出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話394 小池四郎とクララ社

前回少しふれたように、矢川澄子『野溝七生子というひと』を彼女の評伝というよりも、野溝と鎌田敬止と出版の物語のように仕立てたのは、前提としてひとつの出版社をめぐる物語があり、それが範となっていたからだと思える。しかもその出版社はクララ社といって、野溝にとっても矢川にとってもきわめて身近な存在だったし、それを立ち上げた小池四郎は明治二十五年生まれで、鎌田と同世代であった。矢川はその小池とクララ社のことをも喚起させるように、野溝や鎌田の写真、後に同じく野溝の未刊著作として展望社から『眉輪』とともに『アルスのノート昭和二年早春』として刊行される原本の表紙、及びクララ社の本の書影を並べて掲載している。
眉輪 出版人物事典 『アルスのノート昭和二年早春』

矢川と野溝の最初の出会いは目白のクララ社であり、矢川は次のように回想している。

 クララ―そこは個人出版社クララ社であり、クララ洋裁学院発祥の地でもあり社会民衆党の代議士だった伯父の政治事務所でもあった。そしてなにより幼い者たちにとっては、大好きな「クララ伯父ちゃん、伯母ちゃん」、すなわち小池四郎・元子夫妻が父母同様にわたしたち姉妹をいつくしんでくれる、なごやかな生活協同体でもあった―

これには少しばかり説明を加えなければならない。野溝七生子の姉志免尾(しめお)と金沢高女で親交のあった宮野倫子が小池駿一と結婚する。その小池の家にしめが大正十年に東洋大学に入学した七生子の下宿を頼みにきて、小池一家と暮らすようになった。そこに昭和の初め頃から鎌田が出入りし、後に二人が共同生活するきっかけとなる。そして駿一の末弟の小池四郎が澄子の伯母の元子、その妹の民子が矢川とそれぞれ結婚し、小池と矢川一族は縁戚関係となり、そこに姉との関係から野溝七生子も必然的に加わるという構図が形成されたのである。

小池四郎はクララ社も含んで、『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)に立項されているので、それを引いてみよう。
近代日本社会運動史人物大事典

小池四郎 こいけ・しろう 1892.3.21−1946.3.11(中略)
 1917(大正6)年東大工学部を卒業。鈴木商店に入社、24年に退職し、社会運動に入る。上京して出版社クララ社(のちの社会民衆党の出版機関)を創立。26年社会民衆党の創立に参加。(中略)32年の総選挙で初当選。同年5月、社会民衆党を脱党、赤松克麿らと日本国家社会党を結成、(中略)同党が日本主義派と国家社会主義とに分裂、前者を率いて、34年1月日愛国政治同盟へと改組し、総務委員長となり、典型的な社会ファシストの道をたどる。

矢川の小池に関する記述と異なる部分もあるし、さすがに彼女の筆先も「クララ伯父ちゃん」の「典型的な社会ファシスト」の側面には及んでいない。それは『野溝七生子というひと』自体がひとつのファミリーロマンスとして提出されているからだ。それゆえに七生子がクララ社のアルバイトにきて、小池の妻の元子と親友になったこと、その元子が本格的に洋裁を学び、そこにクララ洋裁学院の看板を掲げたこと、さらにその庭続きに矢川夫婦が、次女澄子も含む三人の女児を連れて移ってきたことなどが書きこまれ、学院の卒業式の写真までも収録に及んでいる。

そしてまた当然のことながら、彼女の手元にあるクララ社の出版物の四冊も挙げられていく。それらはウィットウォース著、馬場二郎訳『ニジンスキーの舞踊芸術』、やはり馬場訳『ショパンの日記』、次の二冊は小池自らの訳によるウエルズ『汝ノ靴ヲ見ヨ』、グリュンベルグ『母様、僕どうして生まれたの?』である。

最初の『ニジンスキーの舞踊芸術』は四十年ほど前に古書展で一度だけ見ているが、矢川がいうように大判のきれいな造本で、ニジンスキーの舞踏場面が何枚か原色版で入っていたことを記憶している。なおこの日本における最初のニジンスキー文献は、後に『ニジンスキーの芸術』現代思潮社、昭和五十二年)として復刻されている。
ニジンスキーの芸術

