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古本夜話145  安彦良和『虹色のトロツキー』、『合気道開祖植芝盛平伝』、出版芸術社

大正から昭和にかけての新たなる宗教や霊術、治療法や健康法をめぐる人々の中に、武術家たちをも見出すことができる。そのうちの二人はいずれも二十世紀末になって、安彦良和により、コミックの中に召喚され、主人公に寄り添う特異なキャラクター像を表出させ、強い印象を残す。その二人とは武田惣角植芝盛平である。

武田は会津生まれの大東流合気柔術の祖とされ、生涯にわたって道場を持たず、全国を武者修行的に踏破し、武術家として多くの弟子に教授し、植芝は彼の高弟で、合気道の創始である。安彦は『王道の狗』講談社白泉社)において、明治中期の自由民権運動を背景に大阪事件などに関わり、北海道の監獄につながれ、脱獄し、アイヌに助けられた自由党員加納周助を、放浪の武術家武田惣角に弟子入りさせ、加納を「王道」へと進ませるイニシエーションならしめている。また同じく『虹色のトロツキー』潮出版社、中公文庫、双葉社)にあっては、昭和十年代の満州における関東軍と建国大学を舞台とし、植芝は建国大学の合気道師範、並びに関東軍人脈の謎めいた存在として、物語を横断しながら登場してくる。また主人公の日蒙混血児のウムボルトの死んだ父の深見と植芝は旧知のようなのだ。

王道の狗 虹色のトロツキー

『王道の狗』『虹色のトロツキー』の発表年代は逆だが、時代背景や武田と植芝の関係から、前者を先に紹介した。しかしここでは二作を論じることはできないので、本連載のテーマと重なる『虹色のトロツキー』について続けてみたい。『虹色のトロツキー』は物語が進んでいくうちに、建国大学特別研修生ウムボルトが元奉天師範の赤化学生で、その父の深見圭介が満蒙独立運動に関わり、関東軍石原莞爾陸軍士官学校同期の友人で、満鉄に入り、ロシア赤軍トロツキーとも面識があり、張作霖爆破事件に絡んで、ウムボルトが生まれた新疆で殺された事実が浮かび上がってくる。

ウムボルトはパインタラ(通遼)の憲兵隊の隊長室に掲げられていた一枚の写真を目にする。そこには手を捕縛された六人の男たちが写っていて、その一人が植芝だった。この写真は何かと問うウムボルトに対して、隊長は述懐する。

 「ああ、そりゃあ……十何年か昔の事件記録だ。
 出口王仁三郎といういかさま宗教家が内地からやって来た。そいつらはその徒党だ。
 王仁め! 蒙古人の無知蒙昧をいいことにジンギスカンの子孫だとぬかして一旗あげおった。
 が! ここ通遼でその悪運も尽きた。張作霖に攻め滅ぼされひっくくられて、あわや銃殺というところを、我が国のメンツに救けられたのだ。」

大本教出口王仁三郎が大正十一年の弾圧後に、中国の道院・紅卍学会と結んで中国へ進出し、同十三年に宗教国家の建設を構想し、内モンゴルへと向かい、捕えられた事件がこのように語られているのだ。しかも隊長の「ジンギスカンの子孫」発言からすれば、そのモンゴル入りは小谷部全一郎の『成吉思汗ハ義経也』に端を発していると解釈してもいいだろう。

そればかりではない。深見圭介は大正七年のシベリア出兵において、安江仙弘とともに陸軍中尉として従軍するにあたり、写した記念写真も掲載されている。安江はいうまでもなく、内外書房によった反ユダヤプロパガンディストのひとりであり、彼も大連特務機関長として、『虹色のトロツキー』の主要人物に数えられる。かくしてここに「偽国家」満州を舞台とする『虹色のトロツキー』は田中智学の国柱会の強固な日蓮信者石原莞爾出口王仁三郎を始めとする大本教の面々、反ユダヤプロパガンディスト安江仙弘たちを物語の中枢に召喚し、幻視されたもうひとつの満州をコミック、近代史物語として提出している。そこに安彦良和の日本近代の生み出した偽史と偽国家への通底する凝視を見出すのは、私だけではないはずだ。

しかし『虹色のトロツキー』の物語のかたわらに植芝吉祥丸編著『合気道開祖植芝盛平伝』を置いてみると、安彦の紡ぎ出した物語はさらなるリアリティを付加することになる。武田惣角の生涯よりもはるかに詳細に、植芝は同書に十五ページに及ぶ「年譜」と多くの写真が収録されたことで、その特異な軌跡が明らかになった。植芝は明治十六年和歌山県西牟婁郡に生まれ、中学中退後に上京し、文房具、学用品仕入販売の植芝商会を営み、また日露戦争にも従軍する。その一方で古流柔術、剣術を学び、銃剣術は隊内一と謳われる。除隊後、帰郷して南方熊楠の神社合祀策反対運動に参加し、そして村内有志からなる「紀州団体」を結成し、北海道北見国白滝原野へ入植し、畑作、造林、鉄道救護も含めて白滝村を活況に導き、旅先で知った武田惣角を招いて私設道場を提供する。

合気道開祖植芝盛平伝

大正に入り、父の危篤を受け、白滝村におけるすべての財産を放棄し、田辺に帰郷する。父の死による打撃を受け、帰郷の途中に立ち寄った綾部で、大本教出口王仁三郎に会ったことから綾部へと移住し、出口の片腕として、八年間にわたって修行に励み、道場を開設し、武術を指導し、後にそれを「合気武術」と名づけた。

これが大正十三年の出口とともに満蒙にわたる前の植芝の経歴であり、帰国後の昭和を迎え、軍部からの武術家としての名声も高まり、東京の牛込区若松町に本格的合気道場の完成を見て、昭和六年から十四、五年にかけての合気道の第一期黄金時代を迎えることになる。この時期の植芝は、満州とその軍官民との関係が深かったとされ、それゆえに『虹色のトロツキー』へと召喚されているのだ。

この時代の写真に康徳五年十月(昭和十二年)の日付の入った「委囑建国大学武道顧問」なる任命証書、及び前述の出口などと奉天軍に捕えられた一枚も収録され、おそらく安彦が同書から写真とそのエピソードを引用したとわかる。偽史と偽国家に歴史の事実もオーバーラップさせ、『虹色のトロツキー』という物語が出現してきたことを、この写真は生々しく伝えてくれる。

なお最後に書き添えれば、初版『合気道開祖植芝盛平伝』は、昭和五十三年に講談社から刊行され、その担当編集者は講談社の探偵小説や推理小説に携わってきた原田裕であった。その原田が後に出版芸術社を興し、多くのミステリーを刊行していくことになるのだが、今回使用した改訂版『合気道開祖植芝盛平伝』は、平成二十年に同社から出版されている。そしてその巻末広告を見ると、合気道のテキスト、機関紙、ビデオなどが並び、出版芸術社合気道書をベースにして、ミステリーを刊行していることを知らしめている。またその「原田裕氏ロングインタビュー」が『本の雑誌』2007年9月号に掲載されてもいる。

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