出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1373 介山居士紀行文集『遊於処々』

 前回、中里介山の『大菩薩峠』の出版をめぐる春秋社、大菩薩峠刊行会、隣人之友社などの入り組んだ関係にふれておいたが、その後、介山居士紀行文集『遊於処々』を入手している。これは昭和九年に介山を著作兼発行者として刊行された四六判上製の一冊で、発行所は小石川区音羽の隣人之友社、発売所は日本橋本町の隣人社営業部である。本扉には、隣人社発行とも記載されているけれど、両社は同じだと考えていい。

  

 介山は『日本近代文学大事典』の立項にもあるように、国内各所の見聞を『大菩薩峠』へと取り入れているし、『遊於処々』は昭和六年の「支那漫遊記」を始めとする七編の旅行記の集成である。ここでは最も長く、介山によるスケッチ、及び口絵写真一三ページを含む「支那漫遊記」を見てみる。介山の言を引けば、「この行は予めジヤパンツーリストから上海、南京、済南、天津、北京、奉天、安東、釜山、東京の一等周遊券」を買い求めてのもので、「通券価二百〇五円余。銀安の為に普通の時よりは割がよくなつてゐる」とされる。

(『遊於処々』) 

 しかし『遊於処々』全体が『大菩薩峠』を彷彿とさせるノンシャランな記述に充ち、介山自らがその「序文」で、「其時々々のノートを生のまゝ取つたもので自分ながら謎のやうなところもあるが、又実際資料として捨て難いものもある」と書いているように、メモランダムの集積のイメージが強い。

 例えば、神戸乗船で長崎から上海に向かう長崎丸は大谷光端、谷崎潤一郎、村松梢風なども利用し、洋食の一等客は少ないが、和食は二等待遇で、介山は一等客としてキャビン一室を占領し、給仕のサービスもよく、船長や事務長も挨拶にきたとの記述が見える。『都新聞』で『大菩薩峠』の連載が始まるのは大正二年からであるけれど、介山が作家としてかなりの知名度を得ていたことを伝えているのだろう。

 上海では劇場で、『西遊記』を見て、その芸風を味わっているが、介山らしいのは市中見物において、「その各軒に掲げたる漢字の大看板の文字」に驚嘆していることだ。それは「本場の文字」「金石を貫くもの」で、「出来るならばこの看板一枚を譲り受けて土産にもつて帰りたい」とまで述べている。それは私も『近代出版史探索Ⅲ』410の江戸の看板集である、を閲しているので、よくわかるような気がする。

近代出版史探索III

 さらに上海での介山のもうひとつの「感激」は市中の支那人車夫で、「その車夫たるや雲南省の山奥から飛び出して来た、そのまゝの野性の自然物で、半裸体にハダシで走り廻つてゐる」のだ。それに「サンパンの船夫」で、介山はそこに「この野性そのまゝを活躍せしめてゐる処に上海の特質があり、支那人の生活力のある大きな表現がある」と見ているし、それが『大菩薩峠』の米友を始めとする登場人物たちへと投影されていることはいうまでもあるまい。

 やはり『大菩薩峠』との関係から引いてみれば、北京の広場の興行物のひとつもそれに類するであろう。

 一人の獰猛な支那人がとても大きな偃月刀を縦横無尽に振りまはすと一人の瘠せた青年が、素手でその中に飛び込んで格闘する、一寸でもその大刀に触れよ(ママ)うものなら肉体は両断される、いかにも蛮的な物凄いものだ、次にまたその男が三連棒(六尺位の棒を三つに折り畳めるやうにしてある武器)を縦横無尽に振り廻す、それを又一方の青年が胸を叩きながら素手で飛び込んで取り抑へるのだが、これも間違って身体に当らうものなら骨身が砕ける、誠に千番に一番の芸当だ、野天に天幕を張つてやつてゐるのだから下は何も敷いてない土間であり、剣棒を振り廻す土匪のやるな獰猛の奴は汗と泥で愈々すさまじい顔色になる、さうして、次なる芸当に取りかゝる迄に、客に向つて頻りに投げ銭を乞ふのは変りはないが、其の欲張り方が如何にもしつこいものだ、獰猛な黒い奴が銭をくれなければおれはやらない、行つてしまうといつて、眼の色を変へて見物の中へと飛び込んだ、本当に行つて了ふやうである、あわてゝ仲間の者が引止める、実際これおは蛮的な演技ではあるが、随分武術上の参考になる処は多い。(後略)

