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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

12 『黒流』という物語の終わり

  

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現


12 『黒流』という物語の終わり
一方で荒木たちは飛行機でロスアンゼルスからサンフランシスコに向かっていた。飛行機は海辺の砂丘の上に着陸した。その日は大晦日だった。

 静かな冬の空に、夕陽が金色の光りを残して沈む処だつた。詩的情操に乏しい人間でも瞬間的には在る厳粛な気分を起さずに居られない様な悲痛な落陽(サンセット)であつた。飛行機から降りた一同はその砂丘の上に立つた儘その夕陽を凝視した。一年の終りを告げる壮厳な面持ちが夕陽の全面に漂ふて居る様であつた。

それはまた『黒流』という物語の終わりを告げているようでもあった。

荒木たちは吸血鬼団本部に戻り、地下室に降りていくと、そこにいた全員が飛んできた。トンワングが妻となるメイランを荒木に紹介しようとした。安楽椅子の上に横になり、阿片を吸って恍惚としている女を荒木は見た。

 荒木は其の女の顔を注視した瞬間に、雷に打たれた様な感じがした。
 彼の眼は失明した様に何も見えなくなつた。何も聞こえなかつた。
 今眼に入つた驚くべき雷光に依つて彼の頭脳からは、総ての理想が全く焼き尽されて終つた。そして情熱が、台風の様に捲(ま)き起つた。それは、天にも届く程の情熱の炎だつた。彼は大声を出して叫ぼうとした。けれど、其の努力も空しかつた。彼は突立つた儘、失神した様に、女の顔を凝視した。

しばらくしてメイランも荒木の顔を見た。荒木は「春子!」、春子も驚嘆と歓喜のうちに「荒木さん!」と互いに叫び合った。「荒木は其の瞬間凡ての邪悪から脱けて正義の心に立ち帰つた」。良心と人間性、哀愁と自責の念を抑えつけ、「凡ての邪悪」は「目的の前の手段、最高善に到達するがための過程」と捉え、実行してきた。そしてもたらされたものは目の前にある光景ではなかったのか。

 そうして策戦は成つた。彼の仕事はもう白人の牙城に向つて手を下された。彼の意気はいやが上にも昂(あが)つている。然かも、這の時、そこに先ず阿片の魔力に檎(とら)へられた彼の第一の愛人、生命にも替(か)え難き恋人が救ふことの出来ぬ姿となつて現れたのだ。
 何といふ皮肉だ! 何といふ恐ろしい事だ…………彼の眼には自分が現在(いま)まで目的のために堕落さした幾多の女の顔が幻影(ブイジヨン)となつて現れて来た。其女達の顔は一斉に彼を嘲笑して居た。

そしていきなり死の場面が訪れる。

 「春子死なう!」
 「嬉しいわ! 妾は幸福だわ……」
 彼女は男の唇に接吻した。
 次の瞬間に、荒木は剛島から貰った短刀を懐中から出した。彼はその鞘を払ふと春子の咽喉(のど)を抉つた。そして自分の頸動脈を力任せに切つた。二人共苦悶は見せなかつた。春子は笑顔の儘で息を引き取つた。荒木は流れ出る鮮血をみながら快(こころ)よげに微笑んだ。まるで電光石火の早業と云つて差支へのない程の敏速な行動であつた。

荒木にならつて、ローザは拳銃で、リイも短刀で自害する。荒木は出血のため蒼ざめていった。「一同は彼の最後に侍(じ)して只無言の儘で、人生の厳粛な悲劇場面(トラヂデカルシーン)を見て居るのだつた」。お花に手を取られ、剛島が呼びかける中で、荒木は別れの言葉を発し、息を引き取った。そして次の二行で、この長かった『黒流』という物語は終わっている。

 お花の慟哭に誘はれて一同は号泣し出した。
 除夜の夜は、濃く深く更けて行つた。

次回へ続く。