出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1538 三好達治「郷愁」と「今日の詩人叢書」、『測量船』

 三好達治の「郷愁」という詩を知ったのは『三好達治詩集』(新潮文庫)か、もしくはやはり新潮社の『日本詩人全集』の一冊で、高校の図書室においてだったと思う。その全文を引いてみる。

  三好達治詩集 (新潮文庫)  日本詩人全集 21―三好達治 

 蝶のやうな私の郷愁!・・・・・・。蝶はいくつかの籬(まがき)を越え、午後の街角に海を見る・・・・・・。私は壁に海を聴く・・・・・・。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

 そして後にフランス語にふれるようになって、具体的に「海」が la mer、「母」が la mère で、「母」の中に「海」を見つけたのである。

 この「郷愁」は石原八束の『駱駝の瘤にまたがって――三好達治伝』(新潮社)によれば、第一書房の詩雑誌『オルフェオン』の昭和五年二月号に掲載された。『オルフェオン』は堀口大学による編集で、やはり同年に第一書房からこの詩を収録した三好の処女詩集『測量船』が刊行され、堀口の絶賛を受けることになる。しかもそれは「郷愁」の「――海よ、」から始まる三行を示し、「三好君の日本語の美しさ」へのオマージュに他ならなかった。その長き全文は石原の著書に引かれているので、そちらを参照されたい。

  駱駝の瘤にまたがって: 三好達治伝  

 『測量船』は第一書房の「今日の詩人叢書」の一冊として出され、近代文学館の復刻を確認すると、「同叢書」は初版千部、一円とあり、次のような十冊が予定されていた。

1 堀口大学訳 『ポオル・ヴァレリイ詩論』
2 三好達治 『詩集 測量船』
3 岩佐東一郎 『詩集 航空術』
4 城左門 『詩集 近世無頼』
5 田中冬二 『詩集 海の見える石段』
6 青柳瑞穂 『詩集 睡眠』
7 竹中郁 『詩集 象牙海岸』
8 菱山修三 『詩集 懸崖』
9 三浦逸雄訳 『南風港市』
10 中山省三郎訳 『森林帯』

  (『象牙海岸』)

だが『第一書房長谷川巳之吉』所収の「第一書房刊行図書目録」を繰ってみると、「昭和五年から六年にかけて、7までは刊行されたが、それ以後の三冊は未刊に終わったようである。1に関しては『近代出版史探索Ⅴ』813でふれているが、ちなみに9は「イタリア訳詩集」、10は「ロシア訳詩集」だった。

 第一書房特有の豪華本に当たる大正四年の堀口大学訳『月下の一群』の四円八〇銭、昭和三年の『萩原朔太郎詩集』の六円に比べれば、「同叢書」の一円は安いといえるかもしれない。だが昭和円本時代はまだ終わっていなかったし、『測量船』が函入特製本だったとしても、わずか一一七ページであり、読者は限られていたと考えるべきで、三冊の未刊はその事実を告げているのだろう。

堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金   (『萩原朔太郎詩集』)

 『第一書房長谷川巳之吉』において、「長谷川は、特に詩の目利きとして抜群の力を発揮した。三好達治の『測量船』(昭5・12・20)を含む『今日の詩人叢書』収録の詩人たちをはじめ、長谷川の手によって世に出た者は少なくない」と書かれている。もちろんそのことを認めるにやぶさかではないけれど、「同叢書」の詩人たちのラインナップを見ると、前述の『オルフェオン』から生まれたシリーズのようにも思える。

 この『オルフェオン』は未見だが、『日本近代文学大事典』によれば、次のような経緯と事情によっている。昭和三年に日夏耿之介、堀口、西條八十の共同編集で、第一書房から高踏的詩誌『パンテオン』が創刊されるが、日夏と堀口の間に作品の評論をめぐる対立が生じ、全十冊で終刊となる。こちらも未見である。このあとを継いだのが堀口編集の『オルフェオン』で、彼の翻訳を中心として、三好、青柳瑞穂、岩佐東一郎、田中冬二、菱山修三たちが参加し、抒情詩の新しい流域をなしたとされる。この『オルフェオン』の参加者たちが「今日の詩人叢書」の主たるメンバーであることからすれば、後者は前者と併走する単行本の叢書化の試みだったことになろう。
 
