出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1393 アラン『文学論』とシモーヌ・ヴェイユ

 片山敏彦はアランの『文学語録』を翻訳し、昭和十四年に創元社から刊行している。この邦訳名「語録」は原タイトルの Propos de Littérature(1944)を反映させ、「プロポ」のアランの翻訳を意図したのであろう。だが私の所持するのは、やはり創元社版であるけれど、戦後の昭和二十五年の改訂版の『文学論』だ。戦前、戦後版の相違は確かめていないが、例によって均一台で拾った一冊で、それももはや古本屋にしても商品価値は低く、放出されたことになろう。

 (『文学論』、創元文庫版)

 しかしあらためて『文学論』を読んで見ると、プラトンからヴァレリーに至るまでの精緻な文学エッセイで、「プラトンの著作が解るといふだけなら大したことではない。必要なことはみづからプラトンになることだ。困難な思索をみづから実行することだ」というアフォリズム的な一節を見出してしまう。このようなフランスのモラリストの文脈によって、アランは日本へと受容されたと考えられる。

 それに片山が昭和十四年の「訳者あとがき」に記しているところによれば、フランスにおいてアランは次のような人脈と環境の中にあった。

 十年前にフランスで、アランの芸術論へ私の留意を促したのは高貴(ノーブル)な魂の詩人マルセル・マルチネだつた。アランの仕事の協力者であるアレクサンドル教授はマルチネの親友の一人であつた。又、あの詩人の家ではロマン・ロランの妹さんにもお目にかかつたし、老詩人のエドワール・デュジャルダンとその夫人にもあつた。(中略)
 当時ソルボンヌ大学の英文科の学生としてエミリー・ブロンテの「嵐の丘(ママ)」などを読んでゐたマルチネの娘さんが、紙片に、アランの講義の場所を書いて教えてくれ、私はその講義を聴きに行つてみた。霧の深い初冬の夜で、場所はモンパルナスの大通りに近いコレジュ・ド・セヴィニの講堂だつた。時間の三十分前に行つてももう据るところはない位多数の聴講者が集まつてゐたが、その人々の多様さに私は驚かされた。白髪の老人、黒衣の老婦から大学生、女子学生までさまざまな人々がゐた。(後略)

 さらに長くなってしまうのでアランの登場シーンは省略してしまったが、この一九二〇年のフランスのアランを取り巻く人脈とこの光景に、おそらく片山は日本の昭和十年代を重ね合わせ、アランをめぐって「楽しい知識」(ニーチェ)を求める人々を浮かび上がらせようとしているのだろう。それゆえに片山は「この訳著を、アランの姿に触れた十年前の霧の深い初冬の夜の思ひ出に捧げる」と述べているであろう。

 そうしたアランの文人モラリスト的イメージは戦後になっても存続し、私たちにしても彼が人生論の著者のようにも錯覚していたのである。例えば手元に角川文庫のアラン『思想と年齢』(原亨吉訳、昭和三十年初訳、同四十三年十二版)があり、巻末の「角川文庫目録」を見ると、同じく『幸福論』(石川湧訳)、『精神と情熱に関する八十一章』(小林秀雄訳)、『信仰について』(松浪信三郎訳)、『人間論』(井沢義雄訳)が収録され、昭和四十年代前半まではアランがよく読まれていたとわかる。それもあって、昭和三十五年には白水社の『アラン著作集』全八巻も編まれたと考えられる。

 アラン著作集 2 幸福論

 それに加えて、「角川文庫目録」のアランの隣にはヒルティの『幸福論』『人生論』(いずれも秋山英夫訳)、ラッセルの『教育論』『幸福論』(いずれも堀秀彦訳)が並んでいる。そしてアラン、ヒルティ、ラッセルに共通するタイトルとして『幸福論』が選ばれているように、外国の思想家たちも人生論の著者として受けとめられ、読まれていたのである。それはまだ消費社会を迎えていなかった昭和四十年代前半までが、いかに生きるべきかという人生論の時代であったことを示唆し、実際に『近代出版史探索Ⅳ』606の大和書房や青春出版社にしても、人生論をコアとして立ち上がっているし、実際に人生論が売れていたことを伝えていよう。

人生論 (1956年) (角川文庫) (ヒルティ『人生論』) 教育論 (1954年) (角川文庫) (『教育論』)

