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【自治会、宗教、地方史】No. 41 第二部15  推測の話(続き)——行政・ゼネコン・設計事務所の三位一体

推測の話(続き)——行政・ゼネコン・設計事務所の三位一体

 
小田 : だが後になって、T王寺問題を調べていくうちに、市とゼネコンと設計事務所が三位一体のようなかたちで、昭和40年代の開発に取り組んでいたことがわかり、それに先代もかかわっていたはずだ。
 後発ではあるけれど、私が設計事務所やゼネコンとも関係するに及んで、他ならぬ自分もまったく無縁だったといえないことに気づかされた。

A : でもあなたの場合は利権などとは関係のない純然たる民間プロジェクトだから、そこまで気にすることはないんじゃないかな。

小田 : それはそうなんだが、ひとつの点で考えるのではなく、歴史と社会という線と面で捉えるならば、同時代の同じ地域でのプロジェクトであり、共時的な出来事と見なすべきだと思ったりもしたからだ。
 それにバブル崩壊以前の開発環境と社会意識のことも思い出されたので。

A : 確かにそれはいえる。今となって考えてみれば、バブル経済の只中での開発は異常だったと考えるしかない。

小田 : それは行政のほうも同様だし、必然的に地方も巻きこんで展開されていたのは自明のことで、やはり同じ社会状況下にあったのは事実だ。だからそれらも踏まえ、色々と調べてみたことになる。

 それらのすべてを挙げることはできないかもしれないが、自治会にとってきわめて重要なのは、昭和52年における市街化区域と調整区域による分断で、それも薬師如来の指定文化財化とパラレルに生じている。

A : つまり高度成長期とバブル時期がつながっていたし、その過程で自治会も大いなる変貌にさらされていたわけだ。それをあなたは身をもって体感していたし、そうした意味において、市やゼネコンや先代などの近傍にあった。

小田 : それは否定できないし、そのように考えてみると、かなり謎が解けるように思うし、それをT王寺=T應寺=T応寺説と文化財指定問題に当てはめてみる。前にいったことと重なっているところもあるけれど、もう一度たどってみる。

 まず『市誌』おけるT王寺の薬師如来の件はゼネコンの社長を通じて、先代へと伝えられたと推測される。なぜならば、発掘のタニマチと教育委員を兼ね、『市誌』の記述に詳しかったのはその社長に他ならないはずだ。刊行から20年後のことだし、その箇所を記憶していた人はそれほど多くないし、教育委員会の人たちにしても、その関係者にしても、「文化財専門審議委員会」の内実や答申からすれば、読んでもいないことは明白だ。

 もちろん政教一致で市議会議長の先代におもねる議員や市の職員がいたにしても、そこまでのサジェッションをする人物はゼネコンの社長以外に見当たらない。ちょっと強引な推理かな。

A : いや、あながち間違っていないと思うし、いい線をついているんじゃないかな。
 それが刊行時から数年後のことであればともかく、20年後のことだから、それを覚えている人物は限られているし、T王寺=T應寺=T応寺説を実証できる裏付けがなければ、そんなことを吹きこんだりしないはずだ。

小田 : そう、実証も裏付けもないのに、ひきつけたことになる。それは先代ではないけれど、自分がいうことは通るだろうという自信を持った人物でないと、あえて言い出せないと思う。そう考えてみると、ゼネコンの社長しかいないし、開発をめぐる案件で二人はコラボレーションしていたとも考えられるしね。

 このゼネコンではないけれど、先代と別の建設会社の社長との親密な関係も周知のものだったし、実際に老人憩の家の建設を受け持ったのはこの会社だった。といって、こちらの社長も先代と同じく、『市誌』を読むような人物ではないし、癒着していても、そうした関係ではないので、最初から除外していい。

 それに、先代は市における政教一致の実力者だったとしても、まったく文化人ではなかったので、そうした方面からサジェッションがもたらされたとは考えにくい。

A : とすれば、そのゼネコン社長からのアドバイスと考えるしかないし、深読みすれば、何らかのバーター案件だったのかもしれない。

小田 : さすがに鋭いね。あなたも開発プロジェクトでは色々と苦労しているから、そう考えるのは当然だ。だがこれらの問題は具体的な証拠もないし、実証できないので、ここら辺で止めるしかない。