 介山が見ている臨場感をそのまま伝えたいので、省略を施さない長い引用になってしまった。この「三連棒」とはほかならぬヌンチャクのことであり、このシーンはあたかもブルース・リーの『燃えよドラゴン』に始まる香港カンフー映画のようだし、その活劇の原型もこうした街頭の興行に求めることができよう。介山も「随分武術上の参考になる処は多い」と述べていることからすれば、『大菩薩峠』の剣術シーンにも反映されているにちがいない。いずれ再読の機会を得て、それらを確かめてみたいと思う。

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 なお意外なことに、介山は昭和十四年にアメリカ旅行も試み、『米国を見る』を発表しているようだが、こちらは読む機会を得ていない。


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古本夜話1372 『石井鶴三挿絵集』と中里介山

 挿絵に関連して、ここでもう一編書いておきたい。それは浜松の典昭堂で、ずっと探していた『石井鶴三挿絵集』を入手したからである。正確にいえば、同書は『石井鶴三挿絵集』第一巻だが、近代挿絵史上の一大事件といっていい著作権問題を引き受けるかたちで出版されたこともあり、後が続かず、第一集だけで終わってしまったはずだ。それは中里介山の挿絵の著作権をめぐる内紛であった。

 
 まずはその前史としての介山の『大菩薩峠』連載と出版事情をふまえておかねばならない。拙稿「同じく出版者としての中里介山」(『古本探究Ⅱ』所収)でトレースしておいたように、『大菩薩峠』は大正二年から十年まで『都新聞』に連載され、挿絵は井川洗厓によるものだった。この『都新聞』連載版は平成二十六年になって、井川の挿絵も含め、論創社から完全復元版の全九巻が刊行されるに及んで、『大菩薩峠』の初源の姿が明らかになったのである。

古本探究 2  

 その連載に併走するように、大正七年に介山は新刊古本の販売を兼ねる玉流堂書店を開き、自らの活字道楽、及び『平民新聞』の寄稿者だったこともあり、『大菩薩峠』の出版を試みていく。その取次は至誠堂だったので、読者層も拡がり、売れ行きは好調であったと伝えられている。取次事情に関してはこれも拙稿「破綻した取次至誠堂」(同前)を参照されたい。この玉流堂版に目を付けたのは『近代出版史探索』182の読み巧者の木村毅で、大正十年に春秋社から刊行され始め、関東大震災でも紙型が消失を免れたので、注文が殺到してロングセラーとなっていった。

 そして大正十四年から『大菩薩峠』連載は、これも本探索1330の『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』へと移され、挿絵は石井鶴三が担うことになる。彼は石井柏亭を長兄とし、東京美術学校彫刻科出身で、大正十年の上司小剣『東京』の『東京日日新聞』連載により、挿絵に新生面を開いたとされる。

 その一方で介山は隣人之友社を設立し、リトルマガジン『隣人之友』を創刊し、春秋社の『大菩薩峠』は昭和円本時代を迎え、菊半截判の普及版円本として刊行されていく。ところが、その普及版は昭和七年の第十一冊目で、介山と春秋社の神田豊穂の共同出資による大菩薩峠刊行会へと変わり、『大菩薩峠』連載も『隣人之友』へと移される。さらに第十三冊目になると、発行所は隣人之友社となり、神田との絶縁が宣言される。そのために、第十四冊目の発行者は介山、発行所は隣人之友社となり、「中里介山著作物は、すべて、隣人之友社に於て統一発行発売仕り居候」という事態を迎えている。

   

 こうした複雑な『大菩薩峠』をめぐる出版事情を背景として、昭和九年に光大社から『石井鶴三挿絵集』が刊行されたのである。横長の函入本で、上製四六二ページ、用紙はコットン紙使用もあって、厚さは五センチにも及ぶ。『大菩薩峠』の大正十四年から昭和三年までの挿絵を一枚ずつ一ページに掲載し、それにナンバーを付し、「参籠堂に女来る」といった画題が加えられ、石井オリジナルの『大菩薩峠』の長編絵物語の印象が強い。また論創社版『大菩薩峠』で復元された『都新聞』の井川洗厓の挿絵とはまったく異なる物語のイメージを喚起させている。