 しかしそれはヒルティやラッセルついても同様だろうが、彼ら以上にアランに関しては弊害とか、ある種のバイアスもたらしていた。吉本隆明は「情況への発言(一九八九年二月)」(『情況へ』所収、宝島社)で、次のようにいっている。「おれたちは十代や二十代のころからアランについて小林秀雄や桑原武夫に永いあいだだまされていて、アランを文学芸術好きのセンスのある断章的な哲学者だというイメージをこしらえあげていた。だがアランがラジカルなアナーキズム系の思想家だということを、かれらはいちども紹介しないし、解釈もしなかった」と。桑原は『芸術論集』(岩波書店、昭和十六年)などを訳しているし、そこに片山も加わるとはいうまでもないだろう。

情況へ 

 ここで吉本は『甦えるヴェイユ』(JICC出版局)の著者として発言している。実際にジャック・カポー『シモーヌ・ヴェーユ伝』(山崎庸一郎、中條忍訳、みすず書房)を読むと、アランがヴェーユに与えた深い影響を知ることができる。また本探索1291において、『社会批評』でのヴェイユとジョルジュ・バタイユのコラボレーション、『近代出版史探索Ⅵ』1194のバタイユ『青空』のモデル問題にもふれているが、それらの事実もアランからの思想的影響と不可分ではないはずだ。しかしヴェイユはともかく、人生論が自己啓発書へと入れ替わってしまった現在に至って、再びアランが読まれるようになるとは思われないのである。

甦えるヴェイユ(『甦えるヴェイユ』)  シモーヌ・ヴェーユ伝  


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古本夜話1392 片山敏彦『詩心の風光』とロマン・ロラン

 前回、高杉一郎の「片山教室」体験にふれたが、私のような戦後世代にとって、片山敏彦のイメージは希薄で、翻訳はともかく、著書も一冊しか入手していない。

 『日本近代文学大事典』における片山の立項は一ページ近いので、清水徹によるシンプルな『[現代日本]朝日人物事典』のほうを要約してみる。明治三十一年高知県生まれのドイツ、フランス文学者で、大正十三年に東京帝大独文科卒業後、ロマン・ロランとそのグループに深い関心を寄せ、昭和四年からフランスに留学し、スイスにロランを訪ねて親交を結び、ウィーンにツヴァイクを訪問した。帰国後の七年に一高教授となるが、二十年春には辞任し、軽井沢に隠遁し、文学と芸術を通じての魂の問題、さらには神秘主義的な姿勢から美や音楽を語り続けたとされる。

 この片山の『詩心の風光』を処女出版物として始まったのが美篤書房、後のみすず書房で、創業者の小尾俊人は『本は生まれる。そして、それから』(幻戯書房、平成十五年)において、「片山先生の思い出」を書いている。そこで小尾は昭和十七年の二十歳の時に読んだ岩波文庫のロマン・ロラン『ベートーベンの生涯』の片山の解説の「一人の人間」と「土くれ」の部分を示し、次のように述べている。

詩心の風光  本は生まれる。そして、それから (『本は生まれる。そして、それから』) ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)

 この文章が私に与えた鮮烈な力、記憶に沁みこんだ印象はつよい。一人の人間とはベートーヴェンであり、人間と土くれのコントラストのイメージが、四畳半に射しこむ光と影とともに思いおこされる。これが私と片山先生との最初の出会いである。

 それから小尾の軍隊生活と敗戦を経た四年後に片山の『詩心の風光』が刊行される。同書は『日本近代文学大事典』の片山の立項のところに書影としての扉の掲載もあり、小尾だけでなく、彼にとっても記念すべき戦後の最初の一冊だったことがうかがわれる。この四六判並製三九〇ページの用紙は粗末だが、内容はまさに「詩心の風光」に充ちているようで、その「序」は次のように始まっている。

 戦争は過ぎた。歴史の深刻な動乱は昨日の悪夢のやうである。しかもその大きな余波はまだわれわれを揺すぶつてゐる。眼前には廃墟と新しい多くの墳墓と社会革命の相があり、内心には喪しみや驚愕や焦慮の痕が数多く残り、飢えて寒さの傷口おもまだ癒えてない。
 帰つて来た平和の第一年目の春――空は碧瑠璃に澄み、丘には杏の白い花々が輝く。だが人は、自然のこの永遠回帰の余りにも明澄なふところに帰つて、聖書の中の「帰つた子」のやうに思はずむせび泣く。

