出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1334 満川亀太郎『三国干渉以後』

 前回既述しておいたように、下中弥三郎『維新を語る』の出版をきっかけとして、維新懇話会が発足し、下中がその代表世話人となり、そのメンバーに満川亀太郎も名を連ねていた。

 

 実はこの満川も『維新を語る』の翌年に平凡社から自伝『三国干渉以後』を刊行している。大正八年から昭和十一年にかけての『満川亀太郎日記』(長谷川雄一他編 論創社、平成二十三年)の昭和十年のところを読むと、二月十二日に『三国干渉以後』を脱稿し、十六日には下中に届け、九月二十五日に「『三国干渉以後』五部を持ち帰る」とある。そこで以前入手した裸本の『三国干渉以後』の奥付を確認すると、九月二十三日発行と記載されているので、満川が平凡社に原稿を渡してから七か月後に出版の運びになったとわかる。「人名索引」も含めて四六判三四二ページの上製本の編集製作過程がわかるし、この時代の平凡社の奥付の発行日がほぼ正確であることも了承される。

(伝統と現代社版)三国干渉以後 (論創叢書) (論創社版) 満川亀太郎日記―大正八年‐昭和十一年

 『平凡社六十年史』によれば、大正七年に老荘会が結成される。これは左右の思想家、軍人、実業家を含み、堺利彦、吉野作造、北一輝などが名前を連ね、下中は満川の勧めでこれに加わっている。それぞれに思想的立場は異なっていたが、現状打破と新たな政策を求めることにおいて共通し、下中は大川周明を通じて、アジア主義の構想をふくらましていったとされる。それもあって、まず満川のプロフィルを『[現代日本]朝日人物事典』から引いてみよう。『近代日本社会運動史人物大事典』の立項よりも、こちらのほうが適切だと思われるからだ。

  

 満川亀太郎 みつかわ・かめたろう 1888・1・8~1936・5・12 国家主義者。大阪府生まれ。1907(明40)早大卒。軍国主義的雑誌『大日本』記者となり、多数の知名士と交際をもつ。18(大7)年米騒動に衝撃を受け、時局懇話会、老荘会を組織し、主催者として左右両グループを結集した。翌年8月、大川周明とはかり、老荘会の実践的右派を中心に、上海にいた北一輝を迎えて猶存社を結成した。猶存社の解散後は、大川とともに行地社をつくり、大学寮で国際問題などを教えた。昭和期には、32(昭7)年新日本国民同盟中央常任委員となる一方、33年より拓大教授として、学生の教育にうちこんだ。『黒人問題』など多数の著書があるが、自伝の『三国干渉以後』が有名。

 ここにアジア主義者としての満川の軌跡がそのグループとともにたどられている。それは大正七年の老荘会から始まり、猶存社、行地社として続いていくもので、本探索1295の北一輝の『支那革命外史』や『日本改造法案大綱』の出版とも併走している。また下中のほうにリンクさせれば、やはり大正八年に発足した啓明会を挙げられるし、これは下中の埼玉師範時代の教え子たちを中心とする教育団体で、『維新を語る』の出版に際し、維新懇話会と並んで啓明倶楽部へと引き継がれている。

 

 それからこれは『三国干渉以後』の「自序」を読んで知ったのだが、満川は前回挙げた平凡社の『大西郷全集』全三巻の編纂委員であり、その「大西郷五十年を記念する」仕事に参画したことが、『三国干渉以後』の発端となっているように思われる。同書刊行の昭和十年は「日清戦役四十年であると同時に、三国干渉遼東還付の四十年にも当たつてゐるのだ」。しかも「昭和十年三月二十七日、日本国民は正式連盟脱退の第一日を迎えへた」ことになる。そして満川は記している。