大菩薩峠 都新聞版〈第1巻〉 (論創社版)

 この出版をめぐる介山とのトラブルは予測されていたようで、そこには大阪毎日新聞社の新妻莞による「序に代へて」、木村荘八の「石井鶴三の挿絵」、石井の「自序」、光大社の中島謙吉の「本挿絵集の出版に際して」が用意周到に配置されている。もちろんそれらは『石井鶴三挿絵集』における挿絵のオリジナリティとその意味での正当性を訴求するもので、新妻は新聞連載を担う立場、木村は同じく挿絵家の見地から石井を擁護している。

 だがここではやはり当事者の石井の言を傾聴すべきであろう。それは挿絵の隆盛と新聞雑誌の小説連載における作家と挿絵家の問題へとも派生していったようにも思われるからだ。まず石井は「自序」で、『大菩薩峠』の新聞連載について、「中里介山作・石井鶴三画と明記して、この両人の名を以て世に発表したるもの」で、「一人の文を作り、他の一人が之に挿絵として絵を描く建前に於て」、「中里氏と小生の文画協力に成る、共著作物と見るべきもの」との主張を提出している。そしてそれに対する介山の「奇怪なる言動」に言及していく。

 小生の画が中里氏の文中に挿絵として使用されていることにより、或は其挿絵として使用するために描きたることにより、之を或は自己の作なりと云ひ、或はこれを自作小説の複製なりと云ひ、当然小生の有する画の著作権までも、自己の専有するところなりと誤認して居られるのでありまして、この誤認に基き、この画集の出版に対して、中里氏の有する著作権を侵すものとなし、(中略)もし挿絵のみが、其画家の手により単独に出版出来るといふ事が実現されるならば、著作権の根本が成り立たぬのではないかとまで云ふて居らるゝのであります。

 さらに介山は「大菩薩峠」という文字が商標登録されていることも、画集出版が商標法に抵触すると主張しているようだ。この問題は石井もいっているように、「単に中里対石井個人間の問題のみではなく、一文学者の為に画家及び画道が冒涜されん」とする事態であり、「画道の尊厳と画の著作権を、擁護せんとする挙」として「此出版を敢行」すると述べている。

 これは隆盛を迎えていた挿絵画家にとっても大きな問題で、介山の主張が通るのであれば、挿絵の独立も著作権もなく、作家に帰属するものになってしまう。介山の特異な性格を考慮したとしても、石井から見れば、「奇怪なる言動」と判断するしかなかったのであろう。光人社の発行者である中島謙吉の「本挿絵の出版に際して」までに至らなかったけれど、中島と光大社に関しては、『近代出版史探索Ⅱ』338、その後の石井の挿絵集出版については『同Ⅲ』474を参照してほしい。


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古本夜話1371 陸軍美術協会出版部『宮本三郎南方従軍画集』

 平凡社『名作挿絵全集』第六巻の「昭和戦前・現代小説篇」を繰っていると、前々回に挙げた獅子文六『胡椒息子』の挿絵を描いている宮本三郎も「挿絵傑作選」のメンバーに含まれて、そこには次のようなポルトレが提出されていた。

名作挿絵全集〈第6巻〉昭和戦前・現代小説篇 (1980年)   

 石川県生まれ。川端画学校洋画部で藤島武二に学び、のち安井曾太郎に師事。昭和二十二年、田村孝之介らとともに二紀会を設立。卓抜したデッサン力をもとに、戦争記録画、人物画にすぐれ、挿絵、装幀の分野でも早くから活躍した。代表作に獅子文六「胡椒息子」「太陽先生」「大番」、三角寛の山窩小説など。