 最初の六行ほどの引用だが、このような片山ならではと思われる文章がさらに四ページにわたって続いていく。それは前回のツヴァイク『権力とたたかう良心』の昂揚した文学との共通性を感じさせる。それに続く第一部に当たる「讃頌と追憶――ロマン・ロランを中心として」は多くが戦前に書かれた八編を収め、その中の「ヴィラ・オルガの思ひ出」は一九二九年=昭和四年のスイスの村へのロマン・ロラン訪問記である。「ヴィラ・オルガの門まで行くとロマン・ロランが手を差し出し、微笑しなから近づいて来た。その手を握る。何も云へない。ただ、目の前にロランの碧い目を光を感じてゐる」。この五〇ページ近い訪問記を読むと、本探索1252の徳富蘆花の『順礼紀行』における、明治末のトルストイ訪問を重ね合わせてしまう。あえていってみれば、片山にとってロマン・ロランは昭和におけるトルストイのようにも思われる。

  (警醒社『順礼紀行』)

 そのイメージは戦後を迎えても保たれ、片山と小尾によって『ロマン・ロラン全集』が企てられていくのである。そのような戦後の翻訳状況もあって、もちろんみすず書房の全集ではないけれど、図書館でいくつかの『世界文学全集』によって、私も中学時代に『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』などの大作を読んでいる。今となっては私と同じく、信じられないかもしれないが、そのような時代もあったのだ。

ロマン・ロラン全集 (9) 戯曲 1

 小尾も先述の一文でいっていたではないか。「著者があり、訳者があり、図書館がある。それらをむすび支える無数の綱、ネットワークがある。その質と拡がりが、文明の内容をなしている。その環の一つで、私は、あったのだ」と。そのような出版インフラに支えられ、『ツヴァイク全集』全二十八巻も『片山敏彦著作集』全十巻も刊行されていたのである。

(『片山敏彦著作集』)

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古本夜話1391 片山敏彦とツヴァイク『権力とたたかう良心』

 前回の片山敏彦に関して続けてみる。高杉一郎『ザメンボフの家族たち』に「片山敏彦の書斎」という小文がある。

 高杉は『文芸』の編集者として、昭和十二年から十九年の応召に至るまで、片山の書斎訪問を繰り返し、「片山教室」の「生徒」だったことを語っている。そこではロマン・ロランのこと、欧米の同時代の出版物などが話題となり、片山は「一見して非政治的な芸術の鑑賞者」だと考えられていたが、進行するアジアやヨーロッパの戦時下にあって、「実はテコでも動かない意志にささえられた抵抗者であること」を悟るようになったのである。

 それが機縁となって、高杉は戦後に片山の創案と監修による『ツヴァイク全集』全二十一巻のうちの『権力とたたかう良心』をドイツ語から翻訳することになる。その理由は「戦争中に、片山教室でそれを切実な思いで話題にのせた記憶があったから」だ。あらためてこの小説を読んでみると、それはよくわかるように思われる。

 

 ツヴァイクはユダヤ人の平和主義者であり、豊富な蔵書を備えて書庫を有するザルツブルグの館に住み、伝記文学『ジョゼフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『メリー・スチュアート』(いずれもみすず書房版全集に収録)などによって、イギリスのストレイチー、『近代出版史探索Ⅴ』873のフランスのモーロワとともに二十世紀の三大伝記作家とされ、ロマン・ロランとも厚い友情で結ばれていた。

ツヴァイク全集 11 ジョゼフ・フーシェ   

 ところがナチスの台頭によって、一九三四年に武器の密輸入の疑いで家宅捜索を受け、翌年にイギリスへ亡命する。そしてあわただしい流離の生活の中で、伝記文学というよりも、同時代のナチズムへの嘆きや怒りを宗教改革のルターやカルヴァンに投影させた『エラスムスの勝利と悲劇』(高橋禎二訳、河出書房、昭和十八年)、『カルヴァンとたたかうカステリオン』を書く。この二作はナチスとそのファシズムに対する抗議であると同時に、時代の政治的アナロジーをこめていて、前者は戦前に翻訳されているが、後者は昭和四十七年に高杉訳『権力とたたかう良心』としてようやく刊行されたことになる。それはサブタイトルを「カルヴァンとたたかうカステリオン」とするもので、そのコアを抽出してみる。

(『エラスムスの勝利と悲劇』)

