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古本夜話64 典文社印刷所と蘭台山房『院曲サロメ』

これはまったく偶然であるが、平井功の「古逸叢書」の遺志を継いだ者が存在していたことを知った。それは土井庄一郎の「築地書館の50年」というサブタイトルが付された社史『めぐりあいし人びと』築地書館)においてだった。一章の「父の思い出」の扉に、オスカア・ワイルド原作、アウブリ・ビヤヅリ挿画、日夏耿之介翻訳の『院曲サロメ』の書影が掲載され、出版社は東都書林 蘭台山房とあった。
めぐりあいし人びと (沖積社版)

だがこの本に関する説明は何もなく、土井の本を読んでいくと、父の儀一郎が築地で典文社印刷所を営み、昭和四年から十年代にかけて、書物展望社や昭森社や版画荘の愛蔵版、限定趣味版の注文を受けていたことが述べられ、十六冊のタイトルと書影が掲載され、その中に萩原朔太郎の『定本青猫』(版画荘)もあるとわかる。

それから土井儀一郎が以前に勤めていた木挽町の鷲見文友堂で、安藤更生たちが大正十四年に創刊した同人誌『銀座』の印刷人を担当していたこと、また築地書館が印刷業を母胎にして、昭和二十八年に立ち上がったことなども書かれている。

『院曲サロメ』は章の扉への表紙の掲載だけで、その後に何の言及もないが、おそらく愛蔵版や限定趣味版も可能な印刷所であることで、持ちこまれた一冊であろう。そしてそれらの中でも土井にとって、父が送り出した最も印象深い本だったゆえに、冒頭に置かれたと思われる。著者、画家、訳者の組み合わせと装丁、タイポグラフィは紛れもなく平井功の企画と意匠を彷彿とさせ、典文社印刷所においても、特筆すべき本だったのかもしれない。

その表紙を眺めているうちに、もちろん戦前の本ではないけれど、同じタイトルの本を二十年以上前にゾッキ本で買ったことを思い出した。探してみると出てきた。表題はサロメに漢字が使われ、『院曲撒羅米』となっていて、判型はほぼ重箱判に近く、帯文には「奇書、絢爛たる語彙の駆使によって、オスカア・ワイルド原作『サロメ』の凶々しい悲劇性を最も鮮烈に再創造した日夏耿之介の不朽の名作」で、ビアズレイの最高傑作挿絵全十七点収載とも書かれていた。版元は東出版、昭和五十二年の刊行で、定価は千八百円だった。きっと売れ残り部数が東出版の事情で古本市場に放出され、そのうちの一冊を私が拾ったことになるのだろう。

日夏による「院曲撒羅米小引」が巻頭に置かれ、そのうちのふたつは次のような文言である。

 一、曲中人物ノ宛字ハ漢訳聖書上海美華書館同治四年本中ノ文字ヲ多ク採リ用ヒタリ。美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ。
 一、コノ訳書ヲモテ院曲撒羅米ノワガ定本タラシム。コレ訳詩大鴉ト共ニ拙訳詩曲類中何トナクタダ最モ自ラ愛玩暗喜スルモノ也。

もうひとつは一九〇七年刊行の翻訳原本表記なので省略した。この日夏の「小引」を読んだだけでも、『院曲サロメ』の印刷が特殊な技能、及び新たな活字の調達の必要がわかるし、典文社印刷所の高度な印刷レベルが伝わってくる。

そして東出版の「あとがき」には第一書房『近代劇全集』収録の一編が、昭和十三年に蘭台山房より定本大型豪華本として刊行され、それを定本として昭和五十年に限定版を出版し、その普及小型版が本書だという言葉が添えられていた。

確か『サロメ』は『日夏耿之介全集』河出書房新社)にもあるはずだと思い、調べてみると、第二巻「訳詩・翻訳」に収録されていた。だがこちらは挿絵は掲載されておらず、やはり挿画入りを見た後では物足りない気がする。『近代劇全集』第四十一巻所収も同様である。
日夏耿之介全集

ワイルドの『サロメ』は一八九三年にフランス語で書かれ、九四年に彼の同性愛のパートナーのアルフレッド・ダグラスによって英訳され、オーブリ・ビアズリーの挿画入りで刊行された。これらの事情についてはS・ワイントラウブの『ビアズリー伝』(高儀進訳、中公文庫)が詳しく、「オーブリーとオスカー」の一章が設けられている。

サロメ ビアズリー伝

『ビアズリー伝』でも指摘しているが、日夏も『全集』所収の「『サロメ』解題」で、ビアズリーの挿画の批評性を二枚の「サロメ化粧す」の中に見ている。『サロメ』は古代の物語にもかかわらず、挿画の化粧の場面において、近代的な化粧品と棚のところに、ゾラの『ナナ』『大地』、ボードレールの『悪の華』、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』などを並べ、『サロメ』が古代の物語であるばかりでなく、現代の物語でもあることを暗示させているかのようだ。それゆえに挿画が加わることで、二人の『サロメ』という「共同舞台」が出現したのであり、劇と挿画の不可分の関係性を教えてくれる。

ナナ 大地 悪の華 マノン・レスコー

しかしそれらはともかく東出版の「あとがき」と同様に、『全集』の井村君江の「解題」も『サロメ』は蘭台山房発行とあるだけで、出版事情、出版者、編集者について、何も記されていなかった。平井功の衣鉢を継いだと思われる出版者は一体誰だったのだろうか。

なおこの一文を書いてから、この出版者が昭森社の森谷均だったこと、また未見であるが、〇五年に沖積社から『院曲サロメ』が復刻されていることを知った。

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