【自治会、宗教、地方史】No. 40 第二部14  推測の話——ゼネコン社長の思いつき

推測の話——ゼネコン社長の思いつき

 
小田 : これは私の推測だけど、我々が想像する以上に市議会議長というのは権威のあるポストだったんじゃないのかな。市会議員のトップに立つわけだから、市長と比肩するようなポジションと見なされていたのかもしれない。
 そうなると取り巻きや追従者が群がってきて、色々な情報を吹きこむ。私などはえらくなったことがないので、そこらへんの細部事情はわからないのだが。

 でもこの一件に関して調べているうちに、わかってきたこともあり、これも推測だが話しておくべきだと思う。そうすると、私もまったく無縁ではないことがわかってきたからだ。

A : それはおもしろそうだね。聞かせてもらいましょう。

小田 : まず市制発足にともなう『市誌』編纂が国分寺の発掘を背景とする歴史的文化的なバイアスをともなっていたことにふれましたが、その編纂委員長は市長で、彼は集古会の主要メンバーの息子なんです。

A : じゃあ、あなたが出版した山中共古『見付次第/共古日録抄』とダイレクトにつながっている。

小田 : しかも『見付次第』の原本は、現在慶應大学に架蔵されているが、かつては市長の父が所持していたもので、柳田国男にしても、それを借りて読んでいる。

 そのことはひとまずおくとして、重要なのは編纂委員として教育委員であるゼネコンの社長が含まれていることだ。これは『市誌』と発掘の関係を調べていく過程で判明したのだが、石田茂作を招聘したのはこの人物だったのである。

 彼は私家版の何冊ものメモランダムを刊行していて、市立図書館に架蔵されていることもあって、読んでみた。すると昭和26年当時は戦後のことゆえに、旅館事情もよくないので、石田たちを自宅に泊め、食事なども賄ったとの記述が見つかる。それに車のない時代だったので、発掘関係者の手配も大変だったと書かれていた。

A : でも考えてみれば、それは当たり前だね。現在の感覚で当時のことを判断すべきでないという格好の証言だし、国分寺周辺ではないO寺の薬師如来をわざわざ見にきたはずもないという裏付けにもなる。

小田 : 6キロ以上離れているわけだから、車がなければ行けたはずもないし、発掘日程からして時間的にもそれがありえなかったことは明らかだと思う。これで石田茂作が調査し、高く評価され、文化財指定というストーリーがまったくのフィクションだとわかるでしょう。

 ところが先代が政教一致の大物だと思われるようになって、誰かがT王寺=T應寺説を吹きこんだのではないかと思う。ご当人はまったくの世俗的な人物で、『市誌』の記述にふれるはずもなく、やはり昭和50年近くになって、そのことに気づいた。それを教えたのは国分寺発掘のタニマチといえる存在で、教育委員でもあったゼネコンの社長ではないかと。

 それは昭和40年代の開発を通じて、ゼネコンと市の関係は密接につながり、そこに市会議員たちも絡んでいたし、まさに南部地区の政教一致の実力者として、市にしてもゼネコンにしても、大いに利用できる立場にあったからだ。
 そもそもゼネコンの社長が発掘に関わったのも、そこに道路計画が生じていたからだし、そのことを通じて、市との関係を強固にしようとする意志があったと見ていい。

 しかしこの問題を考えていくと、自分にも跳ね返ってくるわけだ。実は市の開発計画をめぐって、丹下健三系の設計事務所がコンサルタント的存在として、深く関わっていたようなんだ。

A : その設計事務所というのはあなたとコラボレーションしているところじゃないの。

小田 : そうなんだ。うちはここに設計監理を依頼し、そのゼネコンが建設工事を引き受けているし、社長のほうとも会っている
 ただそれは建設プロパーではなく、山中共古をめぐってのもので、地場の印刷所の役員が紹介してくれたことによっていた。ただ当時、もはや引退し、会長となっていて、その数年後に亡くなっている。

 私のほうはまだ自治会長ではなかったし、T王寺問題についても知らなかったので、発掘事情なども含め、尋ねることはなかった。でもそれでよかったと思うし、尋ねたとしても真相は語られなかっであろう。