 一八九五年一九三五年、時を隔つる満四十年の歴史は、日本が白人勢力に対する屈服と反発との連続であつた。而して今や完全に過去の歴史を超克しつゝ、日本国家の上に輝かしき自由と光栄の日が来らんとしてゐる。北鉄問題の解決は、三国干渉劇の大団円であり、華府条約の廃棄は太平洋上に築かれたる記念碑でもあるのだ。

 いってみれば、『三国干渉以後』は満川の自伝であると同時に、アジア主義者満川から見られた「一八九五年―一九三五年、時を隔つる満四十年の歴史」に他ならないのである。

 それから『満川亀太郎日記』の「解題」に、『大百科事典』の「民権運動」項を担当しているとあった。そこで『大百科事典』の「民権運動」を繰ってみたのだが、「民族国家」「民族自決」「民族主義」はあっても、それらは住谷悦治によるもので、満川ではなく、しかも「民族運動」は見当らない。それをさらに確認するために、昭和九年に刊行された『大百科事典』最終巻の27所収の「編纂顧問及び執筆者」リストを見てみると、「執筆者」として「拓殖大学教授満川亀太郎(民族運動)」とある。『大百科事典』全巻に目を通すことはできないけれど、おそらく満川は「民族運動」関連の項目を引き受けていて、それが「民族運動」の立項を担ったと見なされたことから生じた誤解のように思われる。

odamitsuo.hatenablog.com


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古本夜話1333 下中弥三郎『維新を語る』と維新懇話会

 前回の維新社だが、『平凡社六十年史』はダイレクトに言及していないけれど、昭和六年の『大百科事典』の刊行後、満州事変などを背景として、下中弥三郎の社会活動が活発になっていったことが記述されている。これを補足しているのは『下中弥三郎事典』の「維新懇話会」の立項である。そうした下中の動向は農本主義に基づくナショナリスト的なポジションから国家社会主義への移行であり、政治運動としても表出していた。それを簡略にトレースしてみる。

 下中は昭和七年に結成された日本国民社会党準備委員会、後の新日本国民同盟、やはり同年の日本国家社会主義同盟などの中心メンバーとなり、前者の総務委員長、後者の顧問を引き受けていた。下中の政治活動で重要なのは新日本国民同盟との関係で、その綱領は資本主義的機構に基づく政党政治を打破し、天皇親政による独裁制と翼賛体制を樹立し、統制経済を推進しようとするものだった。対外的には列強資本主義のアジアからの追放と東亜新秩序の建設がスローガンで、昭和維新を叫ぶ革新派の青年将校や民間右派の関心を高めたとされる。

 そのために国民思想研究所機関誌『国民思想』が創刊され、そこに掲載された下中の「日本再建の原則と天皇政治の本義」は新日本国民同盟パンフレットとして出版された。そしてさらに昭和八年からは新日本国民同盟のアジア政策をコアとする大亜細亜協会が発足し、機関誌『大亜細亜主義』も創刊され、そこでも下中は健筆をふるい、後に理事長も務めることになる。

 こうした下中の活動から彼自身による『維新を語る』が生み出されたのであり、『国民思想』や『大亜細亜主義』と異なり、昭和九年に平凡社から刊行されている。手元にあるのは裸本だが、四六判上製五六九ページ、総ルビで『現代大衆文学全集』を想起させるし、実際に第一章「ペルリ来航と国論沸騰」から第十二章「戊申戦争と江戸開城」までがまさに新講談=「現代大衆文学」のような語り口で進められていく。つまり嘉永六年六月のペルリ来航から明治元年五月の上野戦争までの十五年間の歴史がそのようにして語られ、しかもそれは下中が『国民思想』に連載したものであった。彼はそのことも含め、「巻頭に一言」で次のように語っている。

  江戸川乱歩集 (現代大衆文学全集 第3巻) (『現代大衆文学全集』)