私も一冊だけクララ社の本を持っているが、それは翻訳ではなく、小池四郎著『階級論』で、「民衆政治講座」No21として、昭和五年に出ている。巻頭に「著者の近影」も掲載され、その若い整った風貌は鎌田と共通する雰囲気があるようにも思える。そのことはともかく、この『階級論』はマルクス主義を参照とした修正階級論、もしくは社会民主的階級論の啓蒙書といったところで、この一冊も含む薄い四六版シリーズ「民衆政治講座」の主張が社会民衆党のスローガンでもあったのだろう。ちなみに奥付広告にはやはり小池の『産児調節の理論と実際』が掲載され、小池が当時のフェミニズムと時代の要請でもあった産児制限問題にも取り組んでいたとわかる。

奥付の発売所の住所を確認すると、東京都市外高田町上り屋敷一一一七番地とあり、これが矢川が述べている、懐かしい記憶に包まれた目白の地、小池と矢川一族、さらに野溝と鎌田のアルカディア、彼女が子供の眼で見た「なごやかな生活協同体」が存在していたトポスなのである。

矢川は『野溝七生子というひと』を平成二年に刊行している。七生子の九〇歳の死はその三年前の昭和六十二年であり、そのサブタイトルとした最終章「散(あら)けし団欒(まどい)」のエピグラフ斎藤史の「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずもや」を置いている。それはひとつのレクイエムでもあり、かつてのアルカディアの喪失、野溝や鎌田の死の他にも様々な思いがこめられているようにも感じられる。そのことを記すために、もう一編矢川のことを書かなければならない。

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古本夜話393 八雲書林と青磁社

 矢川澄子の『野溝七生子というひと』はタイトルからすれば、当然のことながら野溝の評伝、もしくは彼女に関する回想記のような印象を与える。だが前回記述しておいたように、この一冊の半ばは「鎌田敬止というひと」とその出版の仕事に向けられている。また野溝の作品も鎌田の手によって出版されているのである。

 したがって同書は野溝と鎌田、出版との三題噺のようにも読むことができる。そのような構成とした矢川のモチーフについては次回ふれることにして、ここでは鎌田が設立した八雲書林、及び編集長を務めた青磁社に関して言及してみたい。

 八雲書林は昭和十四年に北原白秋の歌集『夢殿』を処女出版として始まり、翌年には様々な歌集を加え、野溝の小説『女獣心理』も刊行している。矢川の同書所収の「野溝七生子・鎌田敬止略年譜」には二人が共同生活に入った年は記されていないが、野溝の十四年における大田区調布嶺町への転居と八雲書林の設立は同年であり、その住所が同じであることからすれば、二人の共同生活と出版活動はともに手を携えて始まっていたことになる。

 八雲書林の本は一冊だけ手元にあり、それは蓮田善明の『鴨長明』で、「八雲書林選書」の一冊として、昭和十八年に刊行されている。ちなみにその住所を確認してみると、大森区調布嶺町と戦前の表記ではあるけれど、そのまま変わっていないとわかる。著者の蓮田は国文学同人誌『文芸文化』に拠っていた国文学者で、敗戦をマレー半島で迎え、自裁し、三島由紀夫に称揚されたことで知られている。そのはしがきに『文芸時代』連載のものを、「八雲書林主の勧めにより此の本を編む」との一文が見えている。
 
 その巻末広告を見ると、単行本として金田一京助『増補国語研究』、湯澤幸吉郎『国語学論考』、「選書」として風巻景次郎『神々と人間』、井上豊『国学論』といった研究書が並び、最後に前述の白秋たちの歌集二十冊が置かれ、そこでようやく八雲書林が歌集を主とする出版社だとわかるようになっている。これも戦時下の出版事情の投影であろう。

 ちなみに蓮田の本はもう一冊あって、それはやはり同年に新潮社から出された「日本思想家選集」のうちの『本居宣長』である。八雲書林版の上製に対して、新潮社版は並製で、戦時下における文芸書の位相と出版物へのこだわりの差異が表われているような気がする。『新潮社七十年』に目を通すと、この「日本思想家選集」が「戦時下の新潮社の出版活動の最後」であり、蓮田の著者の他に、保田与重郎の『芭蕉』を始めとする五冊が刊行され、蓮田などの著作の出版を通じて、八雲書林のみならず、戦時下の新潮社の一端を伝えているといえよう。
 (「日本思想家選集」、新潮社)