   

 また三好に焦点を当てれば、「菊」と「郷愁」は『オルフェオン』、「私と雪と」は『文学』、「パン」は『作品』、「獅子」は『詩・現実』にそれぞれ発表されたものであり、それらの業績が『測量船』に他ならない。また「落葉やんで」では伊豆の梶井基次郎からの返書が語られ、「雉」は安西冬衛、「菊」は北川冬彦に捧げられている。それらもまた同時代の同人誌とリトルマガジン人脈を浮かび上がらせ、三好の処女詩集『測量船』成立前史を物語っていよう。それらは梶井たちの『青空』、『椎の木』、安西たちの『亜』、北原白秋の『近代風景』、伊藤整編集の『信夫翁』、春山行夫の『詩と詩論』であり、そうした出版状況と雑誌環境の中から、三好もまた登場してきたのである。

 

 なお『パンテオン』終刊後に、日夏耿之介は『游牧記』、西條八十は『蝋人形』を創刊するに至っている。


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古本夜話1537 長谷川巳之吉、岩佐又兵衛「山中常盤」、辻惟雄『奇想の系譜』

 第一書房に関してふれてこなかったことのひとつに、長谷川巳之吉による岩佐又兵衛の「山中常盤」の入手がある。それは社屋を芝高輪南町から麹町区一番町へと移転させた昭和三年のことだった。『第一書房長谷川巳之吉』では次のように述べられている。

  第一書房長谷川巳之吉 

 ところが、ここに長谷川の情熱を真底から揺がすような事件が出来する。それは、岩佐又兵衛の「山中常盤」の発見である。この年十二月十三日の夕刻、神田の一誠堂書店で長谷川は又兵衛筆と伝えられる「山中常盤」の八つ切写真十枚ばかり見せられる。近代的描法で描かれたその絵巻は、写真で見ても迫力があり、目を奪うに十分だった。しかもそれは、ドイツの美術批評家ルンプが二万五千ドルで買おうとしていた矢先のものであった。ここにおいて長谷川の正義感と情熱が噴出する。彼は「これだけの大芸術品を国外へ持ち出させてなるものか」と、即座に買うことを決意した。といって、それを購入する金があるわけではなかった。彼は新築したばかりの社屋を抵当にして銀行から借金する。また、それまでに収集した浮世絵を始めとする美術品、さらには電話まで一切を処分して、ついにこれを買った。まさに暴挙に類し、長谷川の生涯における一大ドラマの展開であった。

 これとほとんど同じ記述が辻惟雄の『奇想の系譜』(美術出版社、昭和四十五年)にも見られるので、この部分は辻の著書を参照して書かれたと推測される。それは『奇想の系譜』こそが戦後において、岩佐又兵衛と「山中絵巻」を再発見させた先駆的な一冊であり、それを抜きにして両者は語れないからだ。それにしても、この時代の美術出版社の書籍は翻訳も含めて名著が多く、これは論創社HP連載「本を読む」34でも挙げているけれど、広末保の『もう一つの日本美』(美術選書)でも、岩佐又兵衛への言及があった。ただそれは作者不詳とされる「浄瑠璃」のカラー紹介だったが、現在では又兵衛の作品とされ、MOA美術館所蔵全作品を収録した矢代勝也『岩佐又兵衛作品集』(東京美術、平成二十五年)には「山中常盤」「浄瑠璃」「堀江物語」の三つの物語が収録されている。

奇想の系譜―又兵衛-国芳 (1970年)     岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品

 ただ当時は又兵衛とその作品の存在を知っても、まだ画集は刊行されておらず、展覧会なども催されていなかった。それゆえに江戸の「奇想」の画家の出版も公開もただちに実現するような美術環境にはなく、それは辻が論じていた又兵衛以外の狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳たちも同様だったと思われる。

 ところが時代は変わるもので、今世紀に入ってほぼ同時に『芸術新潮』(二〇〇四年十月号)で特集「血と笑いとエロスの絵師岩佐又兵衛の逆襲」が組まれ、『奇想の系譜』もちくま学芸文庫化されたのである。

