方々で聞くことができる。その文字で書かれたものが丹念にさがせばまだいくらでも残っているであろう。明治、大正時代の人びとはどのように生きたかということを学者やジャーナリストたちの筆によって語らせるのではなく、これらの民衆の資料に語らせることによって、そこに本当の民衆の姿がうかび上がって来るのではないかと思う。

 これは宮本が『近代民衆の記録』の発刊にあたって寄せた内容見本用の推薦文と見なせようが、帯裏に記されたもので、散逸してしまうかもしれず、あえてここに引いてみた。続けてその編者とリストも挙げておく。

1  松永伍一編 『農民』
2  上野英信編 『鉱夫』
3  谷川健一編 『娼婦』
4  林英夫編  『流民』
5  谷川健一編 『アイヌ』
6  山田昭次編 『満州移民』
7  岡本達明編 『漁民』
8  大濱徹也編 『兵士』
9  古田秀秋編 『部落民』
10 小沢有作編 『在日朝鮮人』

  近代民衆の記録〈7〉漁民 (1978年)

 このシリーズは3の『娼婦』と5の編著が谷川健一であることを考えれば、彼によって企画され、新人物往来社に持ちこまれ、同社から刊行されたことになる。谷川は平凡社時代に『日本残酷物語』全五巻(のちに現代編二巻を追加)を編集し、宮本もその監修者の一人であった。『平凡社六十年史』『日本残酷物語』の昭和三十四年の新聞広告が掲載されているが、そのキャッチコピーには「流砂のごとくこの国の最底辺に埋もれた人々の物語」とあった。

  

 このような『日本残酷物語』のコピーと『近代民衆の記録』が通底していることはいうまでもないし、前者の個別的物語がそれぞれの記録の集積として意図されたのであろう。しかし新人物往来社の前身の人物往来社は昭和二十六年に八谷政行によって歴史出版社として創業されているが、『近代出版史探索Ⅵ』1092で既述しておいたように、同四十三年頃に危機に陥り、会社更生法を申請したはずだ。それに伴い、先の拙稿で挙げた「幕末維新史料叢書」などの刊行は中絶してしまったし、まだ編集の段階にあり、刊行に至っていなかった『近代民衆の記録』にしても、出版中止の危機に追いやられたと思われる。

 だが昭和四十年代半ばにあって、このような史資料出版は本探索1278のみすず書房『現代史資料』ではないけれど、現在と異なり、書店外商などを通じて図書館、学校といった確実な職域需要があったはずで、人物往来社から新人物往来社へと引き継がれたことになる。それは当初の第一期五冊が第二期五冊の刊行となったことによって明らかだし、また管財人を引受け、『鉱夫』の発行者となった菅貞人の理解によっているのだろう。

 『鉱夫』の内容への言及が後回しになってしまったし、その詳細は挙げられないが、A5判上製、二段組六百余ページにはここでしか読むことのできない炭坑、鉱(坑)夫をめぐる記録がぎっしりと詰め込まれ、夏目漱石の『坑夫』(『朝日新聞』明治四十一年連載、新潮文庫)にしても、このような炭鉱からもたらされたのだと実感したことを思い出す。もちろんそれらの資料参照がどれほど翻訳に反映されているかは判断できないが、『ジェルミナール』の新訳がそのようにして進められたことだけは付記しておきたい。

坑夫 (新潮文庫)


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出版状況クロニクル174(2022年10月1日~10月31日)

22年9月の書籍雑誌推定販売金額は1051億円で、前年比4.6%減。
書籍は635億円で、同3.7%減。
雑誌は416億円で、同6.0%減。
雑誌の内訳は月刊誌が353億円で、同5.2%減、週刊誌は62億円で、同10.5%減。
返品率は書籍が30.9%、雑誌は39.4%で、月刊誌は38.4%、週刊誌は44.7%。
書店店頭売上は大型台風の相次ぐ上陸もあり、書籍9%、ムック10%、コミックス22%といずれもマイナスとなっているが、取次POS調査によれば、総合的にも二ケタ減である。
書店状況は「液状化」しているとしかいいようがない。

*なお今回は変則的に13~15の項目は『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』に批判を寄せた根本彰のブログに対する反論を掲載した。
 最後までお楽しみあれ。
  


1.出版科学研究所による22年1月から9月までの出版物推定販売金額を示す。

 

■2022年上半期 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2022年
1〜9月計
855,935▲6.8498,183▲4.3357,752▲10.0
1月85,315▲4.851,0020.934,313▲12.3
2月107,990▲10.367,725▲5.740,265▲17.0
3月143,878▲6.094,434▲2.749,444▲11.7
4月99,285▲7.554,709▲5.944,577▲9.5
5月73,400▲5.340,700▲3.132,700▲7.9
6月86,182▲10.844,071▲10.242,111▲11.4
7月74,567▲9.139,717▲6.934,851▲11.5
8月80,189▲1.142,322▲2.337,8670.2
9月105,129▲4.663,504▲3.741,625▲6.0