 実際に『胡椒息子』『大番』の他に、片岡鉄平「向日葵の蔭にて」(『婦人倶楽部』)、西條八十「モダン東京・夜景アルバム」(『主婦之友』)などの挿絵も掲載されていたのである。それらは予想外ではないのだが、『名作挿絵全集』第五巻の「昭和戦前・現代小説篇」のほうに、加太こうじの「黄金時代の挿絵画家」が寄せられ、次のような言及があったことにはいささか驚かされた。加太によれば、彼は昭和七年に『黄金バット』などの紙芝居の作者兼画家となり、時代小説の挿絵も描こうと思い、風俗考証なども勉強した。そしてやはり『名作挿絵全集』第六巻の「挿絵傑作選」に挙げられている寺本忠雄の門下に入り、時代小説挿絵の道へと踏みこんだが、その際の目標は岩田専太郎ではなく、宮本三郎であった。

  名作挿絵全集〈第5巻〉昭和戦前・時代小説篇 (1980年)

 また挿絵画家という区分けが成立したのは昭和に入ってからのことで、昭和元年に岩田専太郎が吉川英治『鳴門秘帖』の大阪毎日新聞連載に挿絵を描き、最初の挿絵画家となったと加太は指摘している。それから雑誌の隆盛によって挿絵市場が拡大し、そこに登場したのが宮本で、「挿絵で資金を得て大成した手本のような存在だった。宮本ははじめは漫画を描いていたが、『オール読物』が月刊になって三角寛が山窩小説を書くと、ペンネームでその挿絵を描いた」。

 それは「リアルな動きと迫力と独特のエロチシズム」が魅力的で、それ以後本名で挿絵を描き、資金を得て外遊し、帰国後二科展に「観覧席」という大作を出品して有名になった。つまり挿絵画家の目標として選ばれたのが岩田ではなく、宮本であったのは、挿絵画家たちの「本画」=展覧会絵画に対するコンプレックスに起因していたのである。それらはともかく『近代出版史探索Ⅴ』979で三角寛のサンカ小説に言及しているが、挿絵画家としての宮本が寄り添っていたことは意外でもあった。

 (「観覧席」)

 実は数年前に『宮本三郎南方従軍画集』を入手している。A4版上製、原色版とオフセットカラー印刷と写真版からなる「画集」で、六〇ページ余「従軍断想」とあるスケッチとエッセイ部分は六八ページで構成されている。巻頭に「序」にあたる「宮本三郎小伝」を寄せているのは藤田嗣治で、宮本を「二科会の重鎮として追縦者門前に殺到し名声天下にあまねし」、支那事変、大東亜戦争が起きるにあたって、「戦争画を志し遂に山下パーシユバル(ママ)会見の名画を成す/帝国芸術院員の栄冠を獲得す」とある。

宮本三郎南方従軍画集 (1944年)   

 藤田がこの「小伝」を寄せているのは、宮本と「南方従軍」をともにしたからで、昭南で二人が一緒に写っている写真も収録されている。宮本や藤田だけでなく、昭和十年代には多くの画家たちが従軍し、「戦争画」だけでなく、様々な美術関連書が刊行されたと思われる。『近代出版史探索Ⅲ』357でも、川端康成『浅草紅団』や矢田挿雲『太閤記』の挿絵を描いた太田三郎の『瓜哇の古代芸術』を取り上げているが、想像する以上に多くが出版されたのではないだろうか。

 『宮本三郎南方従軍画集』は昭和十九年三月に陸軍美術協会出版部から刊行され、発行者は佳喜代志で、再版五千部とある。初版は宮本の終章「自画像」の日付から前年に出版され、おそらく初版は再版よりも多い一万部だったように推測できる。しかも売価は物品税も含めると九円八十銭で、とてつもなく高価だといっていい。それに、清水文吉『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)に示された五円を超える書籍の日配仕入正味は七七掛、出し正味八四掛である。それだけでなく、昭和十九年には日配の統制下で書店数は一万二千店ほどになり、このような高価な美術書を流通販売する状況にはなかった。

  

 とすれば、この『宮本三郎南方従軍画集』はどのような目的で出版されていたのであろうか。それは「戦争画」としてよく知られ、藤田も挙げている「山下・バーシバル両司令官会見図」収録に求められるように思われる。その原色版が見開きページで巻頭に置かれ、目次の後に「大本営陸軍報道部検閲済」と記されていることからうかがわれるのは、この画集が大本営陸軍報道部の助成金、あるいは買い上げ条件のもとで出版されたことである。つまり出版社には多大な利益を約束された一冊だったことに他ならない。戦時下の高価な美術書もリスクもなく、利益を上げることが可能な出版でもあった。