  芸術新潮 2004年10月号   奇想の系譜 (ちくま学芸文庫) 

 そして改めてその後の「山中常盤」の行方、及び「浄瑠璃」「堀江物語」に関しても確認することになった。まず先述の長谷川による「山中常盤」の「発見」と「救出」後の展開だが、昭和四年に全巻が京都博物館で展覧され、それに際して朝日新聞社の村山龍平所蔵の伝又兵衛筆「堀江物語」も賛助出品された。続いて翌年には東京・三越でも展覧され、盛況だったという。「浄瑠璃」は博文館の大橋新太郎の所有となっていたが、「山中常盤」の発見とともに知られるようになる。

 これらの三つの物語は慶長から元和、寛永の頃にかけて上演された「あやつり浄瑠璃」=「古浄瑠璃」の正本(テキスト)に基づく、室町時代のお伽草子の性格を受け継いだ夢幻的色彩と叙事性の強いもので、どぎつさと生々しさに満ちている。やはりそれは「山中常盤」に寄り添う辻の言葉を引いておくべきだろう。

 この絵巻の特徴は、まず彩色にある。人物や建物などには、群青、緑青、臙脂、丹、黄土などの原色による、けばけばしい配色に、金銀泥でこまかな文様が加えられ、はでな装飾効果が強調されている。そして、そのような過剰なまでの装飾性が、独特な表現的性格とも結びついているのである。人物や建物や樹木などは全体に大きく力強く描かれており、とくに人物の顔や手足や姿態のクセのある表現が印象的である。一種ふてぶてしい粗放さと、同時代の風俗画に通じる卑俗さが、全巻を通じて見受けられる。

 この「山中常盤」を始めとする三つの物語、辻がいうところの「古浄瑠璃絵巻群」はそれらの経緯と事情は定かではないが、戦後になって熱海美術館、後のMOA美術館に収蔵されるに至っている。そればかりか、すでに何度かにわたって公開されていることもあり、私も数年前に「山中常盤」の全巻を見てきた。その源氏の御曹司牛若を主人公とする物語絵巻は辻の言葉にあるように、「けばけばしい配色」、「過剰なまでの装飾性」、「人物の顔や手足や姿態のクセのある表現」、「一種ふてぶてしい粗放さ」、「同時代の風俗画に通じる卑俗さ」が充満する迫力を発していた。まさに『奇想の系譜』の幕開けにふさわしい岩佐又兵衛の作品だと思われた。

 これは辻の「文庫版あとがき」で「この本誕生の産婆役」は「当時美術出版社編集部の森清涼子」という女性であることを知り、何の根拠もないのだが、思わず牛若の母の常盤を想像してしまったことを付記しておこう。


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古本夜話1536 萩原朔太郎『詩の原理』と磯田光一『萩原朔太郎』

 前回引いた第一書房のPR誌『伴侶』はモルナアル『お互に愛したら』にふれた後、次のように続いていく。「詩集としては『詩の原理』(萩原朔太郎著)の普及版は古い形容ですが、飛ぶやうに売れました。某師範学校の教科書に採用されたり、随分出ました」。

 (『お互に愛したら』)

 この『詩の原理』普及版は入手していて、奥付を見ると、昭和三年十二月初版千七百部発行、四年六月普及版発行とあり、所持する一冊は昭和五年五月第十版で、確かに「飛ぶやうに売れ」たことがうかがわれる。

 
 
 第一書房と萩原朔太郎の関係は本探索で既述しておいたように、『詩の原理』に先行する昭和三年の『萩原朔太郎詩集』の刊行によって始まっている。その「萩原朔太郎詩集新刊に際して」という広告文が『第一書房長谷川巳之吉』に掲載されているので、それを抽出する。

 (『萩原朔太郎詩集』)  第一書房長谷川巳之吉 

 惟へば長き歳月、われは幾多の迂余曲折を辿りて今漸く『萩原朔太郎詩集』の刊行に及ぶ。何ぞその歩みの遅々として迂遠なりしことよ。されどそは、芳醇無比なる美酒をその応はしき革嚢に盛らんが為の切なる念慮に他ならざりしなり。
 幸ひなるかな。時機つひに至り、這般の遅疑は茲に金色燐爛たる本詩集となりて現はれぬ。これ年来の宿志にして我が詩集の装幀美はつひに確立せられたり。