 昭和十九年に八雲書林は出版社企業整備による青磁社に統合され、鎌田はその編集長に就任する。青磁社は山平太郎を発行者とする出版社で、こちらはフランス詩を主として刊行している。私はヴアレリイの菱山修三訳『若きパルク』の一冊しか所有していないが、これは濃いモスグリーンの箱入、菊判九十ページ余で、活字の組み方は本連載62の平井功の『游牧記』を明らかに意識していて、装丁、造本、内容からみれば、これが昭和十七年刊行とするという戦時下の出版物だとは思われない。

 この巻末広告には『若きパルク』の他に、菱山訳『魅惑』『海を瞶めて』『旧詩帖』が『ヴアレリイ全詩集』全四巻として掲載され、この「翻訳に精魂を傾けること約十年、真に鏤骨彫心の名訳によって、此の完訳の偉業は茲に完成」とある。他にも高村光太郎、小林秀雄、堀辰雄などよる訳『仏蘭西詩集』、ボードレールの村上菊一郎訳『散文詩』、菱山や村上の詩集が続いている。これらは未見であるけれど、おそらく『若きパルク』と同様に瀟洒な装丁だと想像がつく。

 しかしこの青磁社と発行者の山平太郎のことだが、長きにわたってプロフィルがつかめないでいる。先年出版者と本をめぐって、書影を豊富に掲載した特集『日本オルナタ出版史1923−1945ほんとうに美しい本』 (『アイデア』354、誠文堂新光社)を恵贈され、青磁社と山平太郎への言及もあるのではないかと期待しながらページを繰ったのだが、残念ながら出てこなかった。このような特集を組むのであるから、知らないはずもないので、やはり私と同様にアウトラインがつかめないことによっているのだろうかと思われた。
日本オルナタ出版史1923−1945ほんとうに美しい本

 それからもうひとつ青磁社については気になることがあって、それは昭和十八年の折口信夫の『死者の書』 同二十二年の釈迢空名義の長歌集『古代感受集』のことで、後者はその年の五月に印刷所が空襲を受けて失われ、戦後の占領下の二十二年に出されている。これは昭和十九年に青磁社が統合され、編集長となった鎌田によるものとされている。だがその『死者の書』も鎌田が企画編集したように考えられるのである。

死者の書・身毒丸(中公文庫)

 先述したように、青磁社はフランス詩の翻訳書を中心とする出版社で、国文学や折口との関係はうかがわれない。しかし鎌田と八雲書林の場合、前回既述したように鎌田と折口は短歌雑誌『日光』の同人だったし、八雲書林もまた国文学と歌集の版元であった。とすれば、統合や紙の問題が差し迫っていた八雲書林と鎌田が『死者の書』の企画統合が決まっている青磁社へ持ちこみ、刊行を進めたと見なしても不自然ではない。むしろそれがきっかけとなって、鎌田が編集長に就任することになったとも考えられる。

 折口の多くの謎を含んだこの小説は、近年安藤礼二によって『初稿死者の書』(国書刊行会)も出され、新たな読解と研究段階に入りつつある。だがまだ解明されたといえないのが本連載104の、『世界聖典全集』と折口の関係で、『死者の書』はこの全集の『埃及死者之書』(田中達訳)の挿絵を表紙の装丁としている。これは折口の指定で、青磁社の山平太郎が手がけたのであろうか。
初稿死者の書 世界聖典全集 『世界聖典全集』

 最近になって、急逝した鷲尾賢也の歌人としての特集『小高 賢』を恵贈されたのだが、この出版社が青磁社で、どのような経緯と事情があったのかは不明であるけれど、まだ出版社として健在であることを知らされた。青磁社のHPはこちら
小高 賢

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古本夜話392 鎌田敬止と矢川澄子『野溝七生子というひと』

前回天人社の鎌田敬止については名前を挙げるだけにとどまってしまったが、彼もずっとプロフィルがつかめない人物で、それがようやく判明したのはまったく偶然ながら、矢川澄子の『野溝七生子というひと』(晶文社)を読んだことによっている。何と鎌田は野溝の共同生活者で、矢川の著書には野溝のみならず、鎌田の写真も掲載され、また巻末には「野溝七生子・鎌田敬止付略年譜」まで添えられていたのである。