 前年の9月までは9179億円、前年比0.5%増で、最終的に1兆2079億円、同1.3%減であった。だが22年は8559億円、同6.8%減という事実からすれば、1兆2000億円を大幅に割りこみ、1兆1000億円前半の数字に近づいていくことが確実だ。
 ピーク時の1996年は2兆6564億円であり、定価値上げなどを考えると、3分の1近くの販売金額となってしまう。とりわけ雑誌のほうは1兆5644億円に達していたから、22年は5000億円を下回るはずで、こちらは3分の1以下になってしまうであろう。
 取次も流通業に位置づけられるし、これまでの総合取次の大洋社、栗田、大阪屋の退場はその赤字に耐えられなくなってのものに他ならない。
 流通業者の場合、赤字になるとそれは一挙に加速していくとされる。
 それにいつまで耐えられるかという正念場に差しかかっていよう。



2.丸善ジュンク堂が直営店23店を始めとする32店舗をトーハンへ帳合変更。
 返品はなされず、伝票切り替えによる。

 トーハンの「マーケットイン型販売契約」と桶川書籍流通センターによる年間364日の出荷体制、出版社倉庫とのEDI連携などによる書店の収益構造、及び出版流通改革のためとされる。
 それらはともかく、本来の目的はDNPの意向を受けての、丸善ジュンク堂、トーハン、メディアドゥとのコラボレーションのためだとも伝えられている。



3.『新文化』(10/20)が福井・敦賀市の公設書店「ちえなみき」のオープンをレポートしている。
 これは2023年度末予定の北陸新幹線の敦賀駅開業に向けた駅前開発事業の官民連携によるプロジェクトで、指定管理業者としての運営は丸善雄松堂と編集工学研究所の共同体が担う。
 売場は230坪で、古書も含め、在庫は3万冊、取次はトーハン。初期在庫費用は市が負担し、開店以後は丸善雄松堂が担い、棚の構成、選書は編集工学研究所による。

 この公設書店「ちえなみき」は同じく丸善と松岡正剛の編集工学研究所が仕掛け、失敗に終わった「松丸本舗」を想起してしまう。
 この人口6万人の敦賀市は駅の近くに平和書店、商店街には老舗の千代田書店、郊外には勝木書店などがあるが、それらへの影響は必然的で、ここでも公が民を駆逐していくことを危惧する。



4.文教堂GHDの売上高は164億8400万円、営業利益5200万円、前年比85.7%減。
 前期売上高は187億8200万円、経常利益は7500万円だった。来期売上高予想は155億7000万円。

5.精文館書店の売上高は193億100万円、営業利益5200万円、前年比12.6%減。
 営業利益は1億6600万円、同75.1%減、当期純利益は8100万円、同80.2%減。

6.三洋堂HDは愛知県江南市に中古ホビー「駿河屋」を初めて導入。
 145坪のレンタルに代わる業態。

7.CCCと三井住友フィナンシャルグループは両者の「Tポイント」と「Vポイント」を統合し、国内最大規模のポイントとなると発表。

 前回の本クロニクルのリードのところで、「八重洲ブックセンター本店の閉店が発表されたのは象徴的で、これからの取次グループ書店の行方に注視しなければならない」と書いておいた。
 4の文教堂と5の精文館は日販グループ、6の三洋堂はトーハンである。これも今回のリードに示しておいたように現在の書店売上状況からすれば、3社とも来期は赤字となることが必至だと見なせよう。
 前回もトーハンの近藤敏貴社長の24年グループ書店赤字説を引いておいたけれど、取次のグループ書店は23年にどちらも赤字に追いやられる可能性が高い。
 6の日販と「駿河屋」の関係については本クロニクル168で取り上げているので、そちらを参照されたい。
 7は日販と精文館にもリンクしていくわけだが、本当に実現するのだろうか。
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8.学研HDは学研プラス、学研教育みらい、学研メディカル秀潤社、学研サービスを、学研みらいを存続会社として4社を合併し、Gakkenに商標変更し、学研エデュケーショナルの一部門も移管する。

 私たちが知っている文芸書出版社としての学研は完全に終わってしまった。
 かつては『国木田独歩全集』を刊行していたし、意外に思われるかもしれないが、『世界文学全集』や『日本文学全集』も試みられていたのである。
 それらの版権などはどのように処理されているのだろうか。



