出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1527 巌谷小波編『大語園』

 本探索の平凡社は『大辞典』によって第二次経営破綻を迎えてしまうのだが、同時期にやはり売れ行きが芳しくなかったと思われるシリーズを刊行していた。それは昭和十年に始まる『大語園』である。まずは『平凡社六十年史』を引いてみる。

 巌谷小波編の『大語園』全十巻は、日本、中国などアジア圏にひろく流布した神話、伝説、口碑、寓話等をあつめ、それを二十五の部門に大別した説話集成だった。いわば「今昔物語」の現代版とでもいったねらいのものであり、小波お伽噺以来の渉猟がそこにまとまっている。編集には巌谷小波、栄二の父子があたり、実際の執筆は木村小舟が手がけた。それほど成績はよくなかったが、今日ふり返ってみてユニークな出版物であったことは明らかだ。熊田葦城の『日本史蹟大系』全十二巻などとともに、編纂ものの中で特異な位置をしめている。

 私が架蔵しているのは全巻が裸本だが、菊判八百ページという大冊である。だが残念ながら、小波は昭和八年に亡くなっているので、『近代出版史探索』167でふれた「巌谷小波伝」の巌谷大四『波の跫音』(文春文庫)にも『大語園』に関する言及はない。それゆえに『大語園』についての詳細は小波に終生師事した、これも『近代出版史探索Ⅱ』315の木村小舟による『大語園』1に寄せられた「大語園の発刊に際して」を参照するしかない。この「凡例」と合わせて九ページに及ぶ、いわば「序文」は『大語園』の成立事情を語って余すところがないからだ。それをたどってみよう。

波の跫音: 巖谷小波伝 (文春文庫 い 15-5)

 明治四十年頃、小波は「伝説大全編纂の希望と抱負」を語り、小舟にその「前人未墾の新地域」の執筆を委託した。小舟はそれに約五年を要し、博文館から『東洋口碑大全』第一巻として刊行された。『博文館五十年史』を確認してみると、これは大正二年の刊行である。小舟はそこでの小波の「序文」を引用している。それは次のようなものだ。

 「子供が好きで(中略)子供の情緒、子供の趣味」が自分と同じで、「事実を描いた歴史や、人情を描いた物語より、想像を原として神話や、夢幻を主とした伝説」を面白く感じる。それゆえにこの二十年来、日本と世界各国の神話や伝説を整理蒐集してきた。しかしこれらの研究は「優に一代の事業」で、「此の議は漸く学者間にも認められて、既に帝国大学などには、それを専門に修めやうとする、篤学の人さへあるやうになつた」。だがもはや自分の仕事とするには荷が重く、小舟がそれを引き受けることになったのである。

 ところが第二巻の原稿は関東大震災によって灰燼に帰し、中絶の悲運を迎えてしまったのだが、大正十四年の夏に至って、先生は「極めて厖大なる計画の下に、最も完備せる物を作成せむとの希望」を述べられ、小舟も「欣然として、粉骨砕身、万事放擲、専心之に従事して必らず其成果を保つべく誓つた」。それというのも、参考資料のほうは実存していたからだ。したがって、『日本近代文学大事典』の小波の立項にも見えるように、木村小舟を執筆者とする 『大語園』の編集に着手したのは大正十四年だったことになる。

 その一方で、昭和三年に小波は千里閣出版部を設立し、小舟を編集長として、独力で『小波お伽全集』全十二巻を刊行し、五年に完結させている。それらの編集と経営に携わりながら、小舟は九年の夏までに予定量の三分の二までを執筆に至り、そのタイトルも 『大語園』の名を冠することに決まった。だがその完成を心にかけながら、昭和八年に小波は癌で亡くなってしまう。そこで小舟は東京帝大国文科を卒えたばかりの小波の次男栄二を協力者とし、その後の二年で一期事業の完了を見たのである。それは日本、支那、朝鮮、天竺に流布する神話、伝説、口碑、譬喩談などの結集大成だった。その一万を収録した「説話大集編纂過程」の最後を小舟は次のように締めくくっている。

(『小波お伽全集』)