野溝はすでに矢川の「解説」を付した『野溝七生子作品集』(立風書房、昭和五十八年)が編まれ、その特異な夢幻的世界は再発見されるに至っていたが、鎌田はここで初めて編集者、出版者としての軌跡が明らかになったといえよう。ただ間違いもあるし、天人社に関しての言及もないのだが、昭和三年に野溝が『女人芸術』に参加し、この頃鎌田と相識るとの記述を見ると、前回の中本たか子も『女人芸術』に小説を寄せていたことからすれば、中本の『朝の無礼』の編集と出版を通じて、鎌田と野溝が介在していた可能性も考えられる。また二人はともに北原白秋門下で知り合ったとも伝えられている。
女人芸術 (創刊号、講談社復刻) (本の友社復刻)

だがそれらはひとまずおき、主として「略年譜」に記された鎌田の編集者、出版者としての軌跡をたどってみる。彼は明治二十六年千葉県の木更津市に生まれ、旧制三高を経て、大正元年東京帝大医学部に進むが、中退し、同五年創業したばかりの岩波書店に入り、『漱石全集』の編纂に従事する。矢川澄子と同様に『岩波書店七十年』を確認して見ると、「創業以来の入店者で大正7年末までに退店した人」の一人として、鎌田の名前が挙がっている。第一次『漱石全集』の完結はその翌年であるが、残るは書簡集などで、ほぼ目途がついたところで退店したとも見なせるだろう。

そして次にアルスに移る。それは鎌田が北原白秋に師事していたことによっているはずだ。アルスはこれも本連載335などで既述してきたように、白秋の弟の北原鉄雄によって、大正六年に前身の阿蘭陀書房を引き継ぐかたちで創業されている。同十年にアルスから刊行された白秋の歌集『雀の卵』には「大序」という文字通り長い序が置かれ、この一巻の成立事情が語られている。それによれば、『雀の卵』の編纂は六年の冬から始まり、十年までかかり、その間の九年に鎌田が反故の整理や分類や清書の手伝いに入り、「鎌田君が傍で気勢を添えてくれたお蔭」で、完成に至ったことになる。白秋の記述から考えると、鎌田は岩波書店を辞め、それほど間を置かず、アルスに入社していたのであろう。

それから大正十三年に白秋は釈迢空、木下利玄などと短歌雑誌『日光』(日光社)、十五年には詩雑誌『近代風景』(アルス)をそれぞれ創刊しているので、鎌田もそれらに寄り添い、前者の場合は同人に名前を連ねてもいる。その後これは「略年譜」には見えていないし、経緯も不明だが、前回ふれたように天人社に移り、『現代暴露文学選集』などの編集に携わっている。

また「略年譜」には昭和五年頃「平凡社の地名辞典編纂に協力」とあるけれど、平凡社は戦後に『世界地名事典』を出しているが、戦前にはその種の辞典を刊行していない。だからこれは間違いで、前回記したように『大百科事典』の編集者の一人として、平凡社に入ったことになる。ここまでが鎌田の編集者史である。

昭和十四年になって、鎌田は八雲書林を創立し、出版者の道を歩み始め、それまでの編集人脈を生かし、白秋を始めとする歌集や文芸書を刊行する。ところがこれも本連載129などでも書いておいたように、戦時下における出版社の企業整備によって、同十九年に八雲書林は武蔵野書房、楽浪書院、書物展望社などとともに青磁社へと統合され、その編集長を務めることになった。

そして戦後を迎え、昭和二十四年頃に白玉書房を設立し、ようやく鎌田は私たちが知っている現代歌人の歌集や歌論、詩論集の出版者となっていくのである。矢川澄子も『野溝七生子というひと』の中で、鎌田には二、三度しかお目にかかっていなかったけれど、彼について「近代短歌史のかくれた功労者」、白玉書房に関しては「戦後の短歌史をいろどる幾多の名著が送り出されたところ」、「歌集の専門出版社白玉書房の看板はゆるぎなく、この世界ではほとんど独走を誇っていた」とのオマージュを捧げている。

それに加え、「略年譜」には「白玉書房主要刊行書目」も付せられ、その「幾多の名著」が記載され、そのラインナップから、鎌田と白玉書房が戦後短歌史において果たした、他の出版社に比すべきもない偉大な貢献を知らされるのである。