 しかも宮本の「自序」によれば、「私の最初の画集」ということになり、それはスケッチラス雑文集の色彩も強い。編輯は津田晴一郎に一任したとのべている。「二科の重鎮」とされても、それは挿絵画家という出自もあり、まだ自らの画集を見ていなかったことを意味していよう。それゆえに宮本の思惑、所謂「徴用作家」というポジション、それにここで初めて目にする陸軍美術協会出版部、発行者の佳喜代志、編輯者の津田晴一郎の事情も様々に絡んで、ここに成立した一冊のようにも思われる。

 なお宮本の装幀、挿絵による獅子文六『胡椒息子』の書影は、八木昇『大衆文芸図誌』に見ることができる。

  


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古本夜話1370 新潮社「挿絵の豊富な小説類」と角田喜久雄『妖棋伝』

 これは前回の岩田専太郎編『挿絵の描き方』の巻末広告で知ったのだが、同じ昭和十年代に新潮社から「挿絵の豊富な小説類」が刊行されていたのである。それらの挿絵は岩田のほかに、林唯一、富永謙太郎、小林秀恒、志村立美が担っていて、まさに新潮社も「挿絵文化」を推進していた出版元だったことを示唆しているし、そうした出版状況下において、併走するかたちで『挿絵の描き方』は企画編集されていたのである。まずはそれらの「挿絵の豊富な小説類」を挙げてみよう。

 

1 吉川英治 岩田専太郎画 『新編忠臣蔵』
2 大佛次郎 岩田専太郎画 『海の女』
3 横溝正史 岩田専太郎画 『夜光虫』
4 片岡鉄平 小林秀恒画 『風の女王』
5 小島政二郎 小林秀恒画 『清水次郎長』
6 小島政二郎 志村立美画 『人妻椿』
7 角田喜久雄 志村立美画 『妖棋伝』
8 中村武羅夫 富永謙太郎画 『女よなぜ泣くか』
9 獅子文六 宮本三郎画 『胡椒息子』
10 坪田譲治 小穴隆一画 『子供の四季』
11 片岡鉄兵 岩田専太郎画 『火の匂ふ唇』
12 尾崎士郎 中川一政画 『人生劇場(全二冊)』


    

 これらのうちの10の坪田譲治『子供の四季』は入手し、すでに拙稿「坪内譲治と馬込文士村」(『古本探究2』所収)で書影も示し、小穴隆一による装丁、挿画、造本にも言及して、この小説を論じている。それもあり、古本屋で実物を買い求めていても、再度論じる必然性はないので、ここでは7の角田喜久雄『妖棋伝』を取り上げてみたい。その書影は八木昇『大衆文芸図誌』(新人物往来社)で見ているし、十代の頃に角田のファンだったこともあって、『角田喜久雄全集』(全十三巻、講談社、昭和四十五年)を架蔵しているからだ。また原田裕『戦後の東都書房と講談社』(「出版人に聞く」14)において、角田の将棋フリークぶりを教えられ、それが作品にも反映されていたと知ったことにもよっている。

 (文化書院版)  戦後の講談社と東都書房 (出版人に聞く)

 この『妖棋伝』に関して、簡略なストーリー紹介をするつもりでいたが、たまたま『日本近代文学大事典』の角田の立項のところに、簡にして要を得た『妖棋伝』解題が見出されるので、そちらを引いてみる。

妖棋伝 ようきでん 長編小説。「日の出」昭和一〇・四~一一・六連載。昭和一一・七、新潮社刊。享保初年を背景に、関白秀次にまつわる将棋の名器「山彦」のうち、失われた銀将四枚のゆくえをめぐってさまざまな人物が入り乱れ、謎が謎をよぶ形で話が発展する。内大臣今出川伊季の側室を自称する仙珠院、南町奉行所与力赤地源太郎、武尊流縄術の武尊守人、謎の人物縄いたちなど登場人物も多く、昭和十年代の伝奇小説の代表作とされる。

