出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

4 ダシール・ハメット『赤い収穫』

それならば、ジッドが絶賛するハメットの『血の収穫』 とはどのような物語なのか。もちろんゾラの『ジェルミナール』 以上に周知であるにしても、まずはその物語を示しておこう。これまで『血の収穫』 と書いてきたが、ここでは小鷹信光の新訳を使うので、それに合わせて『赤い収穫』 (ハヤカワ文庫)とする。

ジェルミナール 赤い収穫

アメリカ西部のパースンヴィルはポイズンヴィル(毒の町)と呼ばれる腐敗しきった町だった。過去四十年にわたって、この町を支配してきた老エリヒュー・ウィルソンは鉱山、銀行、新聞社のオーナー、及び主要産業の共同経営者であるだけでなく、合衆国の上院下院議員、州知事、市長などの政治家も牛耳る権力者で、彼自身がパースンヴィルと州そのものだった。

だが一九二一年になって、パースンヴィル鉱山会社の業績が悪化し、戦時中に IWW(世界産業労働者組合)の支援を受けた鉱夫たちの労働条件と協定を破り、戦前の状態に逆戻りし始めたので、鉱夫たちは労働組合史に一ページを記そうとしてストライキに入り、八ヵ月続いた。

それに対して、老エリヒューはスト破り、州兵、正規の軍隊の一部まで雇い、鉱夫たちは完膚なきまでに痛めつけられ、労働組合も壊滅状態に追いやられてしまった。しかし老エリヒューはストライキには勝ったが、この町と州における支配力を失ってしまった。それは彼が雇ったならず者たちがパースンヴィルを気に入り、乗っ取ってしまったからだ。

その町にサンフランシスコのコンチネンタル探偵社調査員の「私」が姿を現わす。老エリヒューの息子で、父のダミーとしてヘラルド新聞を発行し、町の浄化キャンペーンを始めているドナルドからよばれたのである。だがドナルドはすぐに殺されてしまう。

「私」が調査を進めていくと、一癖も二癖もある警察署長、ギャンブラーとその情婦、酒の密売人、金貸したちによって、町全体が蹂躙されていることが明らかになる。また彼らが放った殺し屋に襲われた老エリヒューは、「私」にポイズンヴィルという豚小屋をきれいにし、「ドブネズミたち」をいぶり出すことを依頼する。そこで「私」は依頼金として一万ドルを請求し、ポイズンヴィルに「宣戦布告」し、策略を巡らせ、刑事も含めた町のならず者たちを対立させ、血の抗争へと駆り立て、彼らの共倒れを図る。「ポイズンヴィルに法律があるなんて思うな。法律は自分で勝手につくるんだ」。その結果、主要登場人物のほとんどが殺されてしまい、とりあえずは町の浄化に成功する。

『赤い収穫』 に示されているのはまさに『ジェルミナール』 以後の物語で、資本と労働の対立がもたらした町の腐敗である。後者にあって実態の定かでなかった資本は、アメリカ特有の十九世紀に一代で産業を築いた老エリヒューとして現われ、それが政治家、警察、軍隊といった公的権力と結びつくだけでなく、犯罪と暴力を背景とする様々なパラサイトを派生させていく実態を露出させている。それと禁酒法が深く絡み合っていたのがアメリカの一九二〇年代だったと思われる。だから『赤い収穫』 は十九世紀後半のフランスの『ジェルミナール』 とは異なる状況下にある。そしてこの複雑なアポリアを解決するために、ハメットはコンチネンタル探偵社の「私」を創造する。ハメットは主人公について、次のように言っている。W・F・ノーランの『ダシール・ハメット伝』 小鷹信光訳、晶文社)から再引用する。

 コンチネンタル・オプは、泥と血、死と背信の中を、必要とあらば苛酷に、野蛮に、シニカルに、そこにたどりつくために雇われたという以外どんな強制も受けず、あやふやなゴールに向かって夜も昼もしゃにむに突き進む小柄な男である。