それらを私の好みによって挙げてみよう。岡井隆『土地よ、痛みを負え』、岸上大作『意志表示』、寺山修司『血と麦』『田園に死す』、葛原妙子『葡萄木立』『朱霊』、前登志夫『子午線の繭』、塚本邦雄『緑色研究』『感幻楽』などで、これらがいずれもかつて古本屋で独特のアウラを放ち、高い古書価で売られていたことを思い出す。しかしそれも半世紀近く前の光景になってしまった。
緑色研究 『緑色研究』

だがここで下世話なことは承知でいってみると、白玉書房の生産はともかく、流通や販売はどうなっていたのだろうか。白玉書房は実質的に鎌田の手を離れた昭和四十年代半ばに神保町へ移っているが、それまでは野溝と彼の「共同の棲家」である大田区東嶺町で営まれてきた。つまり普通の民家で出版活動が可能だったことは、白玉書房が自費出版をメインとする歌集出版社であり、取次や書店もほとんど必要としなかったことを物語っているのだろうか。

しかも鎌田の昭和五十五年における八十七歳での死は自殺となっていて、矢川は彼の死に際し、短歌雑誌のいずれにも追悼文のひとつすらも掲げられてなかったのではないかと書いている。それは長生きしたこともあるが、鎌田が歌壇ばかりか、所謂出版業界からも孤立し、黙々と「幾多の名著」を刊行してきたことによっているのかもしれない。

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古本夜話391 天人社、『現代暴露文学選集』、中本たか子『朝の無礼』

本連載388の『新進傑作小説全集』とほぼ同時期に、天人社から『現代暴露文学選集』全十巻が出ている。実はこの編集者が『平凡社六十年史』に、『大百科事典』編集部のベストメンバーの一人「天人社出身の鎌田敬止」として姿を見せている。この選集は『日本近代文学大事典』でも立項され、売笑婦、農民、及び鉱山、工業、軍隊、サラリーマン、労働者の「それぞれの暗澹、悲惨、奇怪、醜態なる内幕」を描いたシリーズとされている。

[f:id:OdaMitsuo:20140224175937j:image:h110] 日本近代文学大事典

また私も天人社については「小田律と天人社」(『古本探究3』所収)で書き、この『選集』の他に、ヘミングウェイの『武器よ・さらば』の初訳、大仏次郎の『ドレフュス事件』、「世界犯罪叢書」や「新芸術論システム」というシリーズ物などに言及している。ただ天人社は発行者が森岡豊吉、『現代暴露文学選集』の編集者が先に挙げた鎌田敬止であることは判明しているのだが、その全貌はつかめず、現在に至っている。

古本探究3

それでもその後、所持していなかったこの『現代暴露文学選集』の一冊である中本たか子の『朝の無礼』を入手している。なおこの『選集』の明細は拙著に掲載したので、ここでは省略する。これは四六判並製、百八十ページ弱、定価三十銭で、タイトルも含め、五つの短編からなり、その他の九冊もこのようなフォーマットで刊行されたと推測がつく。

[f:id:OdaMitsuo:20140320105605j:image:h120](第7巻、本の友社復刻)
ただ留意しなければならないのは、奥付に昭和五年五月十五日発行、六月十日十三版と表記されていることで、このような短期間での重版記載はよくあることだとしても、いかにも不自然で、このシリーズの生産、流通、販売に関する特殊性を示しているのだろうか。

だがそれを確かめる手がかりはない。だからまずは中本の一冊に表出している「暴露文学」の位相を見てみる。といってすべての短編について論じることはできないし、やはり表題とされた「朝の無礼」を取り上げるべきであろう。この作品の舞台は内戦が起き、戒厳令下にある上海で、主人公は母を日本人とするが、支那風に見える娼婦芳蘭である。母も同様で、父は「何れの種族の者か」わからなかった。内戦と戒厳令の街の描写から始まり、南軍と北軍と山東軍の攻防、暗殺の生臭い死体の日常化、外国租界における各国の帝国主義的動向への言及がなされ、濃厚な戦争の気配に包まれた上海が浮上してくる。