 ちなみに『日の出』は新潮社が昭和七年に創刊した大衆文芸誌で、『妖棋伝』だけでなく、先のリストのうちの1の吉川英治『新編忠臣蔵』、3の横溝正史『夜光虫』なども『日の出』連載で、この雑誌は未見だが、新潮社の挿絵の牙城だったのではないかと考えられるし、それが「挿絵の豊富な小説類」シリーズへと結実していったのであろう。

(昭和8年)

 最初に『妖棋伝』を読んだのは春陽文庫だったと思うが、後に桃源社の「大ロマンの復活」シリーズとして、伝奇文学の代表作国枝史郎『神州纐纈城』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』などと並んで『妖棋伝』も刊行されている。それは「大ロマン」のイメージも新潮社の志村立美による挿絵の造型に一役かったに相違ない。だが残念ながら桃源社版にしても、『角田喜久雄全集』第一巻所収の『角田喜久雄全集』にしても、志村立美の挿絵は復元されていないので、書影だけでなく、新潮社の本体を見てみないと断言できないけれど、このような時代小説の美本が古書市場に出ることは少なく、これからも古本屋の店頭で出合う可能性は少ないだろう。

(春陽文庫)(桃源社)

 ただそうはいっても、平凡社の戦後版『名作挿絵全集』第五、六巻は「昭和戦前・時代小説篇」「同・現代小説篇」に当てられ、それらの挿絵画家たちの作品を見ることができる。「挿絵の豊富な小説類」の挿絵画家たちは勢揃いしているし、前者には『妖棋伝』は見えていないが、その代わりに林不忘、志村立美画『丹下左膳』が「挿絵傑作選」のひとつに選ばれ、『妖棋伝』の挿絵のほうも彷彿とさせてくれる。

名作挿絵全集〈第6巻〉昭和戦前・現代小説篇 (1980年)  

 それに加えて、渡辺圭二「聞き書」として、志村立美「私の挿絵五十年」も収録されている。志村の言によれば、美人画の山川秀峰門下で、昭和に入ってから博文館や講談社の挿絵の仕事が回ってくるようになった。そして挿絵を描いていた岩田専太郎や小林秀恒たちとの交流が始まり、三羽烏と称され、挿絵倶楽部(後の出版美術家連盟)の成立につながるという「大衆文学隆盛期の挿絵画家」環境が語られる。そして自らの挿絵の代表作として『丹下左膳』、先のリストの6の小島政二郎『人妻椿』を挙げているが、どうしてなのか、『妖棋伝』には及んでいない。それだけに先の解題にあった登場人物たちがどのように描かれたのか、想像をたくましくしてしまうのである。

 またあらためて『妖棋伝』を読み、複雑なストーリーと赤地源太郎や縄いたちのキャラクターにふれ、そこには明らかに『近代出版史探索Ⅲ』426の生田蝶介『島原大秘録』三部作の影響が感じられた。この三部作は未知谷によって復刊され、私はその第三巻『原城天帝旗』(平成八年)の解説を書いている。

原城天帝旗 (島原大秘録)

 なお角田のほうは『妖棋伝』の好評と映画化も相乗し、『髑髏銭』(春陽堂)『風雲将棋谷』(矢貴書店)が続き、伝奇時代小説の第一人者となっていくのである。

   


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古本夜話1369 岩田専太郎『挿絵の描き方』と新潮社「入門百科叢書」

 前回、長谷川利行の人脈に岩田専太郎も含まれていることを既述しておいた。それは大正を迎えての新聞や雑誌の隆盛に伴う挿絵の時代を想起させるし、岩田に関しては『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』(「出版人に聞く」12)で、飯田豊一が戦前における岩田の挿絵画家としての広範な影響に言及し、それは戦後も同様に続いていたとの証言を思い出してしまう。

『奇譚クラブ』から『裏窓』へ (出版人に聞く)

 またその岩田の編になる『挿絵の描き方』を浜松の時代舎で入手したばかりなので、ここで書いておくしかないだろう。それは新潮社の「入門百科叢書」の一冊として、昭和十三年に刊行され、買い求めたのは十四年五月の十三版で、飯田の言を肯っているといえよう。それに新潮社のこの「叢書」にしても、初めて目にするので、本探索1358などの実用書との関連もあり、その巻末のラインナップを示す。なお番号は便宜的に振ったもので、「著」表記は除いている。

