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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

続『書棚と平台』を批評する 3

(この記事は続『書棚と平台』を批評する 1の続きです)

書棚と平台―出版流通というメディア

 柴野と星野に共通してみられる操作の共通性は、おそらく偶然ではない。二人の記述の背後に潜んでいるのは、学会の中にある、私の一連の出版に関する著作に対する面白くない思い、学会外にいる私を認めたくないという気分であり、それが二人の操作に象徴されて表出しているのだろう。それに加えて、様々な経緯と事情から、私とその著作を始末してしまいたいという学会のルサンチマンまで重なっているように思える。

 柴野がどこまで意識していたかわからないが、そのような学会の気分の代行者の役割を担い、誤まった「出版危機言説」見取図を前提にして、新たな研究を志向する本文を展開したことは残念としか言いようがない。それなのに彼女は「文献一覧」に、私の著作を共著も含めれば、6冊も掲載していて、他の著者と比べれば、異例の扱いとなっている。

 かつて仄聞したところによれば、拙著が刊行された時、トーハンや日販でも若手有志による読書会や勉強会がもたれ、書かれていることが事実だと認める結論に至ったという。柴野がそのメンバーだった可能性も高いし、そうでなくても読んでいたことは確実だろう。ひょっとして拙著がきっかけになって、彼女は出版史研究に赴いたのではないだろうか。しかし学会のバイアス、及び「エディターシップ」「文化的公共圏」「アソートメント」概念を導入したことによって、拙著を排除するしかなかったと思われる。拙著を認めてしまうと、取次の不良債権問題等に目を向けざるを得なくなり、研究論文が成立しなくなるからだ。それゆえに公正な研究者をよそおいながら、近年の出版史を歪曲する立場に至ったと考えられる。

 それに何よりも強調しておかなければならないのは、『出版社と書店はいかにして消えていくか』『ブックオフと出版業界』は、「話をややこしくしている」こととは無縁である。柴野は「問答形式」と形容しているが、どうして普通に「対談形式」と呼ばないのだろうか。私が「対談形式」を採用したのは、出版業界を形成する出版社、取次、書店の人々に出版危機の実態をわかりやすく伝えたいと思ったからだ。『出版社と書店はいかにして消えていくか』では、再販委託制による出版社・取次・書店という近代出版流通システムの終焉と破綻を記している。また『ブックオフと出版業界』では、再販委託制下での大量生産、大量消費された出版物をリサイクルするパラサイトとしてのブックオフの実態と、そのパートナーのCCC=TSUTAYAに言及している。だがこの二冊は研究書のような安全圏における出版ではないので、刊行に際し、業界からの追放と様々な告訴も覚悟するしかなかった。もちろん刊行に踏みきった出版社への風当たりは強く、担当編集者も辞職をかけてのことだった。

出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉 ブックオフと出版業界―ブックオフ・ビジネスの実像

 田中達治が『どすこい出版流通』の中で、『出版社と書店はいかにして消えていくか』について、「しかし10年前には考えられないこともこの本をめぐって起きつつある。この本の普及を妨害したり、揚げ足をとるような行動が業界にまったくみられないことだ」と書いているように、当時は著者にとっても出版社にとっても、ハイリスク極まりない出版に他ならなかったのである。田中は私に直接言った。「これで取次タブーはなくなった」と。だからその後の「出版危機言説」本は、拙著の切り開いた地平の上に出現しているのだ。

 どすこい 出版流通

 そしてまた前途を悩んでいた多くの書店が読み、傷が浅いうちにと廃業を決意したという。つまりその後さらに頻発して起きてくる自己破産だけは回避されたことになり、これは拙著の効用だったと考えていいだろう。