 さて思ふに、日本古来の典籍中にて、彼の宇治大納言の今昔物語すら、其集輯する所の三国の説話は一千数百章を出でず、又外人の手に成れる仏本生譚の如きも、精々四百に過ぎなからう。然れば即ち其収録材料の当否は別とし、之を数量の点より見れば、我説話大集は正しく日本第一、否世界第一と称するも、敢て不当とは認め難い。殊に此の編纂事業が、父子相伝に依つて成されしてふ一事は、比類なき学界の美談として、永く後生に貽さるべきもの、先師在夫の英霊も、必ずや満足の意を表されると信ずる。斯くして私は十余年間の重責を果し、安慰一番、頭髪の既に白きを加へしを知つた。
 事や下中平凡社社長の識認する所となりて、之が出版を引受け、且其体様も取捨宜しきに塩梅し、五十音順を以て排列し、一冊一部の浩瀚なる書籍として世に出ることゝなつた。
 勿論先師当初の抱負たる、有りとあらゆる説話を余さず、悉く、結集するまでには、稍道遠き感もあれ、其第一期の事業としては、先づ此の程度にて遺憾あるまい。

 『大辞典』と同様に九牛の一毛的例を挙げるつもりでいたが、 『大語園』はいずれも長いので断念した次第だ。


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古本夜話1526 平凡社版『世界興亡史論』と『印度史観』

 前回ふれた平凡社の昭和六年の第一次経営破綻の前年には円本時代が終わりを迎えていたにもかかわらず、多くの全集、叢書、講座物が出されていて、それらの自転車操業的出版と雑誌『平凡』の失敗が重なり、倒産ではないにしても、開店休業の状態に追いこまれたことになる。

 (『平凡』創刊号)

 その昭和五年に『世界興亡史論』全二十巻が刊行されている。これは『近代出版史探索Ⅲ』502、『同Ⅶ』1295などで既述しているように、大正時代に興亡史刊行会から出されたもので、その復刻といえるだろう。だがその復刻はまったくそのままではなく、拙稿で明細を挙げておいたが、興亡史刊行会版は全二十四巻で、八冊が省かれ、新たに四冊が加えられ、そのうちの一冊が北一輝の『支那革命外史』であることにも言及している。

 

 平凡社の下中弥三郎の政治的ポジションに関して、これも『近代出版史探索Ⅶ』1333でアジア主義者としての下中にふれているので、『世界興亡史論』における北の『支那革命外史』の差し替えにも納得するところがある。しかし判然としないのは興亡史論刊行会の松宮春一郎との関係で、後に松宮は世界文庫刊行会として、『世界聖典全集』を刊行するに至っている。世界文庫刊行会と『世界聖典全集』については、『近代出版史探索』104を参照されたい。

世界聖典全集 『世界聖典全集』

 最近になって平凡社版『世界興亡史論』の4に当たる『印度史観』を入手している。これは興亡史刊行会版にも収録されていた一冊で、エドワルド・ラプソン、ヴィンセント・スミス著、岩井大慧訳となっている。

 この平凡社版の奥付には編輯者として世界興亡史刊行会、その代表として松宮春一郎の名前があることからすれば、松宮が平凡社に紙型とともに復刊企画を持ちこんだと考えるべきだろう。一方で平凡社の側からは資金繰りのための製作費の安い全集類のひとつとして受け入れられ、出版されたことになろう。

 『印度史観』に「序(印度、支那、日本の文化を比較論及して序に代ふ)」を寄せているのは東京帝大教授、東洋史学の白鳥庫吉で、印度と支那は東洋文化の二大本源地だが、それらはほとんど正反対の性質を有し、印度文化は宗教を中心として形成され、太古以来幾千年経過して今日に至っていると述べ、次のように記している。

 さて印度人特有のかういふ思想はどうして発生したのであらうか。これには自然界の状態や社会的事情やに於いて幾多の理由があるのであらうが、少なくとも其の一大原因として印度の社会の種族制度を挙げねばなるまい。さうして此の種族制度が成立するに至つた主要な動機は西方から移住して来た印度アーリヤ民族が其の土地の先住民に対して自分等の種族の特殊の地位を保存し、其の血の純潔を維持しようとするところにあつたのである。所謂四種族の階級のうちで初から峻厳に区別せられたのが此の先住民の子孫たる最下級のスウドラであるのを見ても、それが知られよう。

 『印度史観』はこのような視座に基づき、それが英領時代までたどられていくのである。そうして自ずから支那と日本の文化の比較が浮かび上がってくることになる。

 訳者の岩井によれば、『印度史観』のベースとなったラプソンとスミスの二著も白鳥の選定によるもので、岩井は東京帝大やモリソン文庫においても、白鳥の弟子であったようだ。