 昭和維新の機運が日に日に濃厚になるに伴れて、ふりかへつて明治維新の行程と真相を知りたいといふ欲求が若き人達の間に俄に高まつて来た。「維新史の研究には何を読めばよいか。」さういふ質問をしばゝゝ受ける。そんな時私は、サアと首をかたむけて考へて見る。どうも適当な本が出版されてゐない。学術的には、よい本であつても、偏よつた部分的の叙述である。一般に亘るものは簡に過ぎたり、学究的で読みづらくあつたり。

 ということで、自分の『国民思想』連載の維新物語が好評だったこともあり、一冊にまとめたと述べている。そして口絵写真に西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作を一ページ掲載し、大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、木戸孝允は明治五年の洋行中の集合写真で示し、「生一本の先駆者は早く死に、利巧ものが後まで残つて要位を占める」と一言付しているのは、下中の維新に対する視座を自ずと物語っていることになろう。

 それはまた巻末広告『大西郷全集』全三巻、『大西郷遺墨集』『大西郷詩選』、下中芳岳=弥三郎『西郷隆盛』に加えて、山川鵜市『神祇辞典』、権藤成卿『自治民範』の出版も下中の維新とリンクしていると見なしていいし、これらは平凡社というよりも、下中のこの時代の社外における政治活動の産物と考えるべきだろう。権藤の『自治民範』に関しては『近代出版史探索Ⅱ』242で既述している。
 
 (『自治民範』)

 『平凡社六十年史』は『維新を語る』が「下中弥三郎にとって『ひさびさの快著』で、徳富蘇峰などに激賞され、読者にも感銘を与えた」と記している。昭和七年の五・一五事件と同十一年の二・二六事件の狭間にあって。『維新を語る』はそれなりにリアルに読まれたことを意味しているのだろうか。ちなみに『下中弥三郎事典』には『維新を語る』の詳細な内容と反響がたどられている。

 この『維新を語る』の出版をきっかけにして、維新懇話会が発足している。この会は愛国諸団体によってその出版記念パーティが催され、そこに集った国家主義的革新団体が提起した組織で、民族、維新運動の連絡や統一化を強化し、そのための会合の必要性が話し合われ、下中がその代表世話人、事務所は大東亜協会に置かれたのである。それらのメンバーは『近代出版史探索Ⅴ』944の赤松克麿、津久井龍雄、『同Ⅱ』394の小池四郎、満川亀太郎、小栗慶太郎たちで、それを機として『国民思想』は『維新』へと改称されて平凡社からの発行となり、総合雑誌化して、懇話会の主張もそこに吸収されていったのである。『平凡社六十年史』の「発行雑誌一覧」には維新社編集『維新』の昭和九年創刊号と二号が平凡社、三号からは維新社発行、『陸軍画報』は昭和九年から十年にかけて、十七冊刊行し、十年後半から陸軍画報社発行となっている。両誌とも下中と平凡社を経由し、後に陸軍画報社へと継承されていったことになる。

(創刊号)  (昭和十年十一月号)


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古本夜話1332 陸軍画報社と中山正男『一軍国主義者の直言』

 『神近市子自伝』において、日蔭茶屋事件で出獄後の大正九年に、彼女が四歳年少の鈴木厚と結婚したことが語られている。彼は早稲田大学を中退した評論家で、文学、歴史、社会主義に通じていて、辻潤が連れてきたのだった。

 

 ところがその後、三人の子どもをなしたものの、支那事変が起きた昭和十二年頃から鈴木は『陸軍画報』の編集を手伝うようになった。そして飲酒と暴力が日常的になり、金使いも乱脈で、愛人も囲い始め、離婚へと至ったのである。残念ながら、鈴木は『近代日本社会運動史人物大事典』の「索引」に神近やエロシェンコとの関係から見出されるけれど、その他には言及されていないので、彼の編集者としての仕事がどのような軌跡をたどったかは不明である。

