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古本夜話36 南方熊楠と酒井潔

十九世紀末から二十世紀初頭にかけての欧米の文化史や文学史をたどっていくと、ホモセクシャルやレスビアンといった同性愛の陰影に気づく。それはおそらく二十世紀になって欧米で共時的に誕生した近代出版社の様々な雑誌や書籍を通じ、かつてない拡がりをもって伝播していったと思われる。それらの動向について、海野弘『ホモセクシャルの世界史』 (文春文庫)、リリアン・フェダマンの『レスビアンの歴史』 (富岡明美、原美奈子訳、筑摩書房)が参考になる。また最近になって、ロバート・オールドリッチのビジュアルな『同性愛の歴史』 田中英史田口孝夫訳、東洋書林)も出た。

ホモセクシャルの世界史 レスビアンの歴史

それは日本でも同様で、これまで取り上げてきたように、大正時代には山崎俊夫、倉田啓明、佐治祐吉などのホモセクシャルな世界が近代小説として描かれることになった。それに当時の同人誌に集った人々を見てみると、今東光川端康成の関係にホモセクシャルなニュアンスが漂っているし、彼らのような例は枚挙にいとまがない。このほど刊行された丹尾安典の『男色の景色』 (新潮社)は、日本文化に根ざす男色の光景を追求し、現代文学まで及んでいて、触発されることも多い。だがさらに踏みこんで明治大正文学を詳細に検討すれば、男色のパースペクティブは限りなく拡がり、まだ多くの作品が挙げられるのではないだろうか。
男色の景色
大正時代にはその一方で、日本特有の男色研究も始まっている。それは南方熊楠岩田準一中山太郎江戸川乱歩稲垣足穂を経て、今東光まで継承されたと見なしていい。さらに男色についての研究は残さなかったのが、折口信夫も明らかに同じ陣営に属していた。また柳田国男民俗学に性を持ちこむことを避け、男色も遠ざけていたが、彼と田山花袋の関係は、今や川端とも異なるホモセクシャルな傾向を示していたように思われる。

さて南方の男色論は岩田準一との往復書簡を一冊にまとめた『南方熊楠男色談義』 (長谷川興蔵他編、八坂書房)として刊行されている。これには足穂の「南方熊楠児談義」と乱歩の「同性愛文学史」も収録され、用意周到の男色論集成であるが、ここでは南方の男色論に踏みこまず、彼の出版にまつわる事実を書いてみよう。なぜならば、梅原北明の出版人脈が南方の最初の著作を刊行し、また梅原の盟友酒井潔は紀州田辺へ出かけ、「南方先生訪問記」を発表している。つまり南方熊楠は梅原人脈によって発見され、酒井にとって彼は崇拝の対象ですらあった。

だが書簡の中で、南方は酒井の『薫苑夜話』(三笠書房)にふれ、口絵写真に自分の葉書を掲載したり、収録の「訪問記」に勝手に自分の絵を入れたりしたことがあってか、酒井を「はなはだしきいかさま師」と呼び、岩田準一も梅原一派の「インチキ者」と応じている。「はなはだ」梅原も酒井も評判が悪いが、二人が組織した出版ネットワークの中から、南方もまた著者としてデビューしてきたことは間違いない事実なのだ。

これも[古本夜話]で既述しているが、南方の最初の著作は、大正十五年二月に坂本書店から刊行された『南方閑話』で、編輯責任者を本山桂川とする「閑話叢書」の第一巻となっている。もちろん発行者は坂本篤である。岡書院の『南方随筆』 は同年五月出版だから、三ヵ月先行していたことになる。『南方閑話』の印税にまつわる話を岡茂雄が『本屋風情』 (中公文庫)の中で、イニシャルを用いて書いている。
本屋風情

 大正十五年の春『南方随筆』 上梓の少し前、S書店から『南方閑話』が出版されているが、その世話をしたM氏が、翁に届けられたものは、その何冊かと金三十円だけで、もう何冊送ってくれといったら、それでは自分の手許が困ることになるといってきた。(後略)

つまり『南方閑話』は三十円の買切原稿で、M=本山が企画編集し、発行所を坂本書店に依頼したと思われる。そして本山は三十円で南方の著作権譲渡を得たと見なした。奥付に版権所有者として本山の名前が記載され、検印の判も同様なのは著作権譲渡出版を意味しているのだろう。しかし編集費や製作費を負担したことにより、坂本書店に在庫の権利があり、それ以上の献本はできないので、前述のような返答になったと考えられる。当時のマイナーな出版の事情を垣間見せている。だがそのような事情を、南方も岡もまったく理解していなかったのである。南方はこれを契機に本山と絶縁したと岡に伝えている。『南方随筆』 は印税方式をとったとのことだが、さすがの南方にしても、金銭をめぐる当時の出版の複雑な関係と諸事情は理解の外のあったようだ。

悪魔学大全 1 悪魔学大全 2

個人雑誌『談奇』第五冊(昭和五年九月)に掲載された酒井の「南方先生訪問記」は、桃源社(現在は学研M文庫)の『悪魔学大全』 に再録されているので、『薫苑夜話』を入手しなくても、容易に読むことができる。後に「はなはだしきいかさま師」と南方から悪しざまに言われるのが気の毒なほど、酒井は襟を正して、「南方先生訪問記」を次のように書き出している。「南方熊楠先生が蟠居する紀州田辺は、永いこと私の聖地(メッカ)だった」と。酒井は自分の名刺、斎藤昌三の好意で得た紹介状、自著の『愛の魔術』 (国際文献刊行会、桃源社復刻)や『巴里上海歓楽御案内』(竹酔書房)など三冊に加えて、手土産も持参し、南方の自宅を訪れた。だが取次の老人が出てきて、病いのために面会は断わると言われたので、本を預け、宿所を書き残し、帰ってきた。すると五日後に南方の秘書雑賀貞次郎が現われ、面会許可を告げた。そして再び酒井は南方の自宅に赴き、南方と初めて対面する。

 斯うして相対して見ると、どうして例の重瞳とでも云う可き特徴のある、射るような三角眼が太い眉毛の下でギョロリと光る有様なんかは、老いて益々旺なりと云う言葉を如実に物語っている。
 裸身白湯巻の肥大な先生がキチンとかしこまって坐って居る様を想像し給え。其のユーモラスの恰好たらない。

この姿を酒井は「書斎裡の南方熊楠先生像」として自ら描き、掲載して「最近の先生の偉容」を伝えようとしている。これも南方の怒りをかうようなものではなく、他に見られない南方の「ユーモラス」なポートレートに仕上がり、酒井の南方に対する敬意に充ちている。昔の純浮世絵式日本美人のことから古代ギリシャの絵画彫刻、宦者、英国時代の話、世界の性的笑話、心霊科学、蛇と粘菌の標本と話は次から次へと弾み、夜中の三時半にまで及んだ。午後の七時半から始まったので、正味八時間が経っていた。「君は若いのだから本当の学者になれ」と南方から言われたことを記し、南方の「人類の為に百までの御長寿を祈って此の記事を終る」と酒井は「南方先生訪問記」を結んでいる。

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