 ところでやはり昭和四年に『世界聖典全集』も改造社から新版が出されている。これは松宮がまずは『現代日本文学全集』で当てた改造社に持ちこんだが、売れ行きは芳しくなく、それで『世界興亡史論』のほうは平凡社を選ぶしかなかったのかもしれない。それからこれも前回の吉川英治と関連して、同じ彼の「年譜」の大正八年のところに、「松宮春一郎、水野葉舟氏らの世界文庫刊行会へ、筆耕仕事に通う」とある。残念なことに吉川の自叙伝『忘れ残りの記』(文藝春秋、昭和三十六年)は大正初年までで終わっているし、「年譜」にしても、記憶に基づく戦後の作成になるので、その「筆耕」への具体的な言及はなされていない。

   (『現代日本文学全集』) 

 ただこれが『世界興亡史論』、もしくは『世界聖典全集』にまつわる「筆耕」だったことは間違いないだろうし、それらの仕事が吉川文学にどのように反映されているのかも興味深いところである。しかし私は吉川のよき読者ではないので、それらを確かめられずにいる。


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古本夜話1525 平凡社『吉川英治全集』、『衆文』、『青年太陽』

 『近代出版史探索Ⅵ』1058などで続けて言及した新潮社の『昭和長篇小説全集』は、円本時代の大衆文学出版の系譜上に成立した企画だが、当初の予定と異なる収録作品の事実から考えても、それらの作家たちが人気を集め、よく読まれていたことを物語っていよう。

 (『昭和長篇小説全集』)

 その事実を示すように、同時代にそれぞれの個人全集が刊行されている。新潮社にしても、中村武羅夫、三上於菟吉、加藤武雄たちの『長篇三人全集』、林不忘、牧逸馬、谷譲次の三つのペンネームにちなんだ長谷川海太郎の『一人三人全集』、また『吉屋信子全集』を編み、『新潮社四十年』は「いずれも皆相当の成功を収め得た」と述べている。

(『長篇三人全集』)一人三人全集〈第2〉丹下左膳 (1970年) (『一人三人全集』)(『吉屋信子全集』) 『新潮社四十年』

 それは円本の『現代大衆文学全集』を出していた平凡社も同様で、詳細は拙稿「平凡社と円本」(『古本探究』所収)を見てほしいが、菊池寛、白井喬二、三上於菟吉、吉川英治、久米正雄の全集などを刊行している。『菊池寛全集』に関しては『近代出版史探索Ⅱ』387で取り上げているので、ここでは手元に端本がある『久米正雄全集』『吉川英治全集』にふれてみたい。

 (『現代大衆文学全集』)(『菊池寛全集』)

 先に『久米正雄全集』を挙げるのは、これが『平凡社六十年史』に昭和六年の倒産に際して、久米が登場しているからである。平凡社は『現代大衆文学全集』の成功を得て、昭和三年に国民雑誌をめざす『平凡』を創刊するが、売れ行きは悪く、返品の山を築き、翌年にわずか五号で廃刊になってしまう。そのために続けて出されていた全集類のいくつかの好調にもかかわらず、『平凡』の赤字を解消できず、百万円の不渡りを出し、休業に追いやられる。だが下中弥三郎は閉店ではなく臨時休業だとし、債権者会議で債務はすべて無利息一ヵ年据え置きなどの再建案を出していった。「今日只今賛成してもらえるなら諸君の債権は大部分生きると思うが、つぶれてしまつては二束三文になる」と。

(『久米正雄全集』) (『平凡』創刊号)

 『平凡社六十年史』はそれに続いて、次のように書いている。

 久米正雄君が立ち上つた。「諸君、社長の話を聞いて見ると、これは社長のいうことを信じて、社長に任してしまうほかに道がないと思うが」といつてくれた。ぱちぱちと手がなつて賛意が示された。(中略)
 久米正雄が債権者の一人として出席したのはその前年から『久米正雄全集』が刊行中だったためである。

 この全集は十三巻で、二万部刊行されたようだが、入手しているのは昭和五年一月刊行の第二巻『赤光』で、カラーの巻頭画は竹久夢二によるものだ。この作品は六三四ページに及び長編だが、ここでは立ち入らないことにする。

 さて『吉川英治全集』のほうだが、これは再建のための企画のひとつで、『江戸川乱歩全集』と合わせ、好調で急場を救ったとされる。前者は五、六万部、後者は十万部近い盛況だった。『平凡社六十年史』でも両者が言及されているが、前者のところを引いてみる。