 それゆえに簡単に始末してほしくないし、私が様々なデータを駆使し、歴史構造分析を行ない、具体的に述べたこの二書が「出版危機言説」の根底に横たわり、現在に至ってもそれらの問題は何ら解決されず、放置されたままなのである。それどころか、ブックオフとCCC=TSUTAYA問題はさらに大きな比重を占めるようになったと誰もが認識しているはずだ。だが柴野の『書棚と平台』は、私の提起した問題の痕跡を残しながらも、学会の気分や研究ジャーゴンを無理に導入したことで、拙著よりはるかに後退し、危機の本質をずらしてしまったように思われる。

 それから福嶋聡だけでなく、他の読者たちも柴野の「話をややこしくしている」という言説に引かれているようだが、前述したようにそれは拙著のせいではなく、「続『書棚と平台』を批評する2」で示したおいた佐野眞一、柴野の師にあたる吉見俊哉や長谷川一の本や論考によっている。そして「話をややこしくしている」状況を推進したのは、『季刊・本とコンピュータ』である。「出版危機言説」ばかりではないが、まずはそれらの特集を見てみよう。ここでは特集タイトルを示し、年代順に並べてみる。

1 「本は変わるか?」(『別冊・本とコンピュータ』1) 99年8月
2 「オンライン書店大論争」(『別冊・本とコンピュータ』2) 00年4月
3 「人はなぜ、本を読まなくなったのか?」(『別冊・本とコンピュータ』4) 00年11月
4 「大議論それでも本に未来はある」(『本とコンピュータ叢書』) 01年10月
5 「読書は変わったか?」(『別冊・本とコンピュータ』5) 02年12月
6 「『本』のために『コンピュータ』はなにができたか」(『本とコンピュータ』第二期13) 04年秋号
7 「日本の読書習慣消えたのか?変わったのか?」(『本とコンピュータ』第二期14) 04年冬号
8 「出版再考このままでいいのか、わるいのか。それが問題だ!」(『本とコンピュータ』第二期15) 05年春号


 一冊の特集だけで、これらの8点が挙げられ、さらに『本とコンピュータ』本誌にも多くの関連記事や論考が掲載されている。多彩な論者たちが招かれ、私も何度か登場したり、寄稿したりしているが、各人の基本的出版認識と危機状況に対する視点に大いなる相違があり、ほとんど話がかみ合わないのである。それは編集部内のスタンスも同様だったと思われる。もう一度言及するが、柴野は「出版危機言説をめぐって」の結論として、18ページで次のように書いている。

 経営問題としての「出版不況」がまず背景としてあり、その原因として流通寡占や雑誌依存体質、再販制度にみられる固定的な商習慣などの産業構造が問題化した。それらの要素が、外部環境の変化や技術革新、活字幻想ともいえる教養主義的な言説と相まって未整理のまま俎上にあげられ、作家、ジャーナリスト、学者、編集者などの文化人とその予備軍である読書家のサークル、または業界関係者相互で、それぞれ論者の個人的な利害や思い入れによって個別に論議される。これが一〇年に及ぶ出版危機言説の実態であり、その範囲で尽くされる議論の中からは「問題」も「解決」もみえてこない。

 これは『本とコンピュータ』本誌と別冊の特集で展開された「出版危機言説の実態」の描写と解説である。柴野は少し前のところで、「いくつかの見るべき議論はあるももの、結果としては『論争』の域を出るまでに達していない」と書いたことを受け、「その範囲で尽くされる議論の中からは『問題』も『解決』もみえてこない」と記し、「一〇年に及ぶ出版危機言説の実態」だと総括している。

 しかしこれも操作された「言説」であって、『本とコンピュータ』の特集には当てはまるだろうが、拙著には適用できないだろう。なぜならば、拙著には「『解決』はみえてこない」にしても、「見るべき議論」「論争」「問題」はあふれんばかりに提出されているからだ。引用文に見られるように、彼女は巧妙に、「業界関係者」ではない「当事者」の私が提出した「言説」を排除している。それゆえに『本とコンピュータ』特集と拙著の「出版危機言説」の「混同」には異議を申し立てるしかない。このような彼女の「混同」こそが「話をややこしくしている」ことになるのだ。

(次回につづく)

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