近代日本社会運動史人物大事典

 だがここで断片的でしかないが、『陸軍画報』のことが出てきたし、このような機会を得たので、陸軍画報社にもふれておきたい。たまたま陸軍画報社の金子空軒『近代武人百話』を拾ったばかりだし、表紙には「徴兵制度七十周年記念出版」「陸軍省報道部推薦」と銘打たれ、奥付には昭和十八年二月初版三千部、十九年六月再版一万部とある。口絵写真には「近代武人」たちの八ページがすえられ、「序」を寄せているのは陸軍情報局大佐松村秀逸、中佐秋山邦雄で、版元と出版コンセプトからして兵書に分類してかまわないだろう。

     

 著者の金子もその筋ではよく知られた人物らしく、明治末期より大正年間にわたり、軍人雑誌『文武』を主宰し、後に陸軍省嘱託として『つはもの』新聞を創刊し、編輯に携わってきたようだ。『近代武人百話』の巻末広告は姉妹篇として『陸軍史談』の広告も見られる。ただ敗戦によって、兵書出版は戦犯に問われるのではないかという危惧から、ほとんどが版元によって焚書化されたとも伝えられているので、兵書出版の全貌を再現することは難しいだろう。

 だが昭和九年から敗戦まで陸軍画報社社長を務めた中山正男は戦後に『一軍国主義者の直言』(鱒書房、昭和三十一年)などを残しているので、陸軍画報社のアウトラインはつかむことができる。『近代武人百話』の発行者は八木澤清とあるが、それは編集長だと思われる。また中山は『出版人物事典』には立項されていないのだが、『日本近代文学大事典』には見つかるので、それを引いてみる。

 中山正男 なかやままさお 明治四四・一・二六~昭和四四・一〇・二二(1911~1969)小説家、実業家。北海道佐呂間町生れ。専修大学法科中退。下中弥三郎に見いだされ雑誌「維新」「陸軍画報」の編集に当たる。日中戦争に陸軍嘱託として従軍。『脇崎部隊』(昭一四・一 陸軍画報社)以下の従軍記を発表。自伝小説『北風』(昭一七・三 平凡社)を書く。戦後追放。解除後は木材、石油、出版などの会社を興す一方『馬喰一代』正、続(昭二七・七 日本出版協同株式会社)『馬喰一代風雲篇』(昭和二八・六 東光書房)を書き、映画化もされた。日本ユースホステル協会会長、新理研映画社長。
 

 これを中山の『一軍国主義者の直言』によって補足してみる。中山は満州事変から支那事変に至る軍国主義の隆盛の中で大学生活を送り、必然的に国家主義者になっていく。そして平凡社の下中弥三郎が経営していた維新社に入った。維新社は時流に乗った日本主義標榜の雑誌『維新』を刊行し、自由主義や共産主義と戦う右翼の人々が論陣を張っていて、「多分に軍国主義昂揚の前座的」役割を果たしていたという。この『維新』は未見であり、『平凡社六十年史』にも、その発行の記載はあるけれど、言及はされていない。中山の証言は続いている。

 私ははじめこの維新社の営業部員になって、広告とりや雑誌の特殊販売を受持った。ところが下中社長はいまひとつ、維新社の経営で『陸軍画報』というのを発行していた。この雑誌を維新社の名において、在満州兵の慰問品に売りさばくのが私の仕事である。私は入社早々この販売に相当の成績をあげて下中社長に認められた。まもなく維新社は経営困難の理由で『陸軍画報』の発行を分離した。
 『陸軍画報』はやがて陸軍省新聞班の応援のもとに、原口健三が主宰して発行をはじめた。ところがこれも半年ぐらいで経営困難になった。そのときピンチヒッターとして登場したのが二十四歳の私である。以後終戦まで十年、『陸軍画報』の経営者として、国防思想と軍事知識の普及に全力をつくすとともに、多くの軍人とも知り合った。

 これらの中山の立項と証言によって、軍事画報社の軌跡、及び『一軍国主義者の直言』における昭和十二年からの支那従軍記、北支軍宣撫班創立者にして、「どこまで続くぬかるみぞ」の作者八木沼丈夫への言及で、その軍歌のよってきたるところが明らかになる。

