出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話131 生活社、鐡村大二、小島輝正

考えてみれば、すでに四十年以上前から気になっている出版社があって、出版業界のことを調べるようになってからも、かなり注意しているのだが、詳細を把握できない版元が存在する。それは前回取り上げた米倉二郎『東亜地政学序説』の生活社である。

これは確か澁澤龍彦がどこかで類書がないと書いていたこともあってだと思うが、十代の終わりに田中秀央の『ラテン文学史』を買い求めている。あらためて確かめてみると、生活社から昭和十八年に刊行されたもので、当時田中が京都大学教授だったとわかる。その「緒言」や巻末広告を見ると、これが「ギリシャ・ラテン叢書」の一冊として刊行され、残念なことに「近刊」とある同じ田中の『古代ギリシャ文学史』は未刊に終わったのだろう。それでも『ラテン文学史』は澁澤が書いたように、類書のない貴重な一冊だったゆえに、一九九〇年代に名古屋大学出版会から復刻され、今でも読み継がれていることは慶賀とすべきだろう。

「出版新体制下」において、田中がいうように「生活社が西洋古典文学の原典に拠る邦訳といふまことに有意義なる叢書の刊行計画」を実現させたのは、相当な配慮と根回しを必要としたと思われる。

それに加えて、『ラテン文学史』と同年に中山省三郎の『露西亜文学手帖』が出され、その奥付裏には外国文学者のエッセイを主とする「生活選書」既刊・近刊二十五冊が並び、生活社がそれらの分野の著者たちの近傍にあることがうかがわれる。その他に横光利一の随筆集『刺羽集』も入手している。

また地政学絡みの「東亜研究叢書」のことは既述したが、昭和十六年に東亜外交史研究会訳として、フランスのロシア研究者ガストン・カーエンの『露支交渉史序説』も刊行されている。大東亜共栄圏とは米倉の『東亜地政学序説』に示されているように、日本、満州国、支那、アジア中央高原、印度支那半島、南洋を対象としているが、「亜細亜中央高原」をさらに拡大させれば、回教圏すらも含まれることになる。それゆえに地政学は広く応用されるべきであり、その一環としてカーエンの特殊な専門書の翻訳が刊行されたと解釈するしかない。

この「訳者小序」において、訳者が出石誠彦、沼田鞆雄、久野昇一、矢澤利彦とあり、「東洋文庫内東亜外交史研究会同人」と記されているので、昭和十四年発行の『東洋文庫十五年史』に目を通してみると、職員名簿に四人の名前があった。おそらくこのような事実から考えても、大東亜共栄圏のビジョンは日本のみならず、海外植民地の大学や図書館も様々な研究会も総動員され、複雑にして奇怪な妄想までもが取り入れられていったように思える。それは本連載でずっと言及してきたとおりだ。

それから最も注目すべき翻訳書は、上巻しか持っていないが、フレーザーの『金枝篇』(永橋卓介訳)である。これは本連載で後述するつもりだ。
しかしこのように生活社の本は様々に入手できても、生活社の住所が神田須田町で、発行社が鐡村大二であること、『現代出版文化人総覧』(協同出版社)などによって、彼が広島県出身で、早大独文科、雑誌の編集者を経て、生活社に至っていること、柳田国男の「炭焼日記」に『金枝篇』も含めた生活社への言及がしばしばあり、生活社が柳田の周辺に位置していたことの他に、この出版社に関するはっきりした輪郭がつかめないでいた。

ところが『彷徨月刊』〇二年三月号が「とある出版社の足あと」特集を組み、そこに雑本探検家として河内紀が、「鐡村大二と『生活社』」を寄稿し、それまで知らなかった生活社のことを教えられたのである。なおこの号には、私も「鐡塔書院」を寄せている。

河内は生活社が昭和十五年に大政翼賛会の肝いりで出したと思われる冊子『婦人の生活』から始め、この判型、デザイン、レイアウトのすべてが戦後創刊される『暮しの手帖』に酷似していると述べ、大政翼賛会宣伝部に所属していた花森安治が関係していたのではないかと推測している。そして河内は生活社が『中国文学』と『東亜問題』というふたつの雑誌、私が挙げたシリーズ物の他に「中国文学叢書」「蒙古研究叢書」、小冊子の「日本叢書」を刊行し、「大東亜共栄圏の拡大と歩調を合わせながら」、ジャンルが次々に増えていったと指摘している。
暮しの手帖

また鐡村自身の『揚子江ノアヒル』を含む絵本シリーズを出していたことも、書影入りで紹介し、戦後の昭和二十一年頃に発行者が鐡村大二から鐡村真一に変わり、二十四年頃に消滅したようだと書いている。私も、生活社の戦後の岡崎義恵の『漱石と微笑』を持っているが、確かに発行者名は変わっている。後に真一は大二の兄であることを知ったが、日配の封鎖と出版危機に遭遇し、バトンタッチも功を奏せず、生活社も消滅するに至ったと考えるべきだろう。

しかし最も驚いたのはいつも記している出版の連鎖であり、生活社から春山行夫が『満州風物誌』『台湾風物誌』を出し、戦後の生活社に本連載116でふれた『春山行夫ノート』を書いた小島輝正が入社していたことだ。しかし、小島の『ディアボロの歌』(編集工房ノア)と所収の「自筆年譜」によれば、当時の生活社は経営不振きわまりなく、小島は自分で洛陽書院なる出版社を始めるが、こちらも渡辺一夫訳『フランス百綺譚』など数点を出しただけで倒産してしまったという。おそらく洛陽書院のような例は無数にあったにちがいない。

小島のエッセイには、生活社の他にも田宮虎彦の文明社に在籍していたこと、ベストセラーとなったゲオルギウ『二十五時』(河盛好蔵訳、筑摩書房)の下訳で息をついだこと、最初の訳書がアルドゥーアン『ハートの女王』(ダヴィッド社)であったことなどのエピソードが詰めこまれ、彼の戦時中の仏印体験とともに興味深い。

しかし残念なことに、それらのエピソードに比べ、生活社への言及はわずかしかないので、やはりここでも生活社の詳細は多彩な出版物と裏腹に浮かび上がってこない。河内がいっているように、「鐡村が裏方に徹することに決めていたのかどうか」はわからないけれど、「どうしても鐡村の素顔が浮かんでこない」ことも確かなのだ。

これだけ大東亜共栄圏絡みの出版物を刊行するためには、それなりの政治力と経済力、多様な人脈と優れた編集者たちの存在が不可欠だったと思われるが、それらの影も薄く、鐡村と同様に浮かび上がってこない。そのような事情が重なっているために、これまで生活社のプロフィルが鮮明に描かれてこなかったのではないだろうか。


〈付記〉
「神保町系オタオタ日記」にも生活社と鐡村大二に関する言及があるので、こちらも参照されたい。それによって、六人社が生活社に吸収されたこと、鐡村が昭和二十一年六月に亡くなったこと、竹内好の『中国文学』に関する証言などを知った。
また「神保町系オタオタ日記」も挙げているが、「daily-sumus」の
「鐡村大二と生活社」もぜひ目を通してほしい。

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