A : 私もそう思うよ。

【自治会、宗教、地方史】No. 39 第二部13  失われた多層的な信仰世界、歴史意識なき短絡的な捏造

失われた多層的な信仰世界、歴史意識なき短絡的な捏造

A : これは先にふれなかったが、薬師(やくし)は薬師寺、薬師堂薬師如来として使われていくけれど、一方では薬売りの薬師(やし)にもつながっている。

  ちょうど年代のことが出たからいうけれど、10世紀以後には仏教が普及するにつれ、仏に香具を備える習慣が広がっていった。香具とは抹香や線香のことで、薬が山などの薬草だったことに対し、香具のほうはスギやヨモギが材料で、薬師はそれらも扱うようになり、その商品需要が高まると、薬師は香具師(やし)とも呼ばれるようになった。当然のことながら、 行商から市や祭や縁日などでの商売が主流となっていった。

小田 : なるほど、それが香具師、つまり的屋の誕生ということになる。あなたのいいたいことはわかりますよ。この薬師如来は香具師如来ではないかと。

A : でもそういったら神農をまつる香具師に対し、かえって失礼かもしれないが。

  そちらの自治会には金山神がまつられた小さな森がある。それは近くで鍛冶屋を営んでいた家が故郷から連れて来たのではないかという推測をあなたから聞いたことがあります。これは鉱山師(やまし)の守護神の金山彦命(かなやまひこのみこと)を意味していたのだろうし、ちなみに木地師は惟喬親王(これたかしんのう)と山の神をまつっている。

小田 : 木地師の守護神のことは折口信夫が「木地屋のはなし」(『折口信夫全集』15所収)で書いていたし、私もかつて田山花袋のサンカ小説にふれた際に言及している。

折口信夫全集 第15巻 民俗學篇1 (中公文庫 S 4-15)

 でも平安時代などに発生した庚申信仰なども、村山修一の『日本陰陽道史話』(平凡社ライブラリー)などを読むと、中国伝来の陰陽道と密接にリンクしているらしく、とても興味深いし、法人化する前には自治会の行事にも組みこまれていたからね。

日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)

 それは金毘羅信仰も同様だし、J寺とT応寺の創立は17世紀前後とされるので、それ以前の宗教的環境を考えると、仏教が普及していくベースとして、金山に象徴される山神信仰、金毘羅に見られる海人信仰、陰陽道に基づく庚申信仰などが混在し、多層的に積み重なっていたとわかる。

 それに地の神、かまどの神といった生活をめぐる神たちもいたし、昭和30年代まではそうした多くの神がいる生活環境の中で暮らしていたことをあらためて思い出すよ。

A : そこまでではないけれど、私も神社の祭りで、煮しめなどを持ち寄って営まれていた時代を考えると、都市近郊と農村のちがいはあるにしても、所謂近代化の過程においてもそれらは生活のベースに組みこまれ、無意識のうちに営まれてきたといえるかもしれない。

 それでも神社のほうは戦時下の大政翼賛会による祭礼などの義務化があり、その繁栄だとも解釈できるのだが、寺のほうは根が深い気がする。

小田 : それはそのとおりで、いってみれば、寺のほうは死者を人質とし、墓の管理も担っているので、どうしても檀家に対する影響力は強い。

 よく考えると、J寺にしても、天正8年=1580年創立だから、国分寺ほどの長い歴史を有しているわけではない。しかし神社と異なり、常時住職がいて、仏教行事も行なわれれば、檀家でない住民にしても、影響を受けざるをえない。

A : それもわかるのだが、そうした仏教問題もさることながら、歴史記録者として檀家などの縁起を記す役割も帯びていたんだじゃないのか。

 フランス史の場合だと、寺院や教会に残されていた地域や住民の記録から、ミクロな地域の生活史を浮かび上がらせ、各時代の社会史ともリンクさせていく方法がとられている。

小田 : アナル派のことをいっているのでしょう。それは地方によってちがうかもしれないけれど、ないものねだりというしかない。そうした歴史意識があれば、出鱈目な薬師如来の文化財指定の申請などはありえない。住職のコンプライアンスの欠如については前述したが、先代の歴史認識もまったく欠けている。

 それは『郡誌』はもちろんのこと、『市誌』すらも所持していないし、読んでもいなかったと思う。『市誌』の刊行は昭和29年で、指定文化財申請は50年だから、20年間のタイムラグがある。
 石田茂作が26年に薬師如来調査に来ていないことは明白だし、O寺の薬師如来がそんなに貴重なものとは誰も思っていなかったし、それは先代も同様であることは間違いなと思う。

A : それではどうして知ったということになるね。文化財申請は県議会議員選挙に出るための箔をつける目的なのは理解できるけれど。

【自治会、宗教、地方史】No. 38 第二部12  文化と宗教と開発の三位一体?