 一五三五年カルヴァン(カルヴィンのフランス語表記)は福音主義の教理の最初の綱要にして、プロティスタンティズムの正典である『キリスト教綱要』を書き上げる。ツヴァイクはこれが歴史の流れを決定し、ヨーロッパの顔を変えてしまった一冊で、ルターの聖書翻訳以後の宗教改革の最も重要なものだったと述べている。カルヴァンは『キリスト教綱要』に基づき、ジュネーブで神政政治を実現するために教会法規を規定し、礼拝の儀式制度から市民の社会生活に至るまでのドラスチックな改革を断行した。反対する者はことごとく排除され、神学者で人文学者のカステリオンは追放され、異端者のセルヴェートは焚刑に処せられたのである。

 そしてカルヴァンはジュネーブを教会都市とすることに成功し、長きにわたってヨーロッパのプロティスタンディズムの牙城とした。神学は「偶発的な時代の衣裳」にすぎないと断った上で、ツヴァイクはいっている。

 それは、無数に生きた細胞をふくんで息づいている国家を硬直した機構に変え、それぞれの感情や思想をもっている民衆をただひとつの体系のなかにおしこめる実験であった。これは、思想の名において住民全体を完全に統制しようとしたヨーロッパで最初の試みであった。

 あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生み出すものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちでも最も神聖な力である献身と熱狂をひきずりだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身をまかせ、はらまさせられ、凌辱されるままにさえなる。

 そのカルヴァンのあらゆる圧制に挑戦したのはカステリオンであった。この孤独な理想主義者は「貧乏学者、居住権も市民権もない外国への亡命者、二重の移民」というべき存在だが、どのような党派にも狂信にも関わりを持たなかった。それゆえにカステリオンとカルヴァンが象徴するのは「寛容と不寛容、自由と監視、人間性と狂信、個性と画一、良心と権力」の両極であり、ここから邦訳タイトルも取られている。

 そのようにして、ツヴァイクは「カルヴァンとたたかうカステリオン」を描いていくわけだが、そこには名指しされていないけれど、カルヴァンと『キリスト教綱要』が『近代出版史探索』116のヒトラーと『我が闘争』に擬せられていることは明白だろう。ちなみにカルヴァンの『キリスト教綱要』は『近代出版史探索Ⅵ』1033の中山昌樹訳で、『同Ⅲ』529の新生堂から全三巻で刊行されているようだが、未見である。

 それゆえに日本の戦時下において、片山や高杉にとっても、このツヴァイクの『カルヴァンとたたかうカステリオン』は重要な一冊だったことになろう。とりわけツヴァイクが挙げていたカステリオンの『疑う技術について』の一節はかみしめる思いを共有したと思われるので、それを引いて本稿を閉じる。

 ひとたび光明がおとずれたあとで、われわれがふたたびこのような暗黒のなかで生活しなければならなかったことを、後世のひとびとはおそらく理解できないであろう。


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古本夜話1390 小尾俊人と高杉一郎

 またしても飛んでしまったが、みすず書房創業者の小尾俊人は『昨日と明日の間』(幻戯書房、平成二十一年)所収の「高杉一郎先生と私」で、次のように書いている。

昨日と明日の間―編集者のノートから

 私が高杉先生のお仕事のお手伝いをいたしましたのは、昭和二十九(一九五四)年からのことです。『エロシェンコ全集』(一九五九)やスメドレー『中国の歌ごえ』(一九五七)の訳などです。しかし、仕事(編集者)の人間として、軍隊生活(第二次大戦)への従軍兵として、また片山敏彦先生の「片山教室」の生徒として、二人は共通の世界がありました。
 しかし、先生は当時四十五歳、私はまだ三十三歳、経験で及ぶべくもない大先輩でありまして、いくたの接点で示された「人間、高杉一郎の生きている思想」の美しさへの嘆賞あるのみです。

 これは平成二十年の高杉の百歳を目前にしての死への「高杉一郎追悼」の再録のようだが、ここにくっきりとみすず書房、高杉、小尾の三位一体の関係が刻まれている。それに加えて、本探索1385でふれた太田哲男『若き高杉一郎』にしても、やはり小尾が同書の「藤田省三さんの思い出」でふれている、その他ならぬ藤田の勧めによって成立したのである。

若き高杉一郎: 改造社の時代

 管見の限り、ここで小尾は高杉の側から語られていない、自らを含めた高杉とみすず書房の関係について語っているわけだが、そこには編集者ならではの韜晦のニュアンスを感じてしまう。小尾の高杉に対する思想の「美しさへの嘆賞」を肯うにやぶさかではないけれど、二人の間には編集者と従軍兵、「片山教室」の生徒としての共通点はあったにしても、どこかですれちがってしまうような瞬間が生じたのではないだろうか。