9.岩波書店の『世界』前編集長が退任。

 これは前回の本クロニクルでふれた『世界』編集部内の内紛だが、11月号の編集後記にあるように、前編集長が退任することになった。
 だがそれに伴い、6、7本の連載も終わりとなってしまったようだ。雑誌の時代の終りを告げる出来事にようにも思われる。
世界 2022年11月号



10.作品社の和田肇前社長が亡くなった。享年81歳。

 和田は河出書房新社出身で、営業に長く携わり、「出版は1にカネ、2にカネ、3、4がなくて5にカネ」という身につまされる名セリフをもらしていた。
 「出版人に聞く」シリーズに登場してもらいたかったが、現役の社長でもあったことから、残念ながらそれはかなわなかった。退職後にオファーすればよかったと悔やまれる。
 和田のことは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』でも言及し、彼がTRCとコラボし、カネになる名企画「日本の名随筆」シリーズを企画し、作品社のドル箱とならしめたのである。
 ご冥福を祈る。
日本の名随筆 (1) 花



11.栗田英彦編『「日本心霊学会」研究』(人文書院)が届いた。

「日本心霊学会」研究: 霊術団体から学術出版への道

 これは著者の一人の「神保町のオタ」から恵送されたもので、サブタイトルに「霊術団体から学術出版への道」とあるように、人文書院の立ち上がりとその出版物をたどった一冊である。
 人文書院の前身が日本心霊学会であることはほとんど知られていないと思うし、近代出版史における必携書に位置づけられよう。



12.日本古書通信社の折付桂子による『増補新版東北の古本屋』(文学通信)が出された。

増補新版 東北の古本屋  

 これは19年の自費出版『東北の古本屋』の増補版で、すばらしくヴァージョンアップされている。見やすい地図、フルカラーの大きな写真、詳細な索引も付され、東北古本屋案内であると同時に、古本屋から見た東日本大震災の記録となっている。
 それに『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の重要な証言者である故佐藤周一の古書ふみくらも健在だと知らされ、安堵した次第だ。



13.『朝日新聞』(10/16)に『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の、「学者芸人」サンキュータツオによる書評が掲載された。

book.asahi.com

 この書評をきっかけにして、根本彰のブログにその書評と同書への批判が出され、「自らの誤ったイメージを垂れ流すこの本を、朝日の書評に出たからという理由で選書する図書館が多数あるとしたら、恐ろしい」と書いている。また本人が「この本について図書館関係者はもっと批判していくべきだ」と発信し、フォロワーが「拡散希望」と記したことで、国会図書館大場利康(tsysoba)、京都橘大学嶋田学らを始めとする図書館関係者のSNS、及び本クロニクルにもヘイトを加えてきた「Bookness2」、「dellganov」らのリツィートが大量にばらまかれている。それらの多くは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を読むこともなく、自分で考えることもせず、根本の批判に便乗しているだけである。

oda-senin.blogspot.com

 それゆえに、共著者の中村文孝の了承を受け、文責は小田として、ここで反論しておく。その前に根本彰にふれておけば、東大名誉教授、慶応大学教授で、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』で言及している図書館の「神様」の一人で、私と面識もないようによそおっているが、2002年に私と「対談」した際に、「僕の下らない本を読んで頂き有難うございます」と述べた人物である。(p214)もちろん本で名前は出していない。この「対談」は私の『図書館逍遥』(編書房、2001年)が刊行された翌年のことであり、『図書館の学校』No33に掲載されている。

図書館逍遥

 その「神様」のご託宣を傾聴してみよう。それは「彼等が図書館については単なる外部からの観察者であり、にわか勉強で補ったものをもとにした歪みがそこここに見られる」と始まっている。そして「最大の疑問は対談という形式である」として、「対談」は「その道の専門家や大家とされる人たちがやりとりするもの」だが、「この本で図書館について述べるとき両著者は専門家でも研究者でもない」と定義づけている。そのために『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』が「対談」にふさわしい「専門家」「大家」によるものでなく、中村と小田も図書館に関する「専門家」「研究者」でもないとのご託宣が下される。これでは最初から「神様」でない部外者は図書館を論じてはならないといっているようなもので、我々がずっと批判している図書館の「密教集団」性と「排他的なセクショナリズム」を露呈させている。

 まず「対談」という形式だが、21年11月に行なわれた2人の「対談」をベースにして、22年6月に至るまでの、双方の語り下ろしに近い加筆修正、それに資料を加えたものである。根本が印象づけようとしている素人の「内輪の勉強会の議事録」などではないし、我々にとっての「対談」は「にわか勉強」を補う手段でもない。中村との「対談」は3冊目であり、私は「出版人に聞く」シリーズで22冊「対談」を手がけ、その意図もはっきり述べている。(p80)それに我々が図書館の「専門家」「研究者」でないことは承知の上で、出版社・取次・書店という近代出版流通システムに最も通じた「専門家」として、「出版流通インフラとしての図書館の問題」に言及しているのだ。(p286)