母から芳と呼ばれた彼女は国籍を持たず、十五の年から母と同じ生活に入り、十七の時に母の死に伴い、支那商人の妾になったが、彼は執拗に嫉妬深く、死に際に及んで、彼女を強制的に「性的不能者」ならしめた。その具体的記述は長い傍点で処理されていて、実際に彼女の身体に何が施されたのかは明らかではない。その代わりに彼女は支那商人からの遺産を得たことで阿片中毒となり、生活に多大な刺激を求めるようになっていた。そこに前述したような上海の戦争状況がもたらされたのだ。それは彼女に阿片よりも深い陶酔と期待を生じさせ、彼女は銃声が響き、至るところに死体が転がっている街へと出ていったのである。

もはや街は戦場に他ならなかった。短銃、小銃、大砲の音が互いに共鳴し、死体と兵士たちであふれていた。彼女の刺激を求める心は自らの戦争への参加となり、死んだ兵士の銃剣で山東軍の兵士を刺し殺し、さらに戦場と化した街を彷徨う。そして死体の中にあって、次のような光景を目撃する。

 閉じた目を開くと、俯伏した細い男の上へ大男が服を開いて上向きに乗りかゝつてゐた。その二等辺三角形の底辺を彼女の身体が引いてゐた。眼の向ふで、彼が余り後ろへのめつた為に外づれた灰色のズボンの口から、………………全部曝け出されてゐた。サボテンの花のやうに見える。
 「何と云ふ無礼さだ!」
 死者に対する慇懃な朝の沈黙の中に、これは又何と云ふ無礼さだ! 封じられた彼女の或力が、全くこの者の所為のやうに揮ひ起つて来た。怨恨と憤怒の総てが、モラトリウムにあつた銀行のやるに湧立つて来た。
 「さうだ、やつゝけるんだ、こいつを!」

そして彼女はあの銃剣を手にし、「無礼な死体のもとへ(中略)両腕に湧き来る力を短剣に集めて、サボテンの花を薙ぎ払つた。それは腫物の瘡蓋のやうにほろりと剥奪した」。その後彼女が「狂喜」状態、すなわち「狂気」に陥ったような描写で、この四十ページ弱の短編は終わっている。

「朝の無礼」は女流作家による戦場と娼婦をテーマとしていることに加え、検閲と発禁処分を考慮し、肝心な部分についての説明不足が生じ、それに伴い、傍点処理が施されている。だがこの短編のモチーフを要約してみれば、何らかの強制的手段によって性的不能者となった娼婦が、戦場での殺戮によって強く刺激され、死体からむき出しになっていた兵士の「サボテンの花」、おそらくペニスを切断し、「狂気」に陥る過程を描き、それこそ娼婦と戦場の「それぞれの暗澹、悲惨、奇怪、醜態なる内幕」を浮かび上がらせようとしたのであろう。

中本たか子は『日本近代文学大事典』でも立項されているが、かなり長いので要約してみる。明治三十六年山口県生れ、県立山口高女を卒え、県下の小学校勤務後、昭和二年上京し、『女人芸術』に短編を発表し、プロレタリア文学へと接近する。そして同四年、東洋モスリン亀戸工場争議に女工オルグとして活動し、検挙され、六年に保釈されているので、『朝の無礼』は彼女が収監中に出された作品集となる。

女人芸術 (創刊号、講談社復刻)

つまり今回は名前を挙げるだけにとどまってしまった鎌田を始めとする、『朝の無礼』の編集と出版に至るプロセスにも、様々なドラマが展開されていたのである。なおこれは知らなかったが、中本は昭和十六年に蔵原惟人と結婚し、戦後も一貫して共産党系作家として小説、ドキュメント、ルポルタージュを発表しているようだ。

後に本の友社から二〇〇〇年に『現代暴露文学選集』復刻されていることを知った。

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古本夜話390 文化学会と『社会思想全集』

ずっと平凡社の円本にふれてきたが、ここで『社会思想全集』も取り上げておきたい。これは何度か断片的に言及しているけれど、まとまった一文は書いていないからでもある。それに『社会思想全集』は春秋社の『世界大思想全集』と並んで、岩波文庫の社会科学書や思想書のラインナップの参考となり、また戦後の河出書房の「世界の大思想」や中央公論社の「世界の名著」といった企画の範ともなっているからだ。

世界大思想全集 『世界大思想全集』

すでに半世紀近く前のことになってしまうが、私たちが若かった時代には、どこの古本屋でも円本がかなり売られていて、その中でも赤い造本の『社会思想全集』は発売されてから四十年近くが経っていたけれど、ここにしか収録されていない著作も多く、それらを買ったりしたものだった。