文化と宗教と開発の三位一体?

小田 : 『市誌』の刊行は昭和29年で、T王寺とT應寺が同じだと誰も思わなかったし、まして地区の薬師如来像が『市誌』にある「古文化財」だと誰も認識していなかった。それが20年後に市の指定文化財として申請されたわけで、本当に冗談もいい加減にしてほしいというのが正直な気持ちだ。

 申請したJ寺の先代も先代だが、それを認可した市や教育員会にしても、無知につける薬はないし、夜郎自大な行為だとしか思えない。私も歴史家の端くれなので、まずは歴史的な事実から検証してみる。

 『市誌』の「市内の古文化財(藤原時代)」は平安時代の794年の中期から12世紀末にかけてをさしている。ここに挙げられているのはその時代の「古文化財」で、T王寺と薬師如来像もそこに位置していることになる。

 ところが、『郡誌』によれば、自治会のほうのT應寺=T応寺の創立は1600年、安土桃山時代の慶長5年。ちなみにJ寺は1580年、天正8年。そうした歴史的事実から見ても、T王寺とT應寺=T応寺が同じはずがない。

A : 当然だね。少なく見積っても、タイムラグが4世紀もあるわけだから。それは薬師如来像にしてもしかりだし、子どもでもわかる事実だ。

 それにT王寺の薬師如来像が何らかの遍歴を経て、T応寺へ伝わったにしても、その4世紀のタイムラグは長すぎて、最初から信じられないというのが実際のところだろう。

小田 : そうでしょう。それが当たり前の反応だと思う。それなのに何の疑問もなく、スムーズに認可されてしまった。

 情報公開によって明らかにされたのは『市誌』上巻「202頁」がその根拠だということだけだ。本来であれば「203頁」の「市内の古文化財」であるはずなのに、それすらも間違っているし、石田茂作は鑑定などしていないと思われる。[編注:下記記事参照]
odamitsuo.hatenablog.com

  だから、202、203頁も含んだ「平安時代に於ける美術」を読めば、そうした根拠にもなっていないし、誤読と曲解によることは明白だ。

A : 確かに文化財専門審議委員のリテラシーと見識を疑ってしまう。ところでその委員会の議事録はなかったのかしら。

小田 : なかったし、「別記の答申」として、「[旧T應寺本尊]薬師如来像 一本造[四尺三寸]所有管理者J寺」に対する次のような手書きの「推薦理由」が挙がっているので、それを引いておきます。

 「平安後期の作」と推定されているが、後世の補修により、原形を損じている。
 当地方としては、数少ない藤原仏の1体であり、文化財として貴重なものである。
[昭和26年石田茂作博士 調査:市誌p202]

 先に202頁の半分ほどを引用しておきましたが、このような「推薦理由」はどこにも記されていないのです。
 それに加えて、やはり手書きで、「寺伝によれば、定朝法師の真作と伝えられる。天正年間[編注:1573‐1592年]に眼病が流行した時、病気の平癒祈願をしたところ、大変ご利益もあり、家康も信仰され」とも書かれている。

 この「寺伝」も真偽は疑わしい。定朝は仏師であっても「法師」=僧侶ではないし、1057年=永承12年に死去している。T王寺の創立は慶長5年=1600年だ。ここでもタイムラグが6世紀も生じているのに、まったく脈絡もなく、説明も欠けた記述に他ならない。

 それから「推薦理由」の「藤原仏の1体」「後世の補修」などの文言は210、211頁の西光寺薬師如来に関しての記述を抽出アレンジしたもので、これらの手書き文字はすべて先代によるものだと思われる。つまり自作自演の指定文化財申請だと断言していいでしょう。

A : ということはすべてでっち上げということになるのかな。

小田 : そのように判断していいと思う。先代は市議会議長にも就き、政教一致を体現する存在として、また当時の南部地区開発の実力者として、自分のいうことであれば、何でもフリーパスで通ってしまうと思うまでになっていたのでしょう。

 それに私欲も絡み、さらには県会議員への立候補の野心も生じていただろうし、定朝の薬師如来像で箔もつけたいし、それを通じて土地も建物もJ寺のものにしたいと考えたのではないか。そうした私欲と野心の表われが、昭和49年の御開帳をともなうO寺の大修理と改装、50年の薬師如来の指定文化財化、58年の薬師堂登記へとつながっていった。それに連鎖するのは南部地区の土地開発で、これもまた薬師堂化と密接にリンクしている。