 それが出版業界に関する知識不足のためにまったく読み取れず、「この本」も「著者の矜持や編集倫理のようなものが失われ、内容は何であれ売れればよいとするもの」の「列に連なる」とされる。タイトルにしても、それに由来するゴダールなどの「諧謔の妙のようなものが欠けているが故に不快な後味しか残さない」ということになる。

 ようするに根本は『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の著者たち、出版者と編集、対談とその内容、書評、タイトルも含めて、すべてが気に入らない思いを滲ませ、不快だと告白しているのだ。これは「基本的な疑問点」の指摘、「批評」するといっておきながら、ヘイト告白でしかないことを浮かび上がらせている。

 それに続いて「散見される誤り」が列挙されているのだが、その引用と批判も恣意的で思いこみと誤読に基づいている。最初の16ページのところの引用にしても占領下の問題はすべてが解明されたとは言い難く、通史としては許容の範囲ではないか。そうではなく、本当に「戦後史のいろは」として実証できるのであれば、「一次資料」を示した上でなされるべきだろう。肝心なのはその後に続く「そして50年に全国学校図書館協議会が創立され、53年に学校図書館法が成立し、すべての学校に図書室が設置されてゆく」という一文なのである。

 139ページの長尾真に関しても、我々はわざわざカギカッコを付し、「専門職の資格を持つライブラリアン」と見なせる人物として挙げているのである。それはその前に「国会図書館の蔵書デジタル化とインターネット配信を推進した」との断わりを付した上での彼の位置づけであり、ここでも部外者としての長尾に対する図書館界の偏見がうかがえる。

 141ページの「JLAが官のイメージであるのに対し、図問研は民間という気がする」の件は、現実的な組織構図をいっているのではなく、ヒアリングした元図書館員が図問研に属し、現場の図書館員だったことに対し、JLA(日本図書館協会)は官ではないかという「イメージ」を示しているのである。それは私の図書館大会の見聞に基づいているし、その前後の140ページから143ページを読んでもらえれば、わかるだろう。

 199ページの「小中高や大学図書館の選書が既刊書がほとんどというのはどういうデータに基づくのだろうか」という指摘は、根本が『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を拾い読みしかしていない事実を明らかにしていよう。それはTRC(図書館流通センター)の尾下千秋の著書の「図書館別 対象資料・購入担当者・購入方法」のデータで、196ページにそのまま表を一ページ転載し、その際に「既刊書」をゴチック表記にしている。それすらも見ていないし、読んでもいないのだ。

 さらに220ページの小学校の元校長たちが「図書館情報大学などの司書補の講習を受けている」に対して、根本は「時代認識が20世紀末で止まっている」と指摘しているが、これは前ページで「90年代」の話と断わって語っている事実を捨象している。

 それからこれは最後のところだが、22ページで「石井桃子『子ども図書館』が岩波書店や福音館の児童書・絵本を重視し、コミックや永岡書店の児童書はだめとすることを批判する」と書かれていると指摘する。だがこれも根本による手前勝手な要約である。私は「石井桃子たちとの理念とは逆で」「JLAの影響力のほうが問題だ」(210ページ)と補足説明しているし、それは「子ども図書館を起源とする図書館の児童書とその関係者である読み聞かせボランティアなどに関しての神話化と特権化」によって生じたものだという認識を示しているのであり、誤読している。

 そして「全体的な構図に対する批判」に至る。そこで『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の眼目である書籍販売冊数と貸出冊数の逆転にようやくふれている。それに関して「実はこの論議は図書館界と出版業界の間で昔からある」として、書協とJLAによる『公立図書館貸出実態調査2003報告書』が示されている。しかしそれは20年前のものであり、現在の状況に対応していない。

 私が268ページから271ページにおいて、コメントしているように、それは年度版『出版指標年報』(出版科学研究所)と『日本の図書館 統計と名簿』をずっとトレースしていて、『出版状況クロニクルⅣ』の2013年のところで初めて指摘したものだ。271ページに1999年から2019年にかけての「書店数、図書館数、個人貸出総数と書籍販売部数」の推移を一ページ図表で示しておいたとおりである。

出版指標年報 (2022年版)(『出版指標年表』) 日本の図書館 2021: 統計と名簿 ( 『日本の図書館 統計と名簿』) 出版状況クロニクル〈4〉2012.1~2015.12