 どちらかといえば、私は高杉の代表作ではない『ザメンボフの家族たち』(田畑書店、昭和五十六年)に触発されるところが多く、本探索で続けて書いていくつもりでいる。そのタイトルと副題の「あるエスペランティストの精神史」は象徴的で、彼の戦中戦後史を物語っているように思える。これは高杉がシベリア復員後、新聞雑誌の求めに応じて書いた短い文章の集積から、その半分ほどを選んだものである。その「あとがき」で、彼は書いている。「戦争の時代を通り抜けてきた私たちの世代は、つねにどう生きるかという問題から頭が離れないので、私の書く文章はどれも地味にくすんでいることを、私は自分でもよく承知している」と。

 小尾は高杉の思想の「美しさへの嘆賞」を語っているが、高杉のほうは「どれも地味にくすんでいる」と自覚しているのだ。それは「片山教室」の戦前と戦後の生徒の相違にも表われ、小尾は『ザメンホフの家族たち』所収の「片山敏彦の書斎」を長く引用しているけれど、高杉の「くすんでいる」部分には及んでいない。

 それは戦後のエピソードで、彼は静岡大学教師として、学内の「ロマン・ロラン友の会」の講演にきた片山と再会し、片山たちの雑誌『花冠』にも原稿を書いたりした。そして続けている。「しかしどういうわけか、あの戦争中のような熱っぽいゆききはもう二度と私たちのあいだにはよみがえらなかった」。片山の死は昭和三十六年で、これは昭和四十七年の『片山敏彦著作集』の「月報」に寄せられたもので、ツヴァイクの『権力とたたかう良心』(『ツヴァイク全集』17)の翻訳も同年であった。

  

 それからこれは『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、平成八年)の「スターリン・言語集』論文」の章に見えるエピソードである。高杉は宮本顕治と義妹の再婚の自宅での披露宴に招待される。彼女は高杉夫人の妹だったことになる。それは宮本百合子の死後五年経った昭和三十一年のことで、中野重治、窪川鶴次郎、壺井繁治、蔵原惟人といった日本共産党の幹部たちが呼ばれていた。披露宴にもかかわらず、義妹は台所と間を忙しく往復して働いていた。そこで高杉は思うのだった。

征きて還りし兵の記憶 (岩波現代文庫)

 私は、ここに集まっているのは『新日本文学』の指導者たちのはずだが、フェミニズムのひとかけらもないのだろうかとふしぎに思った。これからこの家の主婦になろうとしている女性をなぜ会話のなかにひきいれようとしないのか。(中略)いま、ここに集まっているのは、古い日本の風俗のなかで育てられた亭主関白ばかりなのか。
 私は起ちあがっていって、その晩のホストである宮本顕治のすぐ横にひとつの座蒲団をおき、義妹には「あんたはここに坐っていなさい」と言って坐らせると、みずからの形をあらためて言った。
 「結婚記念の歌をうたいます。男が新妻に終生の愛を誓う歌です」

 それはドイツ語の歌で、高杉が歌い終えると、中野重治が「おい、日本語で説明しろよ」というので、「あんたは独文出身じゃないか」と応じたのだった。

 高杉のどれも「地味にくすんでいる」文章に対する自覚、及びこのようなエピソードに表出しているのは、『極光のかげに』におけるシベリア抑留、そこでの『スターリン体験』に起因するものに他ならないであろう。

  スターリン体験 (同時代ライブラリー)


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古本夜話1389 叢文閣「マルクス主義芸術理論叢書」、啓隆閣、マーツア『二〇世紀芸術論』

 本探索1386の秋田雨雀『若きソウエート・ロシヤ』の版元である叢文閣に関しては『近代出版史探索Ⅱ』204、206、207、208などで言及してきたが、出版目録は出されていないこともあって、その全貌は明らかではない。有島武郎との関係はよく知られ、彼の個人誌『泉』や『有島武郎全集』の出版は先の拙稿で既述しているけれど、それ以後の左翼出版物の実態は定かではない。

 

 その一端は『近代日本社会運動史人物大事典』の叢文閣の足助素一の立項にもふれられ、昭和初期の左翼出版文化の時代を白揚社、共生閣、鉄塔書院、希望閣、マルクス書房、南蛮書房などとともに担ったとされる。これらの出版社についても、『近代出版史探索Ⅱ』206などで取り上げてきたが、どの出版社も多くの発禁処分を受けていることもあって、古本屋でも出会うことが少ない。

