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古本夜話59 マリー・ストープスと能

もはや忘れられていたと思われるマリー・ストープスが再び召喚されたのは、一九九四年の荻野美穂の『生殖の政治学』 山川出版社)のようなバース・コントロール研究の領域ばかりではない。彼女は思いがけないことに、近年の比較文学研究において、これまで知られていなかった姿を現わし、能の翻訳者として、紹介されることになる。それは一九一三年にロンドンで出版されたPlays of Old Japan: The‘No’ であり、能は何人かの西洋人によって紹介、翻訳されつつあったが、一冊の単行本として刊行されたのはこれが初めてで、ストープスは西洋における最初の能の翻訳者であったことになる。二〇一〇年になって、これは二種類のペーパーバックで復刊された。

生殖の政治学 Plays of Old Japan: The‘No’

このようなストープスの、バース・コントロールフェミニズム活動と異なる側面に焦点を当てたのは、一九九九年に刊行された成恵卿のイェイツとエズラ・パウンドの能との関係をテーマとする『西洋の夢幻能』 河出書房新社)であった。
西洋の夢幻能

エズラ・パウンドがアメリカ人にもかかわらず、二十世紀初頭のロンドンやパリのリトルマガジンと詩のモダニズム運動の中心人物で、まだ無名であったT・S・エリオットジェイムズ・ジョイスに大きな影響を与えたことはよく知られている。たまたま新訳が出されたばかりのエリオットの『荒地』 (岩崎宗治訳、岩波文庫)も、パウンドによる推敲と改稿を経たもので、冒頭に「『わたしにまさる言葉の匠』エズラ・パウンドへ」という献辞が掲げられている。
荒地

イェイツに能を知らしめたのもパウンドであった。モダニズム運動を推進していたパウンドのもとに、フェノロサの未亡人から夫の全遺稿が届けられ、その中に未完のままの能の翻訳草稿が含まれていた。日本語や能の知識もなかったが、パウンドは周囲の助けを得て、原稿の整理と編集にとりかかり、フェノロサの翻訳にも手を加え、一九一六年にNoh, or Accomplishment, A Study of the Classical Stage of Japan をロンドンで出版する。これはもちろん能の正確な紹介ではなかったにしても、成が言うように、「日本の能をすぐれた『文学』として、はじめて広く西洋に紹介した点で重要な意義をもつ」ものだった。イェイツはこの能の劇形式に大きな衝撃を受け、やがて『鷹の井戸』 松村みね子訳、角川書店)に始まる、能の影響を濃厚に示す一連の詩劇を書くことになる。
Noh, or Accomplishment, A Study of the Classical Stage of Japan

昭和円本時代に刊行された第一書房『近代劇全集』第二十五巻は「愛蘭土篇」で、その一巻はすべて松村みね子訳であり、彼女こそは芥川龍之介堀辰雄のミューズにして、他ならぬ第一書房パトロンヌであった。彼女は鈴木大拙夫人のビアトリスの導きによって、アイルランド文学の翻訳に携わることになったのである。またこの巻には西脇マジヨリイによる「舞台装置挿絵」が全作品に付されているが、彼女は後に『荒地』創元社)の訳者ともなる西脇順三郎の夫人で、当時の日本におけるケルト文化とアイルランド文学をめぐる特異な環境、および女性たちの交錯した配置を浮かび上がらせている。もちろんこの中にストープスも含められることになる。

さて前置きが長くなってしまったが、成が『西洋の夢幻能』 において明らかにしたのは、ストープスの能の訳書出版がパウンドより先駆けるもので、その背景に前回記した彼女の藤井健次郎との恋愛、及び日本での滞在体験が秘められていたことである。それらはストープスが帰国後に同じく刊行した日本滞在記や匿名での藤井との往復書簡集の参照によっている。

一九〇三年、ストープスと藤井はミュンヘン大学植物研究所で出会い、それが恋へと発展していった。彼女は二十三歳、藤井は三十七歳で、彼は妻帯していたが、その留学中に妻は他の男と恋に陥り、離婚を求めていた。それがストープスとの恋を加速させた。〇五年に二人は秘密婚約に至り、藤井は帰国して離婚も成立し、〇七年にストープスはロイヤル・ソサエティ助成金を得て、北海道の白亜質の化石と石炭の調査名目で、単身来日した。当然のことながら、彼女の来日目的は藤井との恋の成就にあったが、ストープスを迎えた彼の態度は変化し、かつてのロマンスはまったく進展しなかった。共同研究に携わったが、ストープスの心は乱れ、深く傷つき、〇九年に彼女は帰国するしかなかった。

ストープスの日本滞在にあって、藤井との関係とは別に、彼女をあたたかく見守っていたのは、東京帝大の理科大学長の桜井錠二だった。桜井も藤井と同様に、『[現代日本]朝日人物事典』 朝日新聞社)に立項されている。その後理学振興に専念、理化学研究所設立、三七年には渡英し、親英家として険悪化した日英関係打開に努めたが、ならずして、二年後の苦悶のうちに世を去るとある。

この桜井に誘われ、ストープスは能を観に出かけ、その劇世界に魅了され、先述の能の訳書を帰国後、出版に至るのである。そしてこの共訳者は桜井だった。ストープスはその「解説」の中で、次のように書いているという。成恵卿の訳文を再引用する。

 一週間を僅か数シリングで生活する貧しい学生が、月を相手に謡を謡いながら夜を過ごすのを見たこともあった。実際、私が数ヵ月を過ごした東京の家の近くにはそのような青年が住んでいた。彼の謡い声は私に、物悲しいロマンスと不思議な美しさを感じさせた。(中略)彼の練習する謡い声は、私がバルコニーで一人、太陽の沈んだ後の富士山を眺めながら過ごした数多くの夜、しばしば聞こえてきた。きらきら輝く東洋の星空の下で聞いた。その悲しみに沈んだ悲劇的な謡声は、私に忘れがたい深い印象を残した。私の能への愛着と理解(中略)は、私のこういった経験から生まれたものである。

ここに成はストープスの失意の傷の表出を見ている。私たちもここに、一九〇八年の日本におけるイギリス女性が見ていた日本の風景と能、それに投影された恋の悲劇の痕跡を見出すことができる。ストープスにこのような体験があったことを、『結婚愛』の矢口達を始めとする日本の訳者たちは知っていたのだろうか。

また成恵卿は、老人と若者の水をめぐる対立劇『鷹の井戸』 がイェイツと同じアイルランド出身のベケット『ゴドーを待ちながら』(安堂信也他訳、白水社)に継承されたのではないかという推論を提出している。とすれば、ストープスの日本での能の体験とイギリスでの出版もまた、『ゴドーを待ちながら』に間接的に投影されているのかもしれない。

ゴドーを待ちながら

なお〇五年に、ジューン・ローズによる『性の革命 マリー・ストープス伝』 (上村哲彦他訳 関西大学出版部)も出ている。
性の革命 マリー・ストープス伝

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