 残念ながらこの詩集の実物を見る機会を得ていないけれど、「総革金泥装三方金」で六円という高定価であるから、長谷川にしても、第一書房にとっても会心の「装幀美」を達成した一冊だったのであろう。そしてさらに昭和四年から十二年にかけてアフォリズム系『虚妄の正義』『絶望の逃走』、『恋愛名歌集』、『郷愁の詩人与謝蕪村』、詩集『氷島』、『詩人の使命』などを刊行していくのだが、これも『萩原朔太郎詩集』の刊行に端を発しているはずだ。

虚妄の正義 (昭和四年)  ]

 しかしどうしてもわからないのは、『詩の原理』が「某師範学校の教科書に採用されたり」して、「飛ぶやうに売れました」という長谷川の証言である。それは回想ではなく、リアルタイムでのものなので、勘違いや間違いではないだろう。磯田光一は『萩原朔太郎』(講談社、昭和六十二年)において、『詩の原理』に至る朔太郎の詩論は「大正デモクラシーと民衆詩派の台頭から詩の自律性をどう守るかという潜在的なモティーフを持っていた」し、全盛のプロレタリア文学に抗するものだと述べている。

荻原朔太郎

 それは朔太郎が「序」で指摘している、民衆は文壇を見捨て、「詩的精神のある彼等の文学――即ち大衆文学」に走り、一方で「あの小児病的情熱の無産派文学」が台頭し、「あらゆるすべての事情が、今や失はれた詩を回復し、文学の葬られた霊魂を呼び起さうとしてゐる」。そうした大正から昭和初期にかけての文学状況に出版も呼応しているはずだ。だがここで留意すべきはこの『詩の原理』という文学概論的な理論書にあって、朔太郎は芸術の基盤を民衆に求めながらも、自らは民衆に阿る民衆主義者ではなく、秩序に反抗する自由な詩人として「逆に彼等を罵倒し、軽蔑するところの民衆主義者だ」と規定していることである。

 そしてさらに『詩の原理』は原理論と詩壇や文壇への意識が絡み合い、奇妙な二重性を有し、「島国日本か?世界日本か?」というテーゼに至るので、壮大な徒労に近い印象を与えたとし、磯田は次のように結論づけていう。

 詩壇の代弁者として理論を築きあげ、文壇に対抗しながら日本の詩の前途を論じたこの壮大な著作は、朔太郎の自負にもかかわらず、詩壇からも文壇からも、冷たくあしらわれただけであった。本文中の理論はともかく、奇矯な結論だけは、詩壇の人びとにはなんとも受けとりようもなかった。

 ところが磯田はこのように書きながらも、「『詩の原理』は詩壇から抹殺されたにもかかわらず、一般読者からは歓迎され、やがて普及版が出るほど好評だった」と何の論証もなく記している。磯田の『萩原朔太郎』には第一書房や長谷川巳之吉のことはまったくといっていいほど言及されていないので、先に挙げた長谷川の証言をふまえてのものだとは思われない。おそらく普及版とその奥付の重版を見ての記述ではないだろうか。

 ただこれは磯田の事情だが、彼は『萩原朔太郎』を連載中に、最終回を残して急逝してしまったこともあり、当然のことながら、完結後の加筆修正は施されていない。もし連載も終了し、単行本化に当たっての大幅な加筆がなされ、資料としての書影も示され、参考文献も付されれば、このような記述も修正されていたかもしれない。これはあえてふれなかったけれど、磯田は『詩の原理』の書下ろしと出版の背景に、馬込文士村に住む朔太郎と妻の稲子の家庭問題を見ている。そして磯田は当時誰も気づかなかったが、『詩の原理』が詩的比喩をもって書かれた『愛の原理』」の一面を持つとも指摘しているのだから。

 なお馬込文士村に関しては拙稿「坪田譲治と馬込文士村」(『古本探究Ⅱ』所収)、「広津和郎と『改造』」(『古雑誌探究』所収)、『近代出版史探索』168などを参照されたい。