 それに私は十代の頃に、三船敏郎、京マチ子主演、木村恵吾監督『馬喰一代』(大映東京、昭和二十八年)を観ているが、原作者のことはまったく知らなかったし、後に『馬喰一代』(東都書房)を読んで、その事実を知ったのである。

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 なお『下中弥三郎事典』には『陸軍画報』が立項され、中山の証言を補足する内容であろうことを付記しておく。


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古本夜話1331 雑誌委託制の始まりと婦人誌の全盛

 明治三十年代後半から大正にかけて、多くの女性誌が創刊され、大正時代には神近市子や望月百合子たちが新聞の婦人記者となり、昭和に入ると婦人誌が全盛となっていく。だが二十世紀の昭和時代が婦人誌の全盛だったことを記憶している読者や出版人はもはや少数派に属するのではないだろうか。昭和五十年代まで、『主婦の友』『婦人倶楽部』『主婦と生活』『婦人生活』の新年号発売は出版業界の一大イベントのようで、それぞれに家計簿と付録を競い、料理などの実用記事と相俟って「主婦」や「婦人」が良妻賢母を表象するタームとして機能していたことになろう。

 しかしそのような婦人誌も昭和末期から平成にかけて、『婦人倶楽部』を始めとして休刊に追いやられ、主婦の友社に至っては図書館やカザルスホールを備えていていた御茶の水本社もなくなってしまい、往年の婦人誌の栄光も忘れ去られようとしている。だが戦中から戦後にかけて、『主婦の友』を創刊した石川武美は出版業界の重鎮として、しかも取次においても重要な役割を担っていたのである。『出版人物事典』の立項を引いておこう。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [石川武美 いしかわ・たけよし]一八八七~一九六一(明治二〇~昭和三六)主婦の友社創業者。大分県生まれ。中学二年で上京。同文館書店に入店。営業部を経て、『婦女界』『婦人之友』の編集に参加。海老名弾正に師事、キリスト教の洗礼を受ける。一九一六年(大正五)東京家政研究会を興し、翌年二月『主婦之友』を創刊、二一年(大正一〇)社名も主婦之友社と改称。『主婦之友』は実生活にすぐ役立つ雑誌として、婦人雑誌に新しい分野を開拓した。四一年(昭和一六)財団法人文化事業報国会を設立、四七年お茶の水図書館を開館、戦時中日本出版会会長、日本出版配給株式会社社長をつとめた。五〇年(昭和二五)東京出版販売株式会社(現・トーハン)社長。第一回印刷文化賞を受賞、五八年(昭和三三)、婦人家庭雑誌の創造と確立、大型化の先鞭をつけた功績で第六回菊池寛賞受賞。著作は『石川武美選集』(御茶の水図書館)に収められている。

 石川が戦時中の国策取次の日配、戦後の東販の社長に就任していることだけをとっても、彼の出版業界における特異なポジションと『主婦之友』の編集のみならず、流通販売の神話が了承されるであろう。残念ながら『主婦之友』は含まれていないけれど、明治から大正にかけて創刊されたそれらの婦人誌の複刻が手元にあるので、創刊編集者などを加えて挙げてみる。


1 『婦人画報』   明治三十八年  近事画報社   国木田哲夫(独歩)
2 『婦人世界』   明治三十九年  実業之世界   増田義一
3 『婦女界』   明治四十三年  同文館   森谷定逸
4 『婦人公論』   大正五年    中央公論社   麻田駒之助
5 『婦人くらぶ』  大正九年    大日本雄弁会  太田稠夫

 1の『婦人画報』だけは四六倍判でアールヌーヴォー調の表紙と照応するように、その半分近くは女性、絵画なども含んだ一ページの口絵写真による「画報」で占められ、タイトルにふさわしいイメージに包まれている。近事画報社に関しては拙稿「出版者としての国木田独歩」(『古本探究』所収)を参照してほしいし、『婦人画報』は東京社に引き継がれ、『近代出版史探索』30の柳沼沢介の武俠社から婦人画報社へと継承されていく。

