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古本夜話58 マリイ・ストープス『結婚愛』

前回 矢野目源一が伊藤竹酔の国際文献刊行会から『補精学』なる訳書を刊行したことを記しておいた。そこで伊藤の名前を出したこと、及び本連載17 「『竹酔自叙伝』と朝香屋書店」で書き残したこともあるので、それを補足しておきたい。それはマリイ・ストープスの『結婚愛』(矢口達訳)についてである。

『結婚愛』は大正十三年に発禁処分を受け、三月に多くの伏字を施した改訂再版を刊行し、当時のベストセラーとなったようで、私の所持している一冊は同年五月刊行の四十版と奥付に記されている。これは簡単に言ってしまえば、結婚における性教育の重要さを説いたもので、一九一八年イギリスで出版され、一年間で七刷に達し、第二次世界大戦までに百万部売れ、十三ヵ国語に翻訳されたという。ヴァン・デ・ヴェルデの二六年刊行の『完全なる結婚』 (安田一郎訳、河出文庫)は、ストープスの『結婚愛』よりも優れた専門的で科学的な結婚入門書をめざして書かれているので、『結婚愛』はマリッジ・マニュアル本の先駆けだったことになる。戦後になって『結婚愛』 理論社から平井潔訳でも刊行され、後に社会思想社 教養文庫にも収録された。

ところがその後、私は『エマ・ゴールドマン自伝』 (ぱる出版)の訳者でもあるので、彼女と産児制限問題を調べるために、荻野美穂の「フェミニズムとバース・コントロール」のサブタイトルが付された『生殖の政治学』 山川出版社)を読んだ。するとこの著作が主としてマーガレット・サンガーとストープスに焦点が当てられ、「性の『予言者』マリー・ストープス」や「ストープスと異性愛の神話」といった章も設けられていた。そしてそこにはストープスの何枚もの写真、及びストープス・クリニックの写真が収録され、知らずにいたストープスの生涯を教えられた。それによれば、彼女は日本人研究者と恋愛関係になり、一九〇七年に来日し、一年半にわたって北海道を中心に滞在したが、恋愛は成就せず、〇九年に帰国している。このことを考慮すると、『結婚愛』の成立もこの日本人との恋愛の破局がモチーフの一端となっているのかもしれない。

エマ・ゴールドマン自伝 上 エマ・ゴールドマン自伝 下 生殖の政治学

アメリカのバース・コントロール運動の代名詞であったマーガレット・サンガーに対して、マリー・ストープスは一八八〇年に建築家の父と修士号を持つ文学研究者にしてフェミニズム運動にかかわる母との間に生まれた。両親は男女平等を尊重するきわめて知的な夫婦だったが、その愛情生活はあまり幸福ではなかったようで、マリーは性的知識から隔離された環境で成長した。

彼女は長じてロンドン大学で男子学生にまじって学び、一九〇二年に地質学、地理学、植物学の学位を得て、ミュンヘンに留学して、古植物学でPh.D.をとり、帰国してマンチェスター大学理学部初の女性教官となり、さらに二十五歳でロンドン大学から博士号を得て、イギリス最年少の理学博士となった。そして前述した日本人との恋愛関係が始まる。それを萩野は次のように書いている。

 このころ彼女は、ミュンヘンの研究所でいっしょだった日本人、東京帝国大学助教授で既婚者の藤井健次郎に好意をいだいており、彼の帰国後の一九〇七年、これを追うようなかたちで来日した。藤井は当時すでに妻と離婚していたが、二人の恋愛は結局成就せず、ストープスは一年半のあいだ、来日の公式の目的であった北海道を中心とする炭鉱での化石植物の採集と研究をおこなったのち、一九〇九年に帰国した。

いくつかの人名辞典を引いてみると、『[現代日本]朝日人物事典』 朝日新聞社)に藤井健次郎が立項されていた。藤井は一八六六年生まれとあるので、マリーよりも十四歳年長だったことになる。九二年に東京帝大理科植物学科を経て、一九〇一年よりドイツやイギリスへ留学、植物に関する細胞学、形態学、解剖学、化石学を学び、〇五年に帰国し、十一年教授となる。日本最初の遺伝学講座を担当し、「染色体らせん説」を唱え、「遺伝子」の命名者にして、植物化石学への貢献も大きいと記されている。

この植物学と遺伝学の研究者の地道な生涯の中に、マリー・ストープスとの恋愛事件が秘められているのだ。彼女にとっての日本での一年半に及ぶ滞在の記録は残されていないのだろうか。二人の恋愛がどうして成就しなかったのかも知りたいと思う。もし二人が結婚して、彼女が日本で暮らし、藤井と同じく植物学の研究者の道を歩んだとすれば、マリー・ストープスにはまったく異なる人生が待っていたことになり、『結婚愛』 も書かれなかったにちがいない。

しかし彼女は藤井と別れて帰国し、十一年にこれも植物学者で、しかも不能の夫と結婚する。そして自分たちの結婚が性的に成就せず、妊娠に至らないことも知り、十四年に結婚無効の訴えを起こし、ようやく二年後に認められた。『結婚愛』 の「序文」に「私も初婚に於いては性の智識を欠いて居つた為めに恐るべき犠牲を払つた」と書いているのは、これらの経緯と事情をさしている。そしてこれ以後、『結婚愛』 の著者として、大学を辞職し、結婚生活や性の問題に関する助言者、バース・コントロールのクリニックの開設に至り、イギリスで最初の女性セックス・カウンセラーとなっていったのである。

私たちの少年時代に、学年雑誌や芸能雑誌にドクトル・チエコというセックス・カウンセラーがよく出ていたが、それがマリー・ストープスに端を発していたと今になって了解される。

次回へ続く。

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