近代日本社会運動史人物大事典

 それは叢文閣も同様で、例えば雨雀の著書の巻末広告に掲載された「マルクス主義芸術理論叢書」は一冊も見ていないけれど、そのラインナップを挙げてみる。

1 プレハーノフ 外村史郎訳 『芸術論』
2    〃   蔵原惟人訳 『階級社会の芸術』
3 メーリング 川口浩訳 『世界文学と無産階級』
4 マーツア 蔵原惟人訳 『現代欧州の芸術』
5 ハウゼンシュタイン 川口浩訳 『造形芸術社会学』
6 プレハーノフ 外村史郎訳 『文学論』

 (『芸術論』)

 これらの他に国際文化研究所編『マルクス主義者の見たトルストイ』、レーニン、川内忠彦訳『ヘーゲル「論理の科学」大綱』が並び、叢文閣の左翼出版物のカラーがうかがわれる。これらの一冊も入手していないにもかかわらず、「同叢書」を挙げたのは、本探索としてはイレギュラーだが、ひとつの理由がある。

 それは数年前にあるインタビューで、フリー編集者の野中文江と同席し、彼女が『書評紙と共に歩んだ50年』(「出版人に聞く」9)の井出彰と早大露文科の同窓で、啓隆閣という出版社を始まりとして編集の道へ入ったと知らされたからだ。迂闊なことに私はその出版社名を知らなかったので、その後も気になっていたのだが、しばらくして古本屋で、啓隆閣から刊行されたマーツア『二〇世紀芸術論』(伊吹二郎、笠井忠、西牟田久雄訳、昭和四十五年)を見出したのである。ただこのマーツアも初めて目にする人名で、いくつかの世界文学や西洋人名辞典に当たってみたが掲載されておらず、例によって戦前の『世界文芸大辞典』に至り、ようやくその立項を発見した。かなり長いので要約してみる。

書評紙と共に歩んだ五〇年 (出版人に聞く)  

 マーツアはソヴェート・ロシアのマルクス主義芸術学者で、一八九三年にオーストリア・ハンガリに生まれ、ギムナジウムを卒え、演劇関係の論文、著書を発表し、国立劇場の舞台監督を務めていた。だがハンガリ・ソヴェート崩壊後、二二年ロシアに亡命し、モスクヴァ文学出版管理局外事課で働き、その後造形芸術の分野で活躍し、現在コムアカデミア文学・芸術部造形芸術科長、『文芸百科辞典』編集委員としてスヴェート芸術学会に重きをなすとある。

 これを『二〇世紀芸術論』の「訳者あとがき」の著者紹介と照合すると、『世界文芸大辞典』(昭和十二年)の立項が、そこに出ている『文芸百科事典』(一九三四年)に基づくものだとわかる。叢文閣の4の『現代欧州の芸術』の原書は一九二六年、続いて出された『欧州文学とプロレタリアート』『欧州における爛熟資本主義時代の芸術』『理論芸術学概論』は、『世界文芸大辞典』によれば、いずれも邦訳されているという。それは戦前の日本において、マーツアがそれなりに重きをなしていたことを伝えていよう。この『二〇世紀芸術論』は一九六九年のマーツアの新著で、戦後も彼が健在であったことを示していよう。

 最後になってしまったが、この啓隆閣も社名だけでなく、叢文閣と相通じるところがあって、はさまれた「図書目録」を見ると、四十冊ほどが掲載されている。その中に、「マルクス・レーニン主義学習双書」全八巻、「マルクス・レーニン主義美学の基礎」全三冊なども見えている。しかも前者の著者には本探索1284の永田広志がいて、『弁証法的唯物論の学習』『史的唯物論の学習』を担い、後者の監修は蔵原惟人であるので、戦前からの左翼出版人脈は昭和四十年代までは連綿と続いていたことを物語っている。

(「マルクス・レーニン主義美学の基礎」)

 千代田区富士見に位置する啓隆閣の志知啓史も早大露文科出身のようで、ヤマハのPR誌の仕事をベースにして、啓隆閣を立ち上げたとされる。しかし『二〇世紀芸術論』はタイトルも記載されていない機械函入で、しかもB6判上製の本体も背にタイトル表記があるだけの無味乾燥な造本装丁といっていい。売れなかったことがわかるような気がする。それ以後の出版は見ていないので、昭和四十年代前半に消滅したと思われる。

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