 2の『婦人世界』の創刊は本探索でも繰り返しふれてきているが、近代出版史における事件だったのである。それはその創刊号や『実業之日本社七十年史』でも言及されていないが、博文館の雑誌に代表される買切制に対して委託制を導入したことである。大正六年創刊の『主婦之友』がそれにならったのはいうまでもないだろう。つまり『婦人世界』と『主婦之友』はともに手をたずさえて雑誌の委託制を推進したことになり、その事実が石川をして、取次の社長も兼ねるという出版業界の特異なポジションへと押し上げたのではないだろうか。

 3の『婦女界』は大正元年に都河龍の婦女界社へと譲渡され、昭和戦前の婦人誌の一方の覇を唱える存在となった。5の『婦人くらぶ』はいうまでもなく、戦後の講談社の『婦人倶楽部』として、これも婦人誌の範のような存在であった。

それらに対して、4の『婦人公論』は神近市子や伊藤野枝も同人だった『青踏』に影響を受け、『中央公論』の婦人問題特集の好評を背景とし、嶋中雄作が主として創刊企画に携わったこともあり、自由主義と女権拡張をめざしていたことが明白に伝わってくる。なおこれは近代文学館の「複刻 日本の雑誌」ではなく、「中央公論社創業100年記念」複刻版によっている。

  (「中央公論社創業100年記念」複刻版)

 これらの創刊号復刻をあらためて手にして比較してみると、束がある厚さにもかかわらず、『婦人くらぶ』を除いて、背に雑誌タイトルが付されていない。それはこれらの婦人誌が創刊時から書店において複数配本による平積み販売、もしくは面陳販売を前提として流通していた事実を物語っているし、そこにも委託制販売への移行が表われていると推測される。

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古本夜話1330 阿部真之助『現代世相読本』

 『神近市子自伝』に戻ると、そこには思いがけない人物が出てくる。それは神近の東京日日新聞社の婦人記者としての社会的ポジションと英語ができる女性という評判が作用していたのであろう。ところがそうしたキャリアも、大正五年に大杉栄との恋愛問題で反故にされてしまった。そこで頼ったのは玄文社の結城禮一郎で、神近は彼の私設秘書のようなかたちで庇護され、それは十数年に及んだとされる。結城に関しては「結城禮一郎の『旧幕新選組の結城無二三』(『古本探究』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

 古本探究

 もう一人は阿部真之助である。彼は東京日日新聞の部長で、神近は結城と同様に、長きにわたって世話になったと述べている。私などの戦後世代にとって阿部はNHK会長のイメージが強いが、意外なことに『日本近代文学大事典』にも立項され、戦前はよく知られたジャーナリストだったとわかる。それによれば、明治十七年埼玉県熊谷生まれ、東京帝大社会学科卒で、東京日日新聞社を経て、大正三年に大阪毎日新聞に転じ、社会部長時代に吉川英治を起用し、『鳴門秘話』を連載させた。昭和四年東日部長、八年学芸部長として、社友顧問に菊池寛、久米正雄、横光利一などを迎え、長谷川時雨、野上弥生子たちの女流作家の東紅会を結成するといった東日学芸部全盛時代を築いたとされる。

 これによって、ずっと前に阿部の『現代世相読本』(東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、昭和十二年)を均一台から気まぐれに拾っていたのだが、発行所が二社となっている理由を理解した。東京の最初の日刊紙『東京日日新聞』は明治四十四年に『大阪毎日新聞』の傘下に入り、昭和十六年に『毎日新聞』に統一されることになるので、実質的に同じ新聞社だったのである。