(『吉川英治全集』) (『江戸川乱歩全集』)

 「吉川英治全集」では表紙の染色を毎巻変えたが、その第三回配本の色を言いあてた読者に、吉川英治の色紙、あるいは短冊を贈呈するという懸賞も行なっている。装幀は川端龍子だった。この全集の月報には著者自身も熱をいれ、書き下し長篇「無宿人国記」を連載したほか、「草紙堂漫筆」などを掲載している。吉川英治はこの月報を作者と読者をつなぐ媒体として活用したい考えだった。読者の側にも同様な欲求があり、やがて月報の読者を主体とした月刊 “衆文” が生まれ、それが「青年太陽」へと発展することになる。(中略)
 「吉川英治全集」の編集には吉川英治の実弟、晋も協力した。そして全集の月報が発展して雑誌形式にまとまった月刊「衆文」の編集も、ひきつづき晋が担当している。〈衆文〉という言葉は吉川英治の造語であり、〈新大衆文学〉あるいは〈大衆文学運動〉といった意味合いのものだった。小説ファン、作家志望者のために吉川英治を中心にして、膝をまじえた文芸研究を行なうことを目的とした会の機関雑誌として、「衆文」は刊行されたのだ。

 たまたま昭和六年発行の第三巻『牢獄花嫁』だけを所持していて、その表紙は青だが、残念ながら月報は付されていない。しかしこの部分をあらためて読み、吉川の「年譜」(『吉川英治全集』48所収、講談社)の疑問が氷解したのである。それには昭和七年のところに「大衆文学研究誌「衆文」を出す。約一年余にて廃刊」、九年には「雑誌『青年太陽』発行所をおく。倉田百三、白鳥省吾等と、地方文化に関心をよせ、各地に遊び、農村青年と語り、講演会などひらく」、十年には「青年太陽廃刊。始末に所持の書画古陶を美術倶楽部にて売る」とあった。

 つまりここでは平凡社の『平凡』と同様に『衆文』や『青年太陽』の失敗が語られているのである。だが平凡社の『吉川英治全集』、及び以前に興文社に在籍し、戦後に『近代出版史探索Ⅲ』586などの六興出版社に席を置くことになる弟の吉川晋にふれられていないので、吉川と『衆文』や『青年太陽』との関係が不明だったからだ。おそらくこの二誌の苦労はかなり大きく、それゆえに先述のような記載に終わるしかなかったように思われる。


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古本夜話1524 「家庭図書館」「総合大学」としての『大百科事典』

 『近代出版史探索Ⅲ』427などで見てきたように、平凡社では昭和二年の『現代大衆文学全集』から始まり、出版社としては最多の円本の版元となっていく。この事実に関してはそれらをリストアップした拙稿「平凡社と円本時代」(『古本探究』所収)を参照されたい。

 (『現代大衆文学全集』)  古本探究

 しかし当然のことながら、最初の『現代大衆文学全集』はベストセラーになったけれど、それに続く円本のすべてが順調だったわけではなく、雑誌『平凡』の失敗と相俟って、昭和六年には第一次経営破綻を迎えてしまう。その再建のための企画が『大百科事典』の刊行で、当時も編集業務は進められていて、それによって社運を挽回したとされる。その木村久一編集長は東京帝大で心理学を専攻し、大学教師などを経て、同年に平凡社に入社していたのである。『平凡社六十年史』もその編集部体制にふれているし、ここでしか見られない名前もあり、そのまま引いておくべきだろう。

    

 編集部には当時望み得るせいいっぱいのベスト・メンバーを揃えた。木村編集長のもとに、科学方面の主任のような立場で今井末夫と、新光社で「万有科学大系」の編集に当たっていた徳満喜義、さらに今井と同様原稿の審査にあたった沢田久雄、近藤憲二、天人社出身の鎌田敬止、ヨーロッパ帰りの、守田有秋、第一書房出身の酒井欣、東日学芸部出身の安成二郎、再入社した橋本憲三、「国際年鑑」を手がけたことのある古荘国雄、後に中央公論社取締役となる藤田圭雄、「科学画報」の編集長だった岡部長節なども参加している。女性は石川鈴子と小森歌子の二人だった。それぞれの分野の専門家や語学のベテランなどがおり、いかにも「大百科」編集部にふさわしい顔ぶれだった。
 沢田久雄は編集事務長として執筆者との交渉など、いっさいの事務を総括し、木村久一は編集長として項目の選定や記事内容、全体のつり合い、文体の統一などに注意を払った。編集の組織はカード調査部、原稿依頼蒐集部、原稿精査統制部、校正部、図版部、庶務会計部にわけられ、原稿依頼部はさらに自然科学およびその応用、精神科学一般、文学美術、社会一般の四部(中略)にわかれ、相互に連絡をとりながらひとつの有機体として動いた。