したがって十九世紀近代小説ではそのまま放置するしかなかったアポリアの解決が「私立探偵」に託され、ここからアメリカでしか発生し得なかったハードボイルド小説の幕が切って落とされたのである。しかしそこに登場する女たちが近代小説の世紀末的宿命の女のファクターに包まれているように、探偵たちもまた近代小説のメタ・ヒーローと言えるかもしれない。この系譜はレイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドに継承され、私見によれば、さらに北欧まで及んでいると思われる。また『赤い収穫』 の物語は黒澤明の『用心棒』といった映画や多くの小説の範となり、様々に変奏されていることは、これも周知の事実であろう。

さてハメットはこの物語をどこから紡ぎ出してきたのか。ハメットは兵役をはさんでいるが、実際に一九一五年から二二年にかけて、コンチネンタル探偵社のモデルであるピンカートン社の調査員だった。後者については久田俊夫の『ピンカートン探偵社の謎』 (中公文庫)に詳しい。ピンカートン探偵社の歴史をたどると、資本家の側に立つ「私警察」の役割が強く、労働者側にとっては「悪徳の化身」でしかなかった。ハメットも調査員としてあらゆる犯罪に関わったが、労働争議の工場や鉱山で経営者の私有財産を守る仕事も多く、兵隊、監視人、脅迫者の役割を引き受けざるをえなかった。
ピンカートン探偵社の謎

これらの仕事はハメットに決定的な影響を及ぼした。そして『赤い収穫』 の原型となる出来事に遭遇する。ダイアン・ジョンスンの『ダシール・ハメットの生涯』 小鷹信光訳、早川書房)でも言及されているが、前出の『ダシール・ハメット伝』 のほうがリアルなので、こちらを引いておく。

 一九一七年の夏、ピンカートン探偵社から命じられたある仕事によって、ハメットは生涯消えぬ怒りと苦々しい思いを抱くことになる衝撃的な出来事に巻きこまれた。彼は他の数人の調査員とともに、IWW(世界産業労働者組合)が決行したストライキのスト破りとして、モンタナ州ビュートのアナコンダ銅山会社に雇われた。当時はよくこうした目的のために、ピンカートン社の調査員たちが駆り出された。彼らは“組合荒らし”として鳴らし、きわめて有能な手腕を発揮していた。

そこでハメットはストライキの中心にいるのがIWWに属する労働組合の幹部フランク・リトルだと気づいた。リトルはインディアンの血を引き、戦士の頑強さと勇気を備え、脅迫に屈せず、会社の不正を糾弾し、組合員たちの熱烈な支持を受けていた。そのリトルの殺害をハメットは会社から五千ドルで依頼され、激しい衝撃を覚えた。彼はきっぱり拒絶したが、リトルはモンタナ自警団によって襲われ、暗殺されてしまった。

このフランク・リトル暗殺事件を契機にして、ハメットは社会の腐敗に目を向けるようになり、IWW 的な考えに傾斜し、三〇年代に入ってマルクス主義者へと変貌していく。だからハメットは前マルクス主義者として『赤い収穫』 を書いたことになる。

『ジェルミナール』 でエチエンヌが敗北に終わったストライキの後で、資本に抗する力としての労働者のゼネストを夢想する。それがプルードンを経由した革命的サンディカリズムであり、ゾラの思想的立場に近いのではないかと前回記したが、IWW もまたこの革命的サンディカリズムを体現するものだった。だが IWW も敗北に追いやられた後、エチエンヌがパリ・コミューンに向かったように、ハメットもまたハードボイルド小説を書くことによる闘争の場へと赴いたことになる。

このように考えれば、『ジェルミナール』 『赤い収穫』 は紛れもなくつながっていると推測できる。だが残念なことに、前出の二冊の邦訳の評伝、未邦訳のRichard Layman,Shadow Man : The Life of Dashiell Hammett (A HARVEST/HBJ BOOK)を読んでみても、ハメットの読書家の側面と読書からの影響について、かなり言及があるにもかかわらず、ゾラの名前は出てこない。
 Shadow Man : The Life of Dashiell Hammett

だから今回も私の試論、もしくは仮説ということになる。

◆過去の「ゾラからハードボイルドへ」の記事
ゾラからハードボイルドへ3 『ジェルミナール』をめぐって
ゾラからハードボイルドへ2 『ナナ』とパサージュ
ゾラからハードボイルドへ1 「ルーゴン=マッカール叢書」