 その『現代世相読本』は「政治論」「時事論評」「人物論」「婦人論」にわたる百二十編余の阿部の「毒舌」の集積で、おそらく昭和十年から十二年にかけて両社や様々な雑誌に掲載した「世相読本」だと思われる。

『神近市子自伝』で挙げられている「人物論・神近市子」は収録されていないけれど、「婦人論」の昭和五十一年五日付の「新聞記者の観た話題の婦人」で、村岡花子、神近市子、長谷川春子、平塚雷鳥、山川菊栄、吉岡弥生、吉屋信子、与謝野晶子、河崎なつの九人の女性を取り上げている。そしてその中でも神近市子が最も長く、親近感がこもっているし、彼女の阿部への言及も同様なので、やはり紹介しておくべきだろう。阿部は自ら「旧弊人」で、「淑女」と交際する機会はまったくなかった。それは男性に対して、「良家」は「絶対に門戸を閉鎖して居た」からで、接触するのは「余り名誉ならぬ職業の婦人方」に決まっていたとして続けている。

 自然私は、女の友達といふものを持つて居ない。たつた一人、神近市子君だけは、その除外例である。神近さんでは友人らしくない『君』と云はして貰ほう。神近君を知つたのは、私にとつては全く女性に対する新発見であり、驚異でもあつた。(中略)
 私が東京日日社へ入社して、三四年して、神近君が同じ社にやつて来た。左様二十年ももつと以前のことだつたから、私が若かつた如く、神近君も若かつた。そこでこの、若き美人と、美青年(?)との間に、恋愛関係でも持ち上りでもしたのだつたならば、それこそ天下の一大事で、一篇の映画物語位にはなつたであらうが、あの頃どうしてあんなに、淡々たる付き合いが出来たものか、今から考へても不思議でたまらない。多分、恋愛を求める対象が、正反対の方向を指して居たせいかも知れない。(中略)
 ある晩、晩飯に呼ばれて、神近君の下宿を訪ねたことがある。そこで、現在の山川均氏夫人、当時の青山菊栄さんも来合わせてゐた。牛肉を突きながら、どんな話をしたが忘れてしまつたが、何でも、何かの議論をおつ始じめて、二人の御婦人に、さんざん凹まされたやうに覚えてゐる。それは口が達者といふ計りでなかつた。頭脳の冷徹さに於て、世の中への知見の該博さに於て、なまけ坊主で酒くらひの、私なんぞは、太刀討ちのしようが無かつたのであつた。(中略)それにしても、あの人達は、私の持つ、女性の概念とは、全く別のカテゴリーに所属するのであつた。これが私の女性観を一変させた。一変しないまでも、女を見る目を、非常に遠慮深くさせたことに間違ひない。

 『青踏』に象徴される「新しい女」の出現に阿部という「毒舌」ジャーナリストがどのように対処したかが率直に語られているので、あえて長い引用を試みた。あまりにも散文的にして通俗的であるにしても、彼の「女性観」を一変させた「驚異」の事件であったことがよくわかる。しかし本探索1320の『女人芸術』創刊号の山川、神近、望月の「評論」三本立てが示しているように、「フェミニズム」の道はまだ遠かったのである。
 
  

 それに加えて、彼女たちのアイコンも問われなければならない。女性のアイコンが中條百合子たちだったように、男性アイコンは青山にとってはコミュニストの山川均、神近にとってはアナキストの大杉栄に他ならず、阿部のようなジャーナリストとの「恋愛関係」は「天下の一大事」でもなく、「一篇の映画物語」は成立するすべもなかった。神近は大杉との「恋愛関係」に向かい、それこそ「天下の一大事」的事件となり、戦後になって「一篇の映画物語」のテーマともされてしまったのである。

 阿部の死は昭和三十九年で、吉田喜重の映画『エロス+虐殺』の上映は同四十五年、『神近市子自伝』の刊行は同四十七年である。阿部が存命であったならば、映画と彼女の自伝にどのような戦後の「世相」を見たであろうか。

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