 そしてこれは『現代人名情報事典』』(平凡社、昭和六十二年)の木村の立項にも見えているが、それまで「エンサイクロペディア」の「辞典」に対し、事物現象の説明という意味を備えた「事典」を採用したのは木村のアイディアであったという。

現代人名情報事典

 もちろんその他にも多くのエピソード満載だったはずだが、それでも予告どおりの昭和六年十一月に『大百科事典』の第一巻が刊行された。その広告と下中弥三郎なども含んだ編集者の集合写真が並んだ一ページが『平凡社六十年史』に収録されている。

 最初の予約締切は十二月二十日だったが、予約者数は一万七千人を数え、さらに一年後には二万五千人に達したという。私が架蔵している『大百科事典』の奥付を見ると、まさに昭和六年十一月の刊行で、そこには平凡社の印紙が貼られ、「複製複刻転載を許さず」という文言が記されていた。またこれが上製で、定価五円五十銭とあるにもかかわらず、予約特価は三円八十銭とされていることからすれば、第一巻は一円七十銭という三割以上の値引きだとわかる。おそらく最初の数巻はそれが適用されたはずで、そのことによって二万五千人という予約者を獲得したのであろう。それゆえに、『大百科事典』は円本時代をくぐり抜けてきた編集と営業販売のエキスが凝縮して流れこんでいたことを伝えていよう。

 それはまた奥付に編輯兼発行者下中弥三郎とあるように、彼自身の『大百科事典』にこめた出版理念の凝縮でもあったといっていい。下中はその巻頭に「大百科事典を世に送る」を寄せ、次のように記している。

 新語辞典の元祖『や此は便利だ』を処女出版として発足した我社は『大百科事典』の完成を念願しながら二十年の歳月を満たす機会に到達した。
 本『大百科事典』は、新しさに於て一九三一年代のあらゆる知識を包括し、東西古今五千年、全世界に亙る森羅万象、人類史上の一切の事物現象を余すところなく網羅解説するあらゆる文化価値の一大宝蔵であり、万人の日常生活に欠き得ざる家庭図書館であり、坐りながら学び得る一大総合大学である

 『大百科事典』のコンセプトはこの日常生活における「家庭図書館」にして、「一大総合大学」という言葉に尽くされていよう。そしてそれはフランスの『ラルース』、ドイツの『マイエル』、イギリスの『ブリタニカ』に匹敵するものだという自負も語られている。確かに図版、写真、挿画を多く使用していることが特色で、私もかつて拙稿「講談社と『大正大震災大火災』」(『古雑誌探究』所収)において、「カントーダイシンサイ」のページを引き、その被害地図や死者、行方不明者数、及び家屋被災リストを示したことがあった。その記述は関東大震災から十年も経っていなかったことも相乗してか、まだ生々しいニュアンスがこめられているように思った。それから事件や災害は同時代の百科事典類で確認したほうがリアルなことに気づき、そのように『大百科事典』も利用してきたことを付記しておこう。

大正大震災大火災  古雑誌探究


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古本夜話1523 平凡社『大辞典』

 平凡社が前回の『や、此は便利だ』という辞典から始まったことや下中弥三郎の出版構想からしても、『大百科事典』=エンサイクロペディアに対応する『大辞典』=ディクショナリーの企画を考えたのは当然の帰結であった。それに『大百科事典』のために増えてしまった社員たちに、次の仕事を用意しなければならなかったのである。ただ下中のことだから、量質ともに在来の辞典を超える特色を意図した。『平凡社六十年史』から新村出の言葉を引けば、『大辞典』は「言語現象を一切平等に観じ来つて、地名であれ人名であれ、対等に収容して、索出者に最大の便利を与へたのが本辞書の一大特色」で、四六倍判、平均六五〇ページ、全二十四巻、後に二巻が追加され、全二十六巻で、昭和九年六月に第一回配本が始まった。

    