 ところが根本はそのページを示しながらも、その一ページ図表に言及しない。それを指摘したサンキュータツオの「書評」は「新聞記事の要約」「元の本の著者らの発言」として片づけ、次のように書いている

こうした言説はよく耳にする。インパクトがあるけれどもこうした耳になじみやすい主張は疑ってみた方がよい。そもそも書籍販売数と図書館の個人貸出数を比較することに意味があるのか。これだと、書籍販売数の減少は図書館の個人貸出が増えたから生じたと言っているように聞こえるが、その因果関係は十分に実証されていない。統計学で相関関係が因果関係を説明するわけでないと言われるが、これも現象面で対応しているように見えることも内実は証明されていないのだ。出たばかりの本を図書館が大量の複本を置いて貸し出ししていれば話しは別だが、今は複本の上限を限定していることが多いし、資料購入費自体が減っているから、図書館が貸し出している資料の多くは旧刊本に属する。

 前述したように、「こうした言説はよく耳にする」ものではなく、私だけが注視し、ブログや『出版状況クロニクル』で発信してきたのである。しかも271ページの図表は「書籍販売冊数」と「個人貸出総数」だけでなく、書店数とその減少、図書館の増加の推移も示され、それらの「因果関係」は明らかなのではないか。それに「図書館が貸し出している資料の多くは旧刊本に属する」といっているが、それは書籍販売数も同様であることを無視しているというか、まったく知らないのだ。

 その挙句に我々が「左翼思想」と「自らの『教養』についての捻れたルサンチマン」の持ち主で、図書館批判は「書店、取次、出版社、(ここでの言及はほとんどないが)、著者の経済的行為に影響している」と書きつけるのである。これらの根本の「批判」を要約すれば、我々は図書館の部外者でしかない一介の出版社や書店の人間で、自分たちのような大学教授の肩書ある「研究者」「専門家」ではないのだから、図書館に言及することは認めないといっているに等しい。
 それだけでなく、「著者の経済的行為」とは図書館で我々の本も認められないし、売れないということを言外に意味しているのだろう。「自らの『教養』についての捻じれたルサンチマン」というのは、根本が自分を丸山真男に擬していないのであれば、我々のコミックへの言及をさしていると思われる。

 根本のいうように、それだけは当たっているが、我々は確かに出版社、取次、書店の側に立ち、図書館を批判している。そして図書館のイメージを確立せずに増殖し、それがもたらした書店減少、及び地方自治体において図書館だけが残り、書店がなくなってしまった現実との相関関係を問題にもしている。それこそ根本の主張は我々のような「研究者」「専門家」でない、そのような本質的な批判は認めたくないということに尽きるであろう。

 その問題を直視することなく、根本はこのような恣意的な読み方による『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』に関する批判を重ねた上で、「ルサンチマンを隠しながら図書館をこんな形で批判するのは情けない態度に映る」と結んでいる。この言葉は「神様」が茶化された「ルサンチマンを隠しながら『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』をこんな形で批判するのは情けない態度に映る」と変え、そのまま根本にお返ししよう。


14.ブログ「古本虫がさまよう」が「僕が図書館について知っている二、三の呆れた事柄」を発信している。

kesutora.blog103.fc2.com

 それによれば、千代田区立図書館は『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を貸出禁止、禁帯出にしているようだ。私のところの市立図書館も選書し、入荷したものの、郷土資料に分類し、一般の目にふれないような処理をしている。
 おそらく多くの図書館で、そのような処置がとられるか、もしくは選書不可となっているのではないだろうか。

 13で見たように、図書館関係者たちがこぞって批判し、「根本先生」の尻馬に乗って、「朝日の書評に出たからという理由で選書する図書館が多数あるとしたら恐ろしい」を拡散しようとしている。これは実質的に「検閲」に他ならないし、図書館に入れるなといっているに等しい。現代の「焚書坑儒」ではないか。
 これは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』でふれた1950年代から60年代にかけての「悪書追放運動」を想起させる。(p97~105)
 それは明らかに「付録」として巻末に収録した「図書館の自由に関する宣言」に抵触しているけれど、「捻くれたルサンチマン」を有するとされた我々にとっては当然のことで、図書館が貸出したくない本の筆頭に位置づけられたのは「名誉」と見なすべきかもしれない]