例えば、第三十三巻所収のポール・ラファルグの『財産進化論』(荒畑寒村訳)などもそのようにして読んだし、彼がマルクスの娘婿でフランスの社会主義者であることは、『怠ける権利』(田淵晋也訳、人文書院)の刊行によって初めて知らされたのである。もちろんそのような未知の著者と著作のラインナップは『世界大思想全集』にも共通するものであったけれど。ただその後『財産進化論』が高畠素之によって、すでに大正十年に大鎧閣から刊行され、また荒畑訳は昭和四年に改造文庫に収録されていることを知った。

怠ける権利

その『社会思想全集』について、『平凡社六十年史』は次のように述べている。

 「社会思想全集」は、文化学会に所属した岡悌治や山下一夫、それに本田開らによって企画・編集されたものだ。文化学会が一切の編集を担当し、校正から紙型をとるところまですべてやり終え、発表だけを平凡社がひきうけた。
 文化学会は大正八年に発足したリベラルな学者・思想家の団体で、早稲田や慶応の少壮学徒が名を連ねていた。島中雄三がその主宰者だったが、下中もはじめから幹事役に加わり、月例の集会や講演会にも出席していた。(中略)
 四六判、総クロースの函入の本で、全四十巻、そのほとんどが新訳であり、既刊のものも大幅に手を入れてあった。訳文の正確さと平明さに注意を払ったといわれるが、短期間のうちに企画・出版されたために玉石混交の面もあった。しかし今日これだけのものを企画するとなると、容易なことではあるまい。文化学会の協力を得て、はじめてそれも可能だったのだ。

編輯顧問として、赤松克麿安部磯雄石川三四郎、猪俣津南雄、堺利彦高橋亀吉、室伏高信、山川均、吉野作造の名前が挙がっているが、奥付には「社会思想全集著作代表者」と島中雄三の名前が記載されていることからわかるように、これらはすべて文化学会の企画、編集、製作によることが示されているし、実際に第三十九巻、四十巻はそれぞれ島中と山内房吉共著『社会思想史』、島中編『社会問題辞典』となっている。

島中と文化学会に関しては、本連載197で既述していることもあり、ここでは下中が自ら執筆している島中のプロフィルを抽出してみる。これは『日本人名大事典』の補巻『現代』に下中が寄稿したものである。

 しまなかゆうぞう 島中雄三 一八八〇―一九四〇社会運動家、政治家。明治十三年二月十八日奈良県に生る。東京法学院(中央大学)中退。在学中から平民社に関係し、『婦女新聞』『サンデー』『新公論』などを主宰、大正八年(一九一九)文化学会を設立し、黎明会、新人会とともに日本社会運動の先駆者として活躍した。(中略)同十五年安部磯雄、鈴木文治、片山哲らとともに社会民衆党を結成し、(中略)昭和四年(一九二九)東京市会議員に立候補、最高点で当選し、同七年社会大衆党の創立に協力し、同執行委員長に就任した。(後略)

なお省略してしまったが、彼は中央公論社の島中雄作の兄にあたる。

『社会思想全集』の刊行は昭和三年から八年にかけてであり、その間に文化学会によっていた島中は政治家となり、社会大衆党を創立するに至っていたことになる。それは『社会思想全集』にこめられた「社会思想」とは「社会変革の思想」に他ならず、その実践を意味していたのかもしれない。

本連載197で、文化学会が手がけた『世界文豪代表作全集』や『小川未明選集』にふれておいたが、『社会思想全集』は文化学会の集大成とでもいえる大型出版企画であったのだろうし、それをスプリングボードとして、島中は政界へと打って出たとも考えられる。

それらはともかく、大正から昭和にかけてのすべての社会運動が出版活動を伴っていると繰り返し指摘してきたが、その中でも『社会思想全集』は平凡社とタイアップしたことで、流通や販売、読者への影響も含め、広範な影響を様々にもたらしたように思える。下中は文化学会と並んで、黎明会、新人会も日本の社会運動の先駆者としているが、黎明会や新人会も円本企画に関係していたのではないだろうか。そのことに関し、私も本連載162で、「誠文堂『大日本百科全集』の謎」を書いているので、よろしければ参照されたい。

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