 

加藤武雄 『小説の作り方』
2 嶋田青峰 『俳句の作り方』
3 金子薫園 『歌の作り方』
4 久米正雄 『文章の作り方』
5 佐藤惣之助 『詩と歌謡の作り方』
6 岩田専太郎 『挿絵の描き方』
7 吉屋信子 『女性の文章の作り方』
8 吉川速男 『写真の写し方』
9 瀬越七段閲 『碁の打ち方』
10 土屋八段 『将棋の指し方』


     

 5の『挿絵の描き方』だけは岩田編とあることを示すように、彼が同タイトルの最初の章の「挿絵画家志望者へ」と「私の描いた挿絵を例に」を寄せている。それに富永謙太郎「製版・スケッチ・遠近法その他」、志村立美「小説が挿絵になるまで」、小林秀恒「挿絵の用具、材料」、林唯一「顔と表情の研究そのほか」が続き、最後に口絵写真にも示されている、これらの五人の「『挿絵』座談会」で大団円を迎え、「挿絵」の「入門百科」というコンセプト以上のものを体現していよう。

 それは岩田の「序」にも明らかで、「挿絵は、娯楽或は余技には適さないと思ひます。志す以上は、中途半端で止るべきものでありません。本書中に説くところを、よく熟読体得されて、各自十分の研究を積まれるやう希望します」と述べている。この言葉は「入門」というよりもプロをめざすようにとの誘いに響く。

 それは最後の「『挿絵』座談会」にも顕著である。小林と富永は挿絵を描くにも絵画の勉強が必要だといい、それを受けて、志村と小林は活動俳優とファンとの関係と同じく、挿絵に憧れるような気持から挿絵画家になりたい人がとても多くいて、出世が早いと思いこんでいると応じている。それらの発言に対して、岩田は「挿絵を希望する人が、非常に簡単になれると考へるのを第一の間違ひだ」とし、「少くとも需要供給の関係から、挿絵画家として挿絵だけ描いて生活して行かれる人といふ人は、極端に言ふと、恐らく二十人か三十人くらゐに限られるのではないか」と語っている。

 しかし昭和十年代において、挿絵画家になりたい人々が多く出現していたのは、この『挿絵の描き方』の半年余での十三版という売れ行きにも投影されていよう。それは本探索でふれてきたように、絵画流行を促した『みづゑ』の創刊や水彩画の隆盛も、そうしたトレンドの一端を担っていたはずだが、大正から昭和にかけて挿絵文化が定着したことも大きかったと思われる。

 その事実は『近代出版史探索Ⅱ』385の平凡社の『名作挿画全集』に象徴されていた。この全集は昭和十五年六月から全十二巻が刊行され、その企画の中心にいたのは岩田専太郎や林唯一たちで、この出版を機として、挿絵研究会も発足している。また『平凡社六十年史』は「読者からの手紙がつぎつぎに編集部に寄せられたが、挿絵画家を志望し、憧れている地方在住の読者たちにとっては、『名作挿画全集』は唯一の窓口ともなったのである」と述べている。

  

 つまり『挿絵の描き方』にしても、平凡社の成功と反響を見て、それに続く「第二の窓口」を想定して企画刊行されたことになろう。もちろんそれを推進させたのは岩田を始めとする挿絵研究会の面々だと考えられる。しかしまだコミックやアニメという言葉も生まれていなかったけれど、ここで最初にブームを見た挿絵文化こそは「劇画」の発祥のようにも思われるし、後のコミックやアニメの起源だったといえるのではないだろうか。

 それとともに本探索1353などの大下藤次郎の最初の著書『水彩画之栞』を刊行したのは新潮社の前身の新声社であり、新潮社は戦後の昭和二十二年に実用書専門の子会社というべき大泉書店をスタートさせていることを想起させる。それは『水彩画之栞』から『挿絵の描き方』も含んだ「入門百科叢書」に至るまでの実用書という出版分野の水脈があってのことだと了承されるのである。私もかつて「大泉書店の『旅へのいざない』『釣百科』」(『古本屋散策』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

  (大泉書店版)   釣百科 (1951年)  古本屋散策 
 

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