古本探究 2 古雑誌探究 近代出版史探索


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古本夜話1535 第一書房、鈴木善太郎、モルナアル『お互に愛したら』

 第一書房に関しては『近代出版史探索』116を始めとして断片的にふれてきているが、これから少し続けて言及してみたい。

 創業六年目の昭和五年に第一書房はPR誌『伴侶』を創刊し、そこに「第一書房と昭和四年――高速度内幕話――」が掲載され、「単行本の成績」が語られている。この『伴侶』は未見なので、『第一書房長谷川巳之吉』からの再引用になるのだが、そこには「小説では、何んといつてもモルナアルの「お互に愛したら」(鈴木善太郎訳)です。題もいいし、内容もよかつたからでせう?」という一文が見える。

  第一書房長谷川巳之吉 (『お互に愛したら』)

 もちろん戦前においても海外文学の翻訳は流行に左右されるし、現在から考えてみても、どうして同じ訳者と出版社によって、多くが続けて出されたのか、奇異に思える外国文学者がいたりする。そのひとつの典型がここに挙げられたモルナアルであろう。第一書房は昭和三年の『開かれぬ手紙』から初めて、昭和八年までにすべて鈴木善太郎訳で、『お互に愛したら』『芝居は誂向き』『町のをんな』『男の流行』『奥さんは嘘つき』『恋はあれども』『陽気な女たち』と短編集、戯曲集を合わせて八冊刊行している。またそれらに先駆け、昭和二年の『近代劇全集』38の『中欧篇』にやはり鈴木訳で、モルナアルの『リリオム』などが収録されていることからすれば、第一書房、モルナアル、鈴木の関係はここに端を発し、その後の八冊の単行本化へと結実していったことになる。

 (『開かれぬ手紙』) 近代劇全集第38巻 中欧篇【非売品】(『近代劇全集』)(『男の流行』)

 しかし私たちにとってモルナアルはもはや馴染みが薄いこともあり、それらの翻訳と併走するように出された中央公論社版『世界文芸大辞典』を引いてみる。

 モルナール Molnar Frenc(1878~1952)ハンガリーの文学者。小説、戯曲をよくするが、特に劇作家としては世界的に有名、生地はブタペシュト。教養あるユダヤ人の家庭に生れ、始め法律を学んだが、後新聞記者となり、文学カフェ、舞踏場、カジノに入り浸つて、人生の皮肉な見方を覚えた。これはブタペシュート人の通有性である。しかも童心を失はず、常に皮肉の裏に愛情を湛へてゐる。出世作は子供の世界を描いた小説『パール街の少年たち』(1907)で、殆んど同時に発表された戯曲『悪魔』(1907)が又彼の劇作家としての位置を確立した。劇作の巧みなることは既にこの作品より現はれてゐる。然し、彼の名を世界の舞台にひろめた戯曲は『リリオム』(1909)である。(後略、また原語タイトルは省いた)
リリオム (1951年) (岩波文庫)  リリオム [DVD]

 ちなみに訳者の鈴木善太郎も『日本近代文学大事典』に見出せたので、こちらも引いておく。

 鈴木善太郎 すずきぜんたろう 明治一七・一・一九~昭和二六・五・一九(1884~1951)小説家。劇作家。福島県郡山市生れ。明治三八年早大英文科卒。国民新聞、のち東京朝日新聞記者となり、はじめ秋風と号した。短編小説集『幻想』(大七・一 万朶書房)にすでに完成した鋭い社会認識がみえ「文章倶楽部」(大七・九)には新進作家として菊池寛、野村愛正とともにその名が掲げられた。研究座などに新劇運動のかたわら大正一一年の欧米遊学を経て、とくにフェレンツ=モルナールの紹介にその半生を傾けた。(後略)

 このモルナアルと鈴木による第一書房の最初の単行本である『お互に愛したら』を入手している。菊判の裸本だが、第一書房特有の造本の面影は保たれ、そこに収録されている五枚の挿絵はモルナアルの世界をうかがわせているようだ。これはいずれもLEO KOBERの署名入りなので、『世界文芸大辞典』を確認してみたが、立項されておらず、また『新潮世界美術辞典』にも見当たらない。この時代にモルナアルとコラボレーションしていたマイナーな画家なのであろうか。