 だから先代の自治会における政教一致というポジション、O寺の薬師堂化と薬師如来の指定文化財化、南部地区の土地開発は三位一体のような関係で進められたと見なせる。

 でもこのことに言及する前に、あなたのほうでもいいたいことがあるんじゃないかな。

【自治会、宗教、地方史】No. 37 第二部11  県市町村誌/史の衰退、または残り続ける錯誤

県市町村誌/史の衰退、または残り続ける錯誤

A : それはどこでも同じじゃないかな。先に名著出版が昭和43年に創業し、全国の県市町村などの復刻を始めているが、それは43年の明治百年を迎えての近代日本の見直しというか再考のトレンドとなり、多くの関連文献が出版された。

 それに合わせて、ずっと絶版状態にあった県市町村誌 などにもスポットが当てられ、復刻が盛んになったのであり、そのことを抜きにして、地方史文献のことは語れないのではないか。

小田 : なるほど、それは確かにいえるね。でもそれらの復刻にしても少部数で、書店の外商を通じての販売が主で、書店の店売商品としてではなかったので、やはり目にふれる機会は少なかった。

A : それはしょうがないよね。結局のところ、それらは地方、郷土史文献で、全国的に売れるものではなく、高定価買切商品だから書店の店頭で売る対象にはならない。
 それにブームの時ならともかく、売れる部数にも地域差があるらしく、なかなか復刻も完売は難しいと聞いている。

小田 : それで思い出したが、『震災に負けない古書ふみくら』の佐藤周一さんは 昭和61年に郡山の駅前で 郷土史を中心とする古本屋を開店し、当時はよく売れたようだ。
 佐藤さんの言によれば、個人的にも郷土史が趣味で、それで力を入れたわけだが、地方自治体にしても、それぞれ市町村史を編んで刊行するのがブームでもあり、それに便乗したことも功を奏したといいます。

震災に負けない古書ふみくら (出版人に聞く 6)

A : ということは前世紀、つまり20世紀の間はまだ地方史ブームは続いていたことになるね。

  地方・小出版流通センターが発足したのが昭和51年だった。それまで地方出版物、小出版社の出版物は通常の書店ルートでは流通販売されていなかったので、地方・小出版流通センターの発足は意義深いものがあった。

小田 : 契機となったのは 51年の 百貨店でのブックフェア で、それに刺激され、全国各地でフェアが開かれ、地方・小出版流通センターは出版業界のみならず、社会的にも認知されていった。

A : ただ残念なことに、県市町村史 などは非売品扱いで市販されていなかったこともあり、地方・小出版流通センターにのることもなかった。それもあって名著出版などの復刻も続いていた。

小田 : ところが平成に入り、21世紀を迎えると、郷土史、地方史文献は安くなったどころではなく、下落してしまい、それらを中心とする古本屋は成立しなくなってしまった。

 それは県市町村史が出され続けていれば、先行する史資料が必要とされるし、集書しなければならないのだが、それらの出版ブームが終わってしまうと、途端に見向きもされなくなり、暴落してしまった。それに市町村合併が輪を掛けた。

A : そうか、県市町村史が出されなくなれば、かつてと異なり、復刻も必要とされない。それにデジタル化を考えれば、これから紙の県市町村史にしても刊行されるかどうかわからないところまできている。

小田 : そういうことだと思う。佐藤さんの話はすでに10年以上前のことで、現在では県市町村史にしても、無用のものと化しているかもしれない。

 それからもうひとつ心配しているのは地方史、郷土史の錯誤や間違いが修正されず、そのまま残ってしまい、それが真実であるかのように通用してしまうことも問題だ。地方史、郷土史が編まれ続けていけば、それらは修正され、新たな記述と解釈も可能だが、それも不可能になってしまう。

 実際に『郡誌』『市誌』、これはまだ取り上げていないが、『市誌』を読み、比較してみると、大正時代の『郡誌』から見れば、新たな発見によって、地方史、郷土史としては進化しているといえる。これはどこの地方史、郷土史においても同様だと思う。

A : あなたがいうと余計にリアルだね。T王寺=T應寺=T応寺の件で腹に据えかねたことがよくわかる。

小田 : そうおっしゃってくれたので、話を戻します。