15.一読者から根本の批判ブログを読んで、次のような一文が送られてきた。
 了承を得て、そのまま転載する。

~~~~~
ここで取り上げられている細部の事実誤認については、門外漢としては、よくわからない。しかし、ブログの著者根本は、大筋では、批判しているというよりも、賛成しているようにも聞こえる。

貸出とは無料で財を使用する仕組みのことである。市場経済中心の社会で無料で財が提供されることの意味を突き詰める必要があったのにそれがなされなかった。だから、今の図書館は一つの像を結ばない。一方では有名な建築家が設計した建物で専門的な司書によるサービスを受けられる図書館が話題になるが、他方、貸出サービス中心でそれを非正規職員が担当する図書館も少なくない。(ただし、ここでは職員の身分や待遇の問題と資格の有無とを混同しないことだ。資格をもたず事務作業のみを担当する職員がいてもいいことは否定しない。)それは1970年代以降のJLAの図書館政策がもたらしたものであることは否定できないだろう。

つまるところ、根本と、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』のあいだの意見の相違は、「図書館が自らの存在意義を再定義し損ねた部分」をどのように評価するのかという点に集約されるはずである。『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』はその点においてきわめて批判的だが、根本は、わるく言えば現状追認的、よく言えばプラグマティックな図書館観を取る。

おしゃれで新刊雑誌や書籍をお茶を飲みながら読める図書館が増殖するという「本の生態系の変容」」が現れたなら、それは別に否定すべきことでも何でもない。つまり、本の生態系の変容はすでに多様な図書館を生み出した。そして他方では紙の本の読み手がどんどん高齢化してくなかで、図書館と出版界はその存在を互いに認めつつ役割分担を図りながら「本の生態系」の維持なり保護なりを図る視点でまとまりつつある。著者らの議論はこれまで図書館と出版の関係者が積み上げてきた議論を20年前のものに戻すものである。

「今の図書館は一つの像を結ばない」ことを、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』は理念的、構造的な問題として捉えるが、根本はそこに実際的な問題があることを認めつつも、現状を現状として、抗うことなく受け入れる。

とはいえ、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』が試みるのは、現状を批判するために、何かしらの図書館の理念を提示してみせることではないだろう。むしろ、そのような理念型としての「図書館」の定義を曖昧にしたまま、オポチュニズム的に図書館を運営してきたという歴史的構造の問題——図書館の歴史的使命の問題、と言ってみてもいい——を指摘することが、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の試みだろう。そのような理念と構造を問題として捉えない人間にしてみれば、中村と小田が指摘した現状にたいして、根本が「なぜ戦慄するのかよくわからなかった」という感想を口にするのはむしろ当然である。

『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』に「ルサンチマン」があるのかどうか。小田光雄の『書店の近代』にたいして、郊外型書店にたいするルサンチマンと町の書店にたいする憧憬があると論じるなら、まだわからなくもない。小田と中村に現在の大型書店にたいするルサンチマンがないのかということになれば、「あるのではないか?」と疑ってみないほうが穿った見方になるだろう。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

とはいえ、根本が差し向ける、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』のふたりは捻れた教養主義者であり、図書館の現状が見えていないという批判は妥当だろうか。

そういう彼らは、石井桃子『子どもの図書館』が岩波書店や福音館の児童書・絵本を重視し、コミックや永岡書店の児童書はだめとすることを批判する(22ページ)

この引用をどう読むと、中村と小田の捻れたルサンチマンの現れと解釈できるのかはよくわからないが、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』がこの箇所でクローズアップしようとしているのは、石井のコミックにたいする敵意そのものというよりも、石井のそのような態度が図書館の選書方針に引き継がれたのではないか、その結果として、良書主義にもとづく図書館の神格化が起こったのではないか、という点である。彼らが批判しているのは、図書館の良書主義によって教養を押し付けるという行為でこそあれ、そのように押し付けられることで身につけた教養そのものではないように思う。「石井らの家庭文庫運動から公共図書館運動に引き継がれた」ものとしての「子ども時代の読書体験の重要性」に批判的でこそあれ、子ども時代の読書体験の重要性自体を批判しているのではないように思う。このような教養主義を捻じれたルサンチマンと解釈するには、彼らが図書館にたいして狂おしいほどの愛を抱いていた(にもかかわらず、図書館に拒否され、裏切られた)と仮定してみなければならない。

だが、その仮定は当てはまらないように思う。中村と小田の図書館への思いは、せいぜい失望や幻滅にとどまるように思われる。根本がいうように、中村と小田は、結局は、「出版関係者」であって、図書館界隈の人間ではない。ふたりに図書館にたいする個人的な思い入れは大いにあるだろう。しかし、そのような思い入れは、あくまで個人的なものにとどまるし、たとえ個人的なもの以上であるとしても、それは出版人としてのものであろう。

彼らが図書館にたいして何かしらのルサンチマンを持ちえるとしたら、それは個々の図書館にたいするものでもなければ、図書館そのものにたいしてでもなく、今あるような図書館モデルを作り上げてしまった近代出版システムにたいしてであろうし、おそらくそれは、ルサンチマンというよりも、出版人としてそのようなプロセスの共犯者であったかもしれないという後悔や自責の念というべき感情ではないか。だからこそ彼らは、「出版関係者」として、近代日本における出版から流通のなかのひとつの結節点としての図書館にたいして、「本の生態系」という観点から、構造的な批判を加えることを、自らの仕事として引き受けたのではないか。

根本が捉えそこねているのは、まさにその点である。『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の批判対象が、個別の図書館でも、個別の図書館政策でもないという点、単に経済的なものでも、単に行政的なものでも、単に社会的なものでもないという点である。

『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』が取り上げる対象が場当たりだという批判は、事実レベルでは正しく(それはそのとおりである)、分析レベルでは的外れである(小田と中村は、本の生態系としての図書館の問題を、見取り図のかたちで浮上させるために、あえてそのような分析方法を選んだのではないか)。

本書は全体として「図書館」を批判しているのだが、その図書館の実体を曖昧にしたままに議論しているように見える。ときには日図協の図書館政策だったり、図書館を設置している自治体(ないし教育委員会)の政策だったり、個別の図書館の運営方針だったりする。さらには図書館を支援するビジネス企業も批判の対象になっている。また、全体的には1970年代の「郊外の誕生」以降の大衆消費社会を問題にしているようにも見える。だが、彼らが出版流通関係者の立場をとるときに図書館との対比が明確になるので、批判の中心は図書館が購入する資料の質と量、およびそれが利用者に無料で貸し出されていること、そしてその結果書店、取次、出版社、(ここでの言及はほとんどないが)著者の経済行為に影響していることにあるようだ。

だから、以上の一節は、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』が問題にしているのが、個々の具体的な問題ではなく、それらの個別事例を成立せしめた歴史的構造の問題、行政的なものと社会的なものと経済的なもののせめぎ合いの問題であることを、根本がとらえきれていないことを露呈しているのではないか。少なくとも、彼らの批判を「著書の経済行為」に還元するのは、あまりにも穿った見方ではないか。

『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』にたいする図書館関係者からの反論は、現在における図書館の「理想」と「現実」をめぐる議論から始められるべきではなかったか。「社会人や職業人に対して生涯学習や独学の機会を提供する役割、地域の文化的資料を集め後世に残すアーカイブ機能、地域住民の多様化に合わせた社会福祉や多文化的なサービスなどの重要な機能」を含めて、21世紀における図書館という装置/空間をいまあらたに定義しなおすという理念的で構造的な仕事こそ、図書館関係者が担うべきものであるように思われる。それはつまり、21世紀における図書館の使命を、たんに足し算的なもの、たんに総花的なものではなく、図書館というプロジェクトとしてわたしたちに指し示すという仕事である。しかしながら、上記の一節は最後にさらりと言及されるにすぎない。

『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』が「捻くれたルサンチマン」を内包しているかどうかはわからない。しかし、そのように著者たちを断罪することで『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を批判することは、それこそ、根本の内に潜んでいるのかもしれない思い——神格的なものとしての図書館がますます変容していく現在にたいする忸怩たる思い、さまざまな機能を背負い込むことでますます定義困難なものとなっていく複数的な図書館の在り方にたいする曰く言い難い思い——を、『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』の著者たちにひそかに投影する行為になるのではあるまいか。
~~~~~


