脇阪要太郎は『大阪出版六十年のあゆみ』において、明治二十年代後半の大阪の新しい文芸書出版の草分けは駸々堂と嵩山堂によって担われたと述べている。その出版と書店を兼ねた駸々堂が破綻したのは今世紀を迎えた最初の年であり、それは出版危機の象徴的事…
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