出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

1 東北書房と『黒流』



まえがき
この論稿は四年前に書かれたものである。私が住む地方は日系ブラジル人があふれるようになり、十年ほど前に始まった日系ブラジル人たちとの本格的な混住社会に移行する段階へと至ったことを実感するようになった。日系ブラジル人といっても外見的にそう見えるのは一割にも充たず、容貌も肌や髪の色も多様で、このような混住社会は二一世紀にはいって初めて出現したものだった。

つまりそれは私たちが海外移住するのではなく、迎える側に立ったことを意味している。この混住社会はどのようなものになっていくのだろうか。また日本からの海外移住者たちはどのような経験のうちに、外国の混住社会へと入っていったのだろうかという問い、及びグローバリゼーションの動向も浮かび上がってきた。

そのような時に『黒流』を入手したこともあり、この一編を書いたのである。しかしリーマンショック後に日系ブラジル人たちはドラスチックなリストラにさらされ、以前とは比べられないほど少数になってしまった。

だが状況は変わったにしても、混住社会問題は解決されたわけでもないので、修正を加えず、そのまま掲載することにした。


1 東北書房と『黒流』
どのような得体のしれない古本でも、数年間手元に置いておけば、作者、作品、出版社についての記述や手がかりが見つかるはずなのに、わずかな周辺事情しかつかめない本も存在する。しかもそれは小説なのである。ここに書くことで読者のご教示を得たいと思う。

その本は長篇小説『黒流』と題され、佐藤吉郎著、東北書房版とあり、箱入四六判、六百五十ページに及び、長篇小説にふさわしい厚さだった。奥付を見ると、大正十四年十月発行、定価二円八十銭、発行者は唐橋重政、発行所は東京都本郷区駒込千駄木町、東北書房と記されていた。ところが様々な文学事典を繰ってみても、佐藤吉郎の名前と『黒流』なる作品は発見できなかった。さらに近代出版史を調べても、東北書房と発行者の唐橋重政の名前は見つからず、作者、作品、出版社と揃って不明のままなのである。わずかにたどれたのは、水木岳竜訳著『最近世界に勃興したるマホメッド教』(大正十四年)と松川佐三の『一反六石取り松川式稲作増収法』(大正十五年)という東北書房の他の二冊の出版物の書名だけだった。
  

それに加えて、奥付に「大売捌所」として東京堂など六社が挙げられているので、取次、書店を経由して流通販売されたとわかるが、その最初に日本力行会という見慣れぬ取次名がすえられている。初めて目にする取次である。奇妙なのはそればかりでなく、印刷者の尾藤光之介、及び印刷所の開明堂の住所が浜松市元城町とあることで、どのような事情ゆえなのか、東京で発行されたにもかかわらず、地方で印刷されたことを示している。ちなみにこれは偶然だが、私の親しい浜松の古本屋時代舎の近くに印刷所があったことになる。だが残念ながら、『黒流』を入手したのは時代舎ではない。
このように作者や出版社からは何の手がかりもつかめないので、『黒流』を読むことによって物語のコアを浮かび上がらせ、佐藤吉郎という作者のプロフィルを把握するしかないだろう。まず表紙をめくると、扉に『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」の第六章二、三節の抜粋引用があり、エピグラフとなっている。それは次のようなものだ。

 ――われ観しに一匹の白馬を見たり之に乗れるもの弓を携ふ且冕(かんむり)を與へられたり彼常に勝てり又勝を得んとて出で行けり。
 ――之に乗れるもの地の平和を奪ひ且人々をして彼此(たがひ)に相殺さしむる權(ちから)を予(あたへ)られたり彼また巨(おほい)なる力を授けらる。

これは「ヨハネ黙示録」のよく知られた所謂「第七の封印」の章で、封印を解かれた「四つの活物」のうちの第一と第二の「活物」が出現する場面である。引用三節における第二の「活物」は「赤き馬」だが、あえて省略されている。『新約聖書』は米国聖書会刊行の大正六年改訳版を参照している。

小説のエピグラフとして、この「ヨハネ黙示録」の場面を掲げた作品をすぐに思い出すことができる。それはロシア・テロリズムの重苦しい勝利と挫折を描いたローブシン『蒼ざめた馬』(川崎浹訳、現代思潮社/工藤正広訳、晶文社)と『黒馬を見たり』(川崎浹訳、現代思潮社『漆黒の馬』として工藤正広訳、晶文社)で、前書は第四の「活物」の「蒼ざめたる馬」、後書は第三の「活物」の「黒き馬」をエピグラフに掲げていて、『黒流』と同様にエピグラフが物語の内実と行方を告げてもいた。ロープシンはナロードニキの流れをくむ左翼社会革命党の戦闘団副隊長だったサヴィンコフのペンネームであり、両書とも大正時代に翻訳刊行されているので、凶々しいエピグラフの共通性から推測するに佐藤吉郎が読んでいた可能性も高い。初訳の『蒼ざめたる馬』は大正九年青野季吉訳で冬夏社、『黒馬を見たり』は同十三年に黒田乙吉訳で随筆社から出版されているからだ。
蒼ざめた馬

『黒流』に戻ると、その次のページに「著者小影」があり、そして「自序」が続いている。それは「今日地球上に於いて、最も重大な問題は、階級戦と人種戦である」という文章から始まり、『黒流』のテーマがその人種戦にあると述べられ、主人公についても言及している。

全篇を貫いての主人公である荒木雪夫は、其の名の示す如く日本人である。有色人種提携の急先鋒として立たねばならない、我が日本帝国の生み出した、人道と平和を渇仰して止まない青年である。けれど地に全き平和の来る前に、血を流さねばならない事を、余儀ない事と彼は信じて居る。それに運命の力もあつた。彼は白色人種の横暴の前に、毒を制するには毒を以つてするの例への如く、闇に叫ぶ人間となつた。けれど彼は竟ひに近代人である。英雄主義を遵奉しながらも、近代人のデリカシイから脱け去る事が出来ない人間である。
 そして遂に大悲劇的運命に逢着せねばならないのであつた。

このような主人公の説明、物語の状況と結末の暗示の後で、唐突に著者紹介が挿入されている。

 私は一箇の放浪者だ。十九の秋から八年の間は、殆んど南洋に、メキシコに、キユーバに、北米にと云ふ様に放浪の旅を続けて居た。それも他の漫遊者の様に旅費を持つての放浪ではなかつた。だから冒険的な放浪であつた。一寸日本に居る人達の想像の出来ない様な経験もして居るのは云ふ迄もない。

そして『黒流』は「此の放浪時代の紀(ママ)念塔」で、当初千五百枚の長篇だったが、少し長過ぎるように思われたので、「面白い處のみ取つて」約八百五十枚に縮めたとも述べている。『新約聖書』の引用からなるエピグラフ、著者のスーツ姿の端正な横顔写真、「自序」にある永遠の平和のための人種戦と待ち受けているような悲劇的結末、放浪時代についての記述など、イントロダクションのお膳立ては揃い、早く読み始めよとそそのかしているかのようだ。

次回へ続く。