16.『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』は11月上旬に重版出来。
 論創社HP「本を読む」〈81〉は〈『ガロ』臨時増刊号「池上遼一特集」と「地球儀」〉

ronso.co.jp

古本夜話1327 加藤シヅエ『ある女性政治家の半生』とマーガレット・サンガー『性教育は斯く実施せよ』

 前回、加藤シヅエ『ある女性政治家の半生』に関して、石本静枝時代をラフスケッチしただけなので、表記を加藤に代え、もう一編続けたい。

 加藤シヅエ―ある女性政治家の半生 (人間の記録) (日本図書センター復刻)

 加藤は大正九年に渡米し、ニューヨークでバラードスクールに籍を置き、速記タイプライターなどを主とする秘書学の勉強を始めた。その一方で、マーガレット・サンガーのバースコントロール運動を知り、親交のあったアグネス・スメドレーを通じて、サンガーという「生涯の師との出合い」が実現したのである。それは何よりも、加藤の三池炭鉱体験に起因し、彼女の言葉を引けば、「私の頭の中には、三池炭鉱の、あの子だくさんの家庭の有様が浮かび上がり」「この方法を炭鉱のお母さんたちに教えて上げたい」と思ったからだ。サンガーは彼女にいうのだった。「自分の性生活をコントロールする方法を知らなくては、女性は自分自身を解放することはできません」と。