 モルナアルの短篇集『お互に愛したら』には表題作も含め、二十八篇が収録され、そのうちの五篇にKOBERの挿絵が添えられている。ここでは二番目の「博士夫人の拾ひ物」に寄り添う「THE PEARL」を見てみる。その挿絵は劇場らしい階段のところで、一人の若い夫人が何かを見出し、拾ったような姿が描かれ、それを斜め後ろから見ている若い男、ユーゲネがいる。その下に「THE PEARL」とあり、やはり英語でキャプションが示されているけれど、これは私訳してみると、次のようになる。「若い女性が階段を降りてきて立ち止まり、赤いカーペットの上から何かを拾った。それは大きな本物の真珠で、その発見は彼女にあふれんばかりの法悦と開放感をもたらした」と。

 ユーゲネも、また後からきた夫の博士も、彼女が拾ったものは何かと訊ねたが、何でもないと答えるだけだった。彼女の夫はかなり年上のようであるけれど、「博士夫人は若くて、健康で、立派な体格をしてゐた。そして派手な着物と、お昼時に街の中をぶらぶら歩く事が好きであつた」と説明される。そうした夫婦の関係と彼女の性格に見合って、拾った大きな本物の真珠は「あふれんばかりの法悦と開放感をもたらした」のである。それは彼女の日常生活をかき乱し、ユーゲネや夫の博士にも影響を及ぼしていく。そうしてかもし出される彼女とその感情の動向は博士に「電流のやうな嫉妬の情」を湧き立たせ、ユーゲネには「極度の幸福感」を与えたりした。しかし結局のところ、彼女は憔悴してしまい、夫に真珠を拾ったことを告白し、それを博士に手渡し、「わたくし真珠を手放してから、あなたといふ拾ひ物をしました」と述懐する。「そして彼女は博士に熱いキッスをした。/これがこの話の終りである」と閉じられている。束の間の真珠幻想譚とでもいっていいのだろうか。

 その後判明したことによれば、LEO KOBER=Kóber Leóはハンガリー人の両親を持つチェコ生まれの画家、イラストレーターで、ウィーンやブダペストでも挿絵画家として活動していたとされる。


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古本夜話1534 中村不折『芸術解剖学』と泰西名画家伝『ティチアン』

 中央美術社と日本美術学院などに関しては拙稿「田口掬汀と中央美術社」(『古本探究Ⅲ』所収)の他に、『近代出版史探索』163や『同Ⅱ』243などでも言及してきたが、やはりその後入手した本も二冊あるので、ここで取り上げておきたい。

 その一冊は拙稿でも書名を挙げておいた中村不折『芸術解剖学』で、大正四年初版、十四年改訂発行とあり、本扉には日本美術学院刊と記載されているけれど、奥付は中央美術社となっている。ただ同じくそこに「日本美術学院蔵版」と見えることからすれば、初版時の刊行は日本美術学院、改訂版は中央美術社に移されたと判断できよう。これは裸本だが、菊判上製の芸術書らしいシックな造本で、口絵写真には人体模型に加え、身体各部の解剖図、本文にも豊富な解剖挿絵を配置し、巻末には付録として、不折自らのデッサンが収録されている。

 (『芸術解剖学』)

 不折はその「緒言」において、ヨーロッパの現代絵画の影響を受け、「芸術解剖学の如きも、絵画には全く不必要なものである」といった主張をする人々も生じているが、芸術の基礎として、デッサンや解剖学に基づく人体の研究が不可欠で、現在のような裸体研究が自由に行なわれていることからすれば、「解剖学は其の基礎として必ずやらなければならぬ重要科目」だと述べている。

 この『芸術解剖学』を購入したのはそこに人体の構図として「動物性管」と「植物性管」が示されていたこと、及びその少し前に三木成夫の『生命形態の自然誌』第一巻『解剖学論集』(うぶすな書院)を読んでいたからである。それは同じく時代舎で購入した前田恒太郎『人体解剖学』(南江堂)とともにだった。おそらく同じ所有者が放出したものと思われた。