 この『大辞典』全二十六巻は二十年前に浜松の時代舎で入手し、新村のいうところの「本辞書の一大特色」もあり、調法に使っていたりもした。あらためてその第一巻を取り出してみると、幸いなことに「大辞典月報」第一号と第二号がそのままはさまれ、後者には新村の「新時代の要求 過去一切の規範を絶す」が寄せられ、先述の言がそこに記されたものだとわかる。また前者には下中の「大辞典第一巻の成るまで」が掲載され、そこには「好学癖の私」の事典や辞典に対する思いがリアルに表出しているので、その部分を引いてみる。

 私が、大正三年、平凡社を始めて「や此は便利だ」といふ字引を振出しに出版界へ進出したのは小さいながら大百科事典及び広国語辞典への憧憬を具体化したものだつたのである。その後漸く社が成長を遂げて字引の出版に取りかゝらうとした時、事典と辞書とどちらを先にするべきか一寸惑つた。百科も困難には相違ないがことばの大辞典は更にこんなであらうといふので先づ可能と思はるゝ方即ち百科辞典を先に出すことにした。
 私が大辞典に関する二十年来の腹案を具体化し始めたのは、昭和七年一月大百科事典の第二巻の顔を見た時のことであつた。(中略)
 本年(昭和九年)二月、大百科事典の完結と共に大百科事典の経験と組織を全部此の方面に集中して、(中略)この編輯に従事する者百数十人、文字通り昼夜兼行的努力によつて茲に第一巻を世に送り得、目下第二巻第三巻と続々進行しつゝある。

 そしてさらに下中はその全二十四巻の完成を想起し、「心秘かに歓喜に浸つてをる」し、顧問、執筆者、編纂組織の献身的努力に対し、たゞたゞ感激感謝に満たされてをる」とまで述べている。ここまで「編輯兼発行者」として、「歓喜」と「感激感謝」を表明している例は他に見ていない。それほどまでに下中は『大辞典』の刊行に打ちこんでいたのだろう。

 それに続けて「編纂顧問及び執筆者」の一部として、二百人ほどの名前が一ページ余に掲載され、個々の人々に言及しないけれど、『大辞典』という言葉の大きな森がこれらの人々によって植樹されていったことを浮かび上がらせている。

 まさにこの『大辞典』に関しては九牛の一毛的な例を挙げることにしかならないが、最近引いたばかりの言葉に言及しよう。それは『近代出版史探索Ⅵ』1055の生田春月『相寄る魂』に出てきたものである。主人公の龍田純一は上京したばかりの時に、一人の居丈高な男に次のような因縁をつけられる。

(『相ひ寄る魂』

 「おい、貴様はダツだらう!」
 「ダツつて何です?」
 「白ばツくれるな!」と男はいきなり大きんな平手でぴツしゃりと純一の頬辺を擲つた。

 純一ではないけれど、私も「ダツ」は初めて目にする言葉で、『大辞典』第十七巻を引いてみると、三十以上が見つかる。その中で、該当するのは次のようなものだろう。

ダツ だつ 隠語。(一)宿屋荒し(東北)。(二)竊盗共犯者。(三)盛り場を目的とする掏摸(北陸)。

 おそらく同じ「ダツ 奪」が隠語化され、東北や北陸地方で使われ、明治から大正にかけて、所謂「盗賊用語」として東京にも伝播してきたのではないだろうか。念のために、楳垣実編『隠語辞典』(東京堂、昭和三十一年)を確認してみると、戦後になっても「ダツ」は「だつ」として使われていたようで、宿屋荒し、窃盗の共犯者、板の間かせぎ、雑沓地のすりという四つの「だつ」が立項されている。しかしそのうちの三つは『大辞典』から取られたことが明らかで、下中の「歓喜」と「感激感謝」にあふれた『大辞典』は戦後になっても、その影響を辞典出版の世界に広範に及ぼしていたにちがいない。

隠語辞典

 しかし『平凡社六十年史』が語るところによれば、『大辞典』の予約者は五千人に満たず、全国的な書店営業と相次ぐ広告にもかかわらず、第七回配本を過ぎる頃には返品のこともあり、第一巻の実売部数が七千部ほどだったとわかった。だが月一冊の刊行は平凡社の信条に基づくもので、全巻完結すれば、売れるだろうと信じ、出し続けたが、昭和十年十月に第十五巻を刊行したところで、第二次の経営破綻をきたし、全二十六巻が完結したのは十一年十一月だったのである。その第十六巻以後の経費を引き受けたのは大阪の取次の柳原書店であり、これはまた別の物語となろう。


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