 本探索1289の『エマ・ゴールドマン自伝』においても、この時代の産児制限闘争でのエマとマーガレットとの共闘、及びその離反が語られているし、アグネス・スメドレーに関しても、後述するつもりでいる。そのようなニューヨークのフェミニズムと産児制限闘争の場に加藤も立ち合っていたことになる。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 大正十年に帰国すると、加藤はサンガーの産児制限の共鳴者として日本のジャーナリズムでも知られ、翌年には改造社がバートランド・ラッセル、アインシュタインに続いて、サンガーを日本に招くことになった。「産めよ殖やせよ」の「富国強兵」の時代にあって、産児制限を唱えるサンガーの来日は報道合戦を引き起こし、ビザや講演などの問題も生じたが、加藤たちの世話によって、無事に乗り切られた。

 この来日と加藤のことはエレン・チェスラー『マーガレット・サンガー』(早川敦子監訳、日本評論社、平成十五年)でも言及され、サンガーの言として、「私の訪日を通して、産児制限についての関心が高まった様子には本当に驚きました」「まる一週間にわたってこの問題についての見出し、一面記事、論説がこの国の各紙の紙面をにぎわしたのです」が引かれている。また同書には特別寄稿「加藤タキ 母、加藤シヅエを語る」も収録され、昭和二十九年のサンガー再来日の時の三人を含んだ集合写真も掲載されていることを付記しておこう。

マーガレット・サンガー―嵐を駆けぬけた女性

 その後加藤は産児制限相談所を開設し、講演活動に携わる一方で、サンガーの『文明の中枢』も翻訳刊行しているようだが、これは未見である。だがチェスラーの評伝には来日時にすでに翻訳が出され、読まれていたと記されている。実は最近、浜松の時代舎で、サンガーの『性教育は斯く実施せよ』を入手している。これは大正十三年に烏山朝夢訳として朝香屋書店からの刊行である。朝香屋は『近代出版史探索』17で伊藤竹酔が梅原北明訳『デカメロン』を出版し、イタリア大使館も利用したプロパガンダで評判になったことを既述しておいた。また同58で、サンガーと並ぶ英国の産児制限運動家のマリー・ストープス『結婚愛』も朝香屋から出されていることにも言及している。

 ただサンガーの『性教育は斯く実施せよ』の奥付発行者は伊藤ではなく、大柴四郎であり、彼は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

大柴四郎 おおしば・しろう 一八五六~一九二九(安政三~昭四)朝香屋創業者。大分県生れ。一八八三年(明一六)上京、東京稗史出版社につとめた後、八六年(明治一九)神田鍛冶町に朝香屋を創業、はじめは三遊亭円朝の口述講談本などを出版したが、翌年から医学書の出版を専門とした。九二年(明治二五)、一専門分野の団体として最も早くできた医書組合の初代組長をつとめたほか、東京書籍出版営業組合協議員を経て、一九一〇年(明治四三)から一五年(大正四)まで東京書籍商組合組長をつとめた。また日本書籍株式会社取締役、東京書籍株式会社常務取締役などもつとめた。朝香屋は昭和初期閉店した模様。

ここに見られる朝香屋と大柴のプロフィルからすれば、大柴は近代出版業界の重鎮と見なすべきだろう。それに対して初版発禁のストープスの『結婚愛』やサンガー『性教育は斯く実施せよ』はそぐわないし、朝香屋二代目としての伊藤竹酔のセクソロジーやポルノグラフィー文献の出版企画の系譜上に成立したと判断すべきだろう。しかも訳者の烏山は「文部当局に感謝の辞」を掲げ、教育者は同書を読むことで、性的知識に熟通すべしという文部省声明を発しているとの断わりを入れている。

 この烏山は同じくサンガー『処女愛』(文省社、大正十四年)の訳者の矢口達ではないかと当初は思っていたけれど、このようなパフォーマンス的仕掛けからすれば、梅原北明だと考えるしかない。この時期に昭和艶本時代は用意され始めていたのである。

 

 また最後になってしまったが、石本静枝が再婚する加藤勘十とは、彼女に足尾銅山での講演を依頼したことで初めて出会っている。彼は大正九年に結成された全日本鉱夫総連合会の書記を務めていた。その事実からすれば、加藤は本探索1288の田口運蔵、同1298の片山潜、近藤栄蔵、同1303の永岡鶴蔵たちともつながっていたことになり、当時の社会主義運動における炭鉱と鉱夫の重要性をあらためて教示してくれる。それは『近代出版史探索Ⅵ』1180などのゾラの『ジェルミナール』の翻訳とも密接にリンクしていたのである。

ジェルミナール


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