 生命形態の自然誌 第1巻  人体解剖学

 もう一冊は『ティチアン』で、これは大正十年五月三版で、やはり発行所は日本美術学院である。もちろん発行者は田口鏡次郎=掬汀だが、著作者を岩崎真澄としているにもかかわらず、奥付の捺印紙には「日本美術学院」の判が押されているので、印税は生じておらず、買切原稿だったと考えられる。同書は「序」によれば、クナックス『ティチアン』の作品解説と評伝を兼ねたもので、「逐語的訳語」ではなく、「なるべく読み難い翻訳口調を避けるために出来るだけ原文を砕いた」とされる。

 (『ティチアン』)

 それにならって、ドイツ語読みのTizian=ティチアンなる画家も同書ではなく、『新潮世界美術辞典』で「砕い」てみれば、イタリアのルネサンス期のティツアーノ・ヴェチェルリオである。彼はヴェネツィア派最大の巨匠とされ、代表作は寓意図「性愛と属愛」、祭壇画「聖母の被昇天」、有像画「パオロ三世と孫たち」「カール五世騎馬像」、その他に「バッカーナーリア」「バッカスとアリアドネ―」「ウルビーノのヴィーナス」「ダナエ―」などの傑作が多い。また晩年になっても「荊冠」「ピエタ」には色彩の魔術師としての本領が発揮され、同時代の画家だけでなく、リュベンスやベラスケスなど後世の画家にも影響を与え、近代の油彩画の発展に先鞭をつけたとされる。これらの作品はボルゲーゼ美術館やプラド美術館を始めとするヨーロッパの各美術館に収蔵されている。

 新潮世界美術辞典

 『ティチアン』のカラー口絵は「フロォラ」で、これはウフィーツィ美術館にあるようだ。その他にも同書にはモノクロだが、「聖母被昇天」「ダナエ―」「荊冠」などの三十五の作品がアート紙一ページで紹介され、それらは大正時代の世界美術全集ともいうべき『泰西の絵画及彫刻』(洛陽堂、大正四年)を彷彿とさせる。同書については拙稿「洛陽堂『泰西の絵画及彫刻』と『白樺』」(『古本屋散策』所収)を参照されたい。

(『泰西の絵画及彫刻』)

 さてこの『ティチアン』も同様に「泰西」を付した「泰西名画家伝」の一冊とされ、その「刊行の趣旨」が巻末に掲載されているので、それを引いてみる。

 泰西絵画の日本に来るもの近時漸く多きを加へ、また日本の画家の欧州に留学するものも著しく其数を増した。泰西絵画の真の理解と鑑賞との大に与る可きはこれからである。此時に際して本学院が「泰西名画家伝」の大叢書の出版は頗る有意義の計画であらねばならぬ。
 従来泰西画及画家の評伝の日本に出版されたものもないではないが、それは甚だ断片的であり、また非系統的であつた。従つてセザンヌ、ゴーギヤンを口にしながら他の記憶すべき十九世紀諸家の名を知らず、ミケランジエロ、デユラーを讃へながら他の復興期諸家を忘却する如き変態をさへ生じてゐる。
 泰西名画家伝に収めらる可き大名は文芸復興の初頭より十九世紀末に至る間の西洋画の正系を尽すべく、吾人は比標準の樹立によつて一般鑑賞界乃至批評界に貢献する処大なる可きを信ずるものである。
 此叢書の執筆者は芸壇文壇に亙て広く物色された適材である。其題目と著者とに従つてこそは或は諸家の言説を参照せる上に自家の見を立てたる純然たる創作となり、又或は西洋名著の翻訳ともあるであろう。

 少しばかり長い引用となってしまったが、これは大正時代の「泰西絵画」の紹介状況を伝え、しかもこの「刊行の趣旨」は田口によるものと考えられるので、あえて省略を施さなかった。また奥付裏には既刊「泰西名画家伝」として、黒田重太郎『ワ゛ン・ゴオグ』、佐久間政一『セガンテイニ』の広告がある。ゴッホはまだゴオグと呼ばれていたことを教えてくれる。はたして「泰西名画家伝」は何冊出たのであろうか